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有名な画家

「悠介、今日って鍋食べたくない?」  五限の講義を終えた千乃は、廊下の先を歩く親友の後ろ姿を見つけて声をかけた。 「おー、千乃。おつかれ! 今日か? 悪いなぁ、カテキョのバイトなんだよ。来週からテストだからって臨時で頼まれてさ」 「そっか、なら仕方ないな。頑張って受験生を助けてやれよ」 「くそー、千乃の鍋食いたかったなー。なあ、因みに何鍋の予定だったんだよ」 「今日は風キツくて寒いから、豚キムチ鍋の予定だった」 「うっそ、俺の一番の好物じゃん。千乃ぉ、頼む。来週末にそれ持ち越してくれ。めっちゃ食いたい!」  出てもいない唾液を拭う仕草を見せる悠介の肩に手を置き、いいよと、笑顔でこの後の友人の労働を労った。  バイト先へと足早に去って行く悠介の背中を見送ると、当てが外れた千乃は、ひとりで過ごす週末の予定を考えながら、門へと足を進めた。  門扉を通り過ぎたところで名前を呼ばれた千乃は声を辿るよう見渡すと、記憶に新しい相好を見つけて一驚した。 「やあ、ユキちゃん。元気? ようやく会えた」  門扉に体を預けて佇む柊が、少し下げたサングラス越しに視線を向け、千乃に手を振っていた。  著名な画家のいきなりの登場に、千乃の体は自然と後ずさっていた。 「な、なんで? ど、どうしたんですか、こんな所でっ」 「ちょっと近くまで来たからさ。ユキちゃんどうしてるかなーって思ってね」 「で、でも俺の大学どうしてっ」  まともに自己紹介すらしていなかった相手が、自分の通っている大学に姿を現した。  千乃の頭の中は、乱舞する疑問符でいっぱいだった。 「ユキちゃん、今俺がどうしてここにーって考えてるだろ?」 「は、はいっ」 「どうしても君とまた会いたかったから、仁杉さんに聞いたんだよ、どこに行ったらユキちゃんに会えるかなって」 「ち、父にですかっ」  意外だった。仁杉にとって愚息でしかない存在が通う大学名を知っていたとは。  千乃のことなど興味がないと思っていた。どこに住もうが、誰といようが、生きようが。そして、死のうが……。   「あ、父上に聞いたの都合悪かったかな?」 「い、いえ。そんなことはないです。ただ、柊さんがどうして俺なんかに」  たった二回、しかも僅かな時間の会話だけしかしていないのに、有名な画家に興味を持ってもらえる要素が自分にあるとは思えない。柊が自分に会いたい理由がどこにあるのか皆無だった。 「ユキちゃん、美術鑑賞好きなんでしょ。知り合いが今個展やってて、招待されてるんだ。ユキちゃんのことを思い出して、一緒に見に行かないかなって思ったんだ。あ、俺と二人だけがイヤだったら、この間一緒にいたお友達も誘っていいよ」 「個展に? え、今からですか」 「そうそう。行かない? 君達が金のためとかじゃなく、純粋に俺の絵に興味持ってくれたのが嬉しくってさ」  千乃はふと、仁杉の顔をよぎらせた。  柊の周りには父だけではなく、金さえ払えば、極上の作品を手に入れることができる人間が群がって来るのだろう。  話題のあるものを手中に収めることが、虚栄を保ち、同様の人間達にひけらかす手段だと思っているのかもしれない。  絵が訴えるものを理解し、そこに惚れ込んで欲しい。単なるコレクションではなく、魂を切り刻んで描き上げるものだからこそ、心から欲したいと願う手に渡るべきだと思う。 「いいですよ、一緒に行きます。今日はバイトもないんで。でも、本当に眞秀にも声かけていいんですか?」 「ああ、もちろん。タクシー待たせてるから、このまま一緒に迎えに行ってもいいよ」 「ありがとうございます、ちょっと電話してみますね」  千乃は電話をしながら、眞秀の喜ぶ顔を思い浮かべていた。  絵画に興味があるとは言え、眞秀に比べれば千乃の知識など足元にも及ばない。だからこそ、柊のような画家と個人的に会えるとなれば、眞秀はきっと喜ぶ。緩んだ顔を想像し、千乃は呼び出し音を聞いていた。だが、眞秀が電話に出ることはなかった。 「……すいません、多分、実習とかで忙しいのかもしれません」 「実習? 彼は学生じゃないの?」 「あ、眞秀は医学部なんです。だから、毎日忙しくてお互いの予定を合わすのも中々難しいんですよ」 「へー、未来の医者かあ。凄いねユキちゃんの友達」 「はい、自慢の親友です。兄弟揃って凄いんです、俺の尊敬する人達なんですよ」  敬愛の念を顔いっぱいに見せ、千乃は頬を高揚させた。 「ふーん、ユキちゃんにそんな風に言ってもらえるなんて、いいな。もしかしてマキちゃんも医者?」 「いえ。真希人さんは刑事です。とても頼り甲斐のある、かっこいい大人の男の人……です。あ、もちろん、柊さんも凄いですよ。あんな素晴らしい絵を描けるなんて、雲の上のひとです」 「雲の上かぁ。ありがと。そっか、そっか。マキちゃんって刑事だったんだぁ」  路肩に待機するタクシーに向かいながら話す、柊の背中に千乃の力説は更に続いた。 「はい、捜査一課の刑事です。だからいつも忙しくて、でもそんな中でも俺なんかのことを気にかけてくれる、とっても優しい人なんです」    目の前に藤永がいるように語る千乃は、前を歩く柊の風で自由にはためく髪の隙間から垣間見えた唇が「捜査一課ねえ。どおりで」と、感心したような音色で聞こえて嬉しくなった。  医者を志す親友に、事件解決に挑む大好きな人。素晴らしい二人のことを誰かに知ってもらえ、千乃の足は数センチ浮いたように浮かれた。

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