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性自認

「俺とイヴさんが二人で会うようになったのは、ちょうど一年位前です。きっかけは横浜駅店の帰り、偶然あの二人を見かけたことでした」  組んだ左右の手を眺める來田が、二本の親指を互いに擦り合わせている。  言いにくい話なのが、その指の動きでわかってしまった。 「二人とも偽名で呼び合ってるけど、入会するとき身分証明はコピーしてる。住所は確か東京になってたけど、横浜が職場なんだろうか?」 「かもしれません、俺は聞かない方がいいと思って今でもわからないままです」  声を沈ませて語る來田を見て、彼の気持ちがイヴに傾いているのが伝わる。  縷紅草を訪れる人は、どこか後ろ暗い気持ちを持って来る人が大半だ。  今の世情は個人的な情報を漏らさない、曝け出さないというのが当たり前だ。  縷紅草も個人情報は慎重に扱っている。  客層はセンシティブな人が多いから、必要以上のことは尋ねない。これは鉄則だった。  性格上、自ら語ってくれる人も中には結構いる。だからといって、店側がそれを吹聴することなどあってはならない。  イヴとアユムのように、偽名で呼び合ったりするのは、施術を行う前の、なんというか、雰囲気作り? みたいなものだ。  自分たちはこれから別に世界の住人になり、現実を離れて二人で多幸感を味わう。そういった趣向をする客は二人以外にもいる。  みんなそれぞれ、縷紅草でのBDSMを楽しんでいる。  イヴとアユムはその中でも特殊だった。  二人はトランスジェンダーで、生まれた時に割り当てられた性別が、自身の性表現と異なる人間として生きてきた。  自身の中の葛藤と折り合いをつけるため、ここへ来る人の代表のように。  生まれ持った性自認に悩んだ挙句、カムアウトして非難を浴びる人もいれば、全てを隠し、他の人間と変わらない生活を送っている人もいる。  他人に知られたくない人間は、マイノリティの何十倍も気を使い『普通の性』を装って生きている。それに加えて、BDSMのように嗜虐的(しぎゃくてき)性向を合わせ持つタイプは、発散すべきところが限られる。  次第にストレスを溜め込み、それはきっと生活にも支障を来たしてくる。  イヴやアユムが縷紅草へ来る理由も、気兼ねなくオープンに性を晒せる場所だからだ。  そこで分かち合う二人の絆は強固なものだと、千乃は思っていた。  だからこそ、イヴと來田の関係は信じ難いものだった。 「俺もここで見る二人が全てだとは思ってません。でも二人の仲睦まじい姿の裏で彼らは苦しんでいたんですよ……」 「どういうことですか? あの二人の仲良さげなのって嘘だったってことなんですか」  縷紅草で過ごす二人の楽しげな様子を思いだし、処理が追い付けなくて声を荒げてしまった。 「ユキ君の言う通り、仲は悪くないんだよ。だけどイヴさんの心は壊れそうで、誰かが支えてあげないと限界だったんだ」 「もしかして、イヴさんはアユムさんから何かされてたんじゃないのか?」  紫煙を燻らせる八束の言葉で、來田の顔色が一変した。  それは千乃も同じで、思わず八束を凝視していた。 「……八束さんはあの二人から何か聞いてたんですか」  確信を突かれて驚く來田を目に、一つの光景が頭をよぎった。  それは千乃自身も見に覚えのあることだった。 「いや何も……。ただ、施術中に時折感じてたんだよ、アユムさんの少し違う空気を。イヴさんの動作に反応する視線とかね」 「そう……だったんですね。さすが八束さんだな」 「この仕事を長くしてりゃそうなるのかもな……」 「……イヴさんは悩んでたんです、アユムさんとの関係を。イヴさんは、アユムさんと別れを望んでました。自分の性自認が原因で」 「性自認か。トランスジェンダーの彼女には、俺たちには計り知れない悩みなんだろう。けど、それはアユムさんも同じだろ?」  八束の質問に、千乃も一緒にうんうんと同意するよう頷いた。 「二人は同棲してたんですけど、日々の生活の中でイブさんには葛藤があったんです」 「葛藤?」 「はい。それはアユムさんの体です。彼は性同一性障害で、女性の体を持ったです。イヴさんはそれを次第に受け入れることができなくなったんです。女性の身体の名残りを持つアユムさんを……」 「女性の体か。それを來田君が相談されてたのか」  顎に手を添え難しい顔を浮かべる八束に、千乃は二杯目の珈琲を注いだ。 「はい。イヴさんの根本はゲイなんです。見た目が男性のアユムさんを愛していた。でもアユムさんの体は女性の躯体が残っている。そしてイヴさん自身も、女装することを疑問に思っていた」 「要するに、イヴさんは『男性』が好きなんだな。それに気付いたと言うことか」  八束の言葉に來田が無言で首を縦に振った。 