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幸せを願って
肌を刺すビル風が和らぎ、春風を感じる中で千乃は三年生最後の講義を終えた後、門扉に寄りかかりながら優雅に舞う鳥雲 を眺めていた。
「いいな、俺もどっか飛んで行きたい……」
「へー。俺を置いてどこへ行くっていうんだ」
独り言を包む甘い声が聞こえ、振り返った千乃は、現れた人物に瞠目した。
「ま、真希人さん。どうしてここに? あれ、眞秀は──」
「眞秀は来れない、と言うか、気を利かせたんだろうな。兄思いのいい弟だ」
「そ、それじゃあ、今日は二人?」
「何だ俺だけじゃ不満なのか、千乃は」
藤永が思いっきり不機嫌になった。
外で会う時はスーツ姿しか見たことなかったが、今日の藤永はラフなスタイルだった。そのせいか、拗ねているせいなのか少し幼く見える。
口に出して言うと、怒られそうだけれど。
黒のテーパードパンツに、タイトなタートルネックのニット。羽織っているライトグレーのジャケットがいつもの、ザ、刑事と言ったクールさを甘く見せ、千乃の心臓も目もハート型になっている自覚があった。
それほど目の前で佇んでいる想い人は、眉目秀麗だった。
「不満なんてあるわけないです。真希仁さんに不満なんて言ったら、バチが当たりますよ。それに驚いたのは、眞秀とここで待ち合わせしてたから。真希人さんとは現地でって聞いてたし。あ、もしかして最初から眞秀は……」
「そう言うことだろうな。気が利く弟を持って兄として誇りに思うよ。けど千乃があまりにもうっとりと空を見上げてるから、声をかけそびれた。お陰でお前が逃亡する前に確保できてよかったよ」
「か、確保って。犯人みたいに言わないでください。人が悪いですよ、刑事のくせに」
「おいおい、職業差別しないでくれよ。市民のために身を粉にして働いてる人間に、もうちょっと愛のある言葉かけてくれないかな」
「ですね、すいません……。久しぶりに会ったから緊張してるのかも」
千乃は門から出て行く顔見知りに手を振りながら、肩を竦めて反省を口にした。
「半月ほど停職処分だったからな。今日は署に午前中だけ顔を出して明日から復帰だよ。今はリハビリ中ってとこだな」
「リハビリって……骨でも折ったみたいですね」
茶化して言う藤永の言葉が千乃のわずかな緊張を溶かし、二人は久々の再会に笑みを交わした。
「千乃は……元気だったか」
優しい音と、タイミングよく微笑む藤永に鼓動が囃し立てられ、千乃は視線から逃げるように、「はい……」とひと言だけ返した。
事件はようやく解決した。けれど、容疑者となった柊を追い込むのに、藤永はかなり無茶なことをしたらしい、と眞秀から聞いていた。
どれほどのことをして、今回の処罰に至ったのか千乃にはわからない。ただ、処分の間、会うのを控えると言われた時は、ショックよりも、藤永の仕事に対する責任感をひしひしと感じた。
真摯に刑事の仕事に向き合う藤永を尊敬し、そんな彼に相応しい人間になれるよう努力しようと思えた。
「眞秀もだけど、千乃も単位落とさずよかったよ。無事に春から四年生になれて、就職も決まってんだろ」
「一応……内定貰ってます」
「じゃあ、今日のメシは就職祝いだな。約束通り奢らせてくれよ」
「本当にいいんですか? 今日行く店って有名なホテルのレストランでしょ。俺、マナーとかわかんないんですけど……」
「そんな緊張しなくて大丈夫だ。俺の高校のダチがシェフやってて、食いに来いって前から言われてたからな。でも何か理由がないと行く機会がない場所だし、ちょうど良かったんだよ。そうそう、眞秀から伝言だ。急に実習が入ったらしいってことにしておくから、二人で楽しんでこいってね」
「眞秀は気を回しすぎだ。三人での食事も俺は楽しみだったんですけど」
俯き加減で言うと、「眞秀がいないと寂しいのか」と、顔を覗き込まれた。
「そ、そんなことないですっ。俺、ずっと真希人さんに会えなくて、寂しくて。今までひとりでも平気だったのに。会えない間、誰が側にいても寂しさは埋まらなかった。一日が長く感じて、何度もカレンダー見たり……。俺、真希人さんに、とても会いたかったんです」
千乃の手は自然とグレーのジャケットの裾を摘んでいた。
もうどこにも行かないで欲しい。ひとりにしないで欲しいと、祈るように。
「俺も会いたかったよ。何度部屋を尋ねようかと思ったか。でも、自分で決めたケジメだったからな。ごめんな、千乃。電話もしなくて。声を聞いたり、会いたいって口にすれば、部屋を襲撃しかねなかったからさ」
ジャケットを掴んでいない方の手をそっと握られ、藤永が千乃の指に自身の指を絡ませてくる。
小さな面積から焦がれた想いを伝えるよう、指先でくすぐってきたり、確かめるように撫でてきたりと。
小さな抱擁に泣きそうになっていると、門から出てくる幡仲の姿を捉えて涙をグッと堪えた。
「やあ、當川君。まだ帰ってなかった──これはこれは、刑事さんじゃないですか。ああ、そう言えば、當川君が言ってたね。藤永刑事は親友のお兄さんだって」
「はい、そうです。先生、こちらが真希──藤永真希人さんです」
「どうも、幡仲教授。その節は色々不快な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした」
「いえ、お気になさらずに。それが刑事さんのお仕事なのはわかってますから」
千乃の前に立ち、挨拶をする藤永の背中越しに、幡仲がにこやかに話すのを見た瞬間、千乃は胸が詰まりそうになった。
一時は容疑者のひとりとして疑われたのに、怒ることもせず挨拶をかわす幡仲の度量や、仕事として然るべきことをしたと胸を張る藤永。大人な二人の姿は、未熟な千乃の目にはとても尊い姿に見えた。
「これから二人でどちらかへ?」
「ええ。千乃の就職祝いにちょっと食事へ。もっと早く行きたかったんですけれど、仕事がゴタゴタしてたもんですから」
藤永の自然な言葉の選択に、幡仲が察したのか、納得顔をして千乃へ微笑みを見せてくる。
「よかったね、當川君。君は幸せだ、刑事さんのような人と巡り会えて。君は僕と違って、人を愛することがちゃんとできる。だから彼を大切にするんだよ」
「先生……」
藤永と話す幡仲の顔を見ながら、彼の過去の話を思い出した。
幼い頃に植え付けられた執着に囚われているせいで、共に人生を歩いて行ける相手は見つからないだろう、と覚悟を語っていたのを。
特定の相手や物、行動上に出現する癖や偏 り、傾向、性格などを異常なまでにこだわることが生き辛くさせても、拭うことができなければ向き合って生きていくしかないのだと。
俺は真希人さんや、八束さんに救われた。 親友にも支えてもらって、今こうして元気に生きていられている。
本当に感謝しても仕切れないことだ……。
隣にいてくれる藤永の手にそっと触れると、大好きな微笑みと一緒に千乃の手をキュッと握ってくれる。幸せだな、と心から思った。
今、心が温かいのは彼らと出会えたからだと、噛み締めるように心で呟いてみる。
去って行く翳りを帯びた幡仲はこの先も、暗闇をひとりで彷徨うのだろうか。
それならばせめて、この世で一番優しい暗闇でありますように、と千乃は祈るように小さくなっていく背中を見つめていた。
了
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