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第56話 おしゃぶり

どのくらいそうしていただろう。角のネックレスの光が消えた。  僕と桜はいつのまにか、冥界に辿り着いたらしい。過去に見慣れた灰色の空を見て、安堵してしまったのは、不謹慎だろうか。  黒衣の人影がローブを翻す。  顔を見なくても、わかる。あの頃いつも嗅いでいたアプリコットの匂いが鼻先から逃げないから。 「阿月……」 「う……ジ、ス……っ」  僕は桜を抱きしめたまま、その広い胸に飛び込んだ。1年半ぶりに見るジスは何一つ変わっていなかった。きりりとした眉も、おへそまで付くくらいの黒髪も。とんがり耳も。全部、あの頃と同じまま。  ジスの腕の中でわんわんと泣きじゃくっていたら、つられて腕の中の桜もぐずり始める。 「ごめんよ。桜、ほら泣かないで」  桜を必死にあやす様子をジスがじっと見つめている。 「ふふ。そなたと似ていて、とてもかわいらしい。名前は、桜というのだね」 「うん……似てるかな」 「ああ。似ている。ほら、こうすれば」  ジスが、何かを取り出して桜の口に付けた。 「ちゅ?」  桜が不思議な表情を浮かべてジスを見上げる。水色のおしゃぶりだった。おしゃぶり自体には慣れているからか、桜は大人しくなった。 「ほら、そなたも」 「んっ」  ちゅ、と懐かしい唇が触れる。僕の唇を奪うと、何度も角度を変えて求められる。桜を抱っこしていることも忘れそうなくらい、とろけるキスをしてくれた。 「ほら、おとなしくなったろう?」 「……うん」  赤面する僕を他所にジスは桜の顔をじっと見ている。 「阿月様っ!」  ライアが乳母車を持って出迎えてくれた。 「ライア……っ。久しぶり。これ、乳母車?」  温もりのある白いシルク生地で、ふわふわとレースに囲まれたかわいらしい乳母車に見とれているとライアが少し肩をすくめて言う。 「メビウスと、わたしとで作ってみました。阿月様のお子様に合うように……と」  メビウスが、乳母車の後ろからひょっこりと姿を現した。 「メビウス。久しぶりだね。乳母車、とってもかわいいよ。ありがとう。早速、桜を乗せてもいい?」  メビウスの表情がぱっと明るくなる。黒目がちな瞳はうるうると波立っていた。 「もちろんっ! 抱っこするのも腰とか疲れるだろうしっ!」 「そしたら、桜。ここに座ってみようか」 「あうーあー」  おしゃぶりをむにむにしながら、桜が僕のことを見上げる。シュカ王子と似た表情に、胸が張り裂けそうになるが、切り替えなくちゃと自分の胸を軽く叩く。 「わあ。かわいい」  乳母車に乗った桜はまるで王子様のようだ。 「桜くんって名前なんですね」  ライアとメビウスが桜の顔を覗き込む。宴で人見知りだった桜だが、ライアとメビウスにはにこにことした表情を浮かべている。ほっとした。魔王様の見た目も個性的だけど、ジスがおしゃぶりをくれたらすぐに泣き止んだし。  乳母車を押しながら、僕はジスの部屋に通される。 「あれ、内装が変わってる?」  僕の疑問にライアが誇らしく答える。 「このお部屋は、新しく改築したジス様と阿月様、桜くんのお部屋です」  12畳ほどの空間に、キングサイズのベッドと大きなソファ、デスクなどが並んでいる。どれも新品で、毛玉ひとつない。 「桜くんは自分とメビウスが様子を見ておくので、ジス様の元へ行ってあげてください。きっと、話したいことがたくさんあるでしょうから」 「うん。ありがとう。桜のことよろしくね。たぶん今おねむで、うとうとしてるからこのまま乳母車に乗せて様子を見てもらえると助かるよ」 「任せなさい!」  メビウスが力こぶを作る。  そうだよね。メビウスは1児の母だから、頼りになるなあ。

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