「偶然会ったとき、些細な喧嘩をしてイヴさんは家を飛び出してきたところでした。で、その日は俺の家に泊めたんです、ほっとけなくて。そこから俺も気になって、お互い連絡し合うようになりました」 「アユムさんもイヴさんもここでは穏やかで、二人ともがお互いを必要としていると思ってたのに……」 「人は見かけだけじゃ何も分からない。ましてやここに来る客は仮面をかぶってる人がほとんどだ。素性なんてわからないんだよ」  踏み込めない領域をもどかしく思うのか、八束が項垂れている。  八束の姿に千乃はやるせない気持ちになった。  この世界で長くいる八束でさえ、客の真意を計り知れることは困難なのだ。  千乃は浅はかな自分を叱責した。  バイトを始めて色んな人と会うようになり、彼らの根本を分かった気になっていただけなのかもしれない。 「出会ったころは、お互いの性的マイノリティを理解して付き合いが始まった。けどイヴさんの中で朧げだった違和感が、付き合いを重ねる度に輪郭が露になってきた。そう彼女は言ってました」  生まれたときは男性として、女性として、それぞれ生きて来た二人。  家族にすら告白出来ない状況だったのかもしれない。  同じ境遇、同じ運命を背負って生きてきた二人が出会い、お互いに執着するのは自然なことだと思える。  けれどそれ以上に深い悩みを抱えていたイヴは、來田と深い関係になり、それを再認識したのかもしれない。 「で、でもどうして、何でイヴさんは殺害されたんですか。何で來田さんが疑われたんだよ。來田さんはイヴさんを救っていたのに」  疑問しか感じない來田にかけられた容疑に、警察の理不尽な対応は怒りすら覚える。  さらに千乃を煽動するのは、警察署での藤永の態度だった。  八束や來田に自分たちが知り合いだと言ってもよかったはず。にもかかわらず、藤永は千乃を無視した。そうかと思えば、意味深な視線を向けてくる。  藤永が何を考えているのか、全くわからなかった。  いっそ、自分から八束さんに話してしまおうか。あの刑事とは知り合いですって。  藤永の整った顔を思い出し、若干の苛立ちを自覚した。  自分だけが感情を掻き乱され、翻弄されていることが悔しい。  もう考えまいと、千乃は無視を決め込むことにした。 「……実は、昨日会うイヴさんと約束をしてたんです、いつも使うホテルで。でも約束の時間になってもイヴさんは来なかった。けど、今までもよくあったんですよ、約束してても彼女、いや彼が来ない日は。その度にアユムさんと仲直りでもしたのかなと、これでよかったんだって俺は自分に言い聞かせてました。昨日も朝までホテルで一人過ごして家に帰ったんです」 「その話、警察には?」 「もちろん言ってます。あの藤永って刑事に」  來田の口から溢れた名前にドキンと心臓が反応する。  考えないことにしているはずが、制御できない自分の感情のどこか一部が暴走してくる。  大学で見た、優しげな声と藤永のせいだ。 「いつどこで殺害されてたんだ、イヴさんは」 「刑事さんの話しでは、昨夜の深夜一時過ぎ、横浜駅より少し離れた、小さな児童公園が現場だったそうです。そこは俺のいたホテルの近くだったらしくて……。でも、それ以上詳しくは教えてもらえませんでした」 「深夜一時。でも來田君はずっとホテルにいたんだろ?」 「俺との約束はいつも二十時で、その時間からずっとホテルにいまし──あっでも、コンビニに行くのに一度外出しましたけど」 「コンビニだろ? 來田君が犯行するのには無理があるじゃないか。ホテルの近くなんだろ? コンビニは」 「はい……。けど警察の人は俺を疑ってます」 「あの人たちの仕事は疑ってナンボってもんだからな。容疑者は他にもいるって伏見さんも言ってたし。単純に消去法とってるだけだよ」 「そうだといいんですけど。今日、自宅に刑事さんが来たとき、本当に怖かったんです。ビビって足が震えてましたよ俺」  いつも店で見る寡黙で落ち着きのある來田とは反対に、口数も多く、縋るような目で八束に助けを求めている。  彼の様子から本当に今日一日でどれだけ怖く、嫌な思いをしたのかと千乃は自分に置き換えてゾッとした。 「何でイヴさんだったんだろう」  彼女が殺された疑問をポツリと口にした。 「分からない。けど殺害された方法で、俺に嫌疑がかかったのはいうまでもないのかな……」 「それって、まさかっ」 「はい、絞殺──前に八束さんが教えてくれた、絞頸(こうけい)だったそうです」 「『コウケイ』って何ですか? やっぱり連続殺人なんですか」  ソファから立ち上がり、狼狽えた千乃は落ち着けといわんばかりに、八束に手首を掴まれてソファへと体を沈められた。 「ユキ君、絞頸ってのは縄やロープとかの紐状のもので、首を絞めて殺害することなんだよ」 「なわ……」 「ああ。