1 / 1

第1話

愛のうちがわ 「林くんはどう思いますか?」  付けっぱなしで流し見していたテレビ画面の中で、綺麗なピンク色の唇をした女性アナウンサーが4人グループのアイドルに質問した。生放送の歌番組ではいつも歌う前に少しのインタビューがある。  回答しようとマイクを上げたのは指名された林理化。アイドルグループ「/slash」の中ではいちばん年下で、いつもインタビューは最後に順番が回ってくるからいい答えなんて残ってないんだよと嘆いていた顔を思い出した。  最近、髪の色を明るくした。 「いや、理解に苦しみますね」  その回答にスタジオに笑いが起こって、/slashが歌う新曲が紹介され、煌びやかな衣装の4人がそれぞれに立ち上がった。    理化とはじめて会ったのは高一の10月。中途半端な時期に転入してきた林理化は、教壇で紹介されたあと、ずっと空席だった小林理解の隣に静かに座った。教師は「小林、しばらく彼を頼むな」と笑顔を向けた。教室が少しざわめいたけれど、林理化は気がついていないようだった。気がついていないふりをしていたのかもしれない。ざわめきの理由は林理化の顔の綺麗さと、名前だった。 「林理化って名前なの?」  あまりに不思議で小声で聞いた。周りが聞き耳