だから來田君も疑われたし、店にも刑事が来たんだ」 「そんな。だって俺らがやってることは、そんな間違った欲望に使うためのものじゃない! 何で疑われなきゃいけないんだ」  見知った人が殺され、仲間が疑われる。おまけにその理由が誇りを持ってやっている仕事に関係していた。  ただそれだけの理由で一人の人権を無視され、簡単に心を傷つけられてしまう。  警察の人間にとってそれが仕事で、当たり前のことかも知れないけれど、一般人からすれば警察に拘束されただけで、一生のトラウマになるかもしれない重大な出来事だ。  そんな理不尽さに千乃は、何も出来ない歯痒さで地団駄を踏んでいた。 「警察は疑うのが仕事ってよくいうけど、さすがにキツかったんです、警察署(あそこ)にいるのは。イヴさんにも会わせて貰えなかったし……」  疲弊しきっている來田は、冷めた珈琲を一気に飲み干して溜息を吐いた。  その様子を目にし、千乃は胸の中のわだかまりを口にすることに躊躇っていた。  アユムさんは今どんな状況でいるのか、來田とのことを知ってどう思っていたのかと……。 「でも來田君が解放されてよかったよ。ただ、犯人が見つからなきゃスッキリは出来ないよな」 「まだ俺の容疑は晴れてないですからね。それにあの藤永って刑事さんの、何でも見透かすような態度にはビビりましたよ」  再び來田が口にした名前に体がピクンと刺激を受ける。  頭の中で幾つかの感情を混沌とさせた千乃は、 「あの、來田さん。さっき言った刑事さんって──」と勝手に口が動いていた。 「藤永って人のこと? あの人がどうかしたのかい、ユキ君」  問われて、千乃は答えを用意していない自分に焦った。  バカか、俺は。何を聞こうとしてるんだ。    封印していた過去を自ら引っ張り出そうとしたことに気付き、「何でもないです」と慌てて言った。 「そ、それよりアユムさんも警察に行ってたんでしょうか」  視線を泳がながら、話の矛先を変えてみた。 「さあどうだろ。俺とは立場が違うけど、もしかしたら同じように嫌疑がかけられてるのかもしれないな」 「なあ來田君、その、君たちのことアユムさんは──」 「……イヴさんがアユムさんに別れ話を切り出した日、彼は部屋を出て行ってしまったそうです。そのとき、俺とのことを言ったかもしれませんね」 「それはいつなんだ?」 「えっと、確か三日、いや、四日前かな。心配したイヴさんは心当たりに連絡して、彼が友人の家にいることに安心したって言ってました」 「じゃあ、そのまま二人は会えずにこんなことに……」 「だと思います……」 「それはアユムさんも辛いだろうな」  真相は殺害された本人にしか分からない。  イヴもアユムも、そして関わってしまった來田にも、人の心の奥底にある感情までは手が届かない。だからこそ言葉で伝え、時には肌から発する熱で訴えもする。  けれどその方法は、時として誰かを傷付けてしまう危うさも生み出してしまうのだ。 「ここで俺たちが頭を突き合わせて、あれこれ話してても仕方ない。取り敢えず來田君が帰ってきて安心出来たよ」 「ですね」  八束の言葉に同意し千乃は大きく頷いて見せる。 「本当にすいませんでした。店を休むことになってしまって。オーナーにも何て言ったらいいか──」 「いいさ。今日は予約の人数も少なかったし、(たき)さんもわかってくれるよ」  肩を落とす來田に対し、八束は優しく微笑んでいた。その表情は、千乃が幼い頃から知っている変わらないものだった。 「明日はいつも通り出勤しますので。迎えも、ありがとうございました。ユキ君にも心配かけたね」  來田が無理して笑顔を作っているのは一目で分かる。千乃はそれに応えるよう笑顔で首を左右に振った。 「さあ、今日はもう解散しようか。明日もあることだしな」 「あの、八束さん。もしかしたらまた、この店に刑事が来るかもしれません。そしたら迷惑を……」 「そんときはそんときだ。來田君は何もやってない。そうだろ?」 「はいっ」 「だったら堂々としてろ。俺も千乃もずっと一緒にやってきた仲間なんだ、來田君が無実なのはわかってる。イヴさんのこともだ、付き合ってたとかそんなのは気にしてないよ。いい大人なんだから」 「そうですよ、明日からまた頑張りましょう」 「あ、でも俺、明日は横浜駅の方だった」  照れ臭そうに短い髪をかきながら、來田が溢すと三人の輪に笑いが生まれた。だが、その音は少し強引に作られたように感じる。  不意に千乃は入り口へ目をやった。  頬を掠めた隙間風が、どこか禍々しいものに感じたからだ。  そこにあるのはいつもの景色で何も、誰もいない。  ただ、纏わりつく記憶だけが、獲物を締め上げるのように千乃の心を震えさせた。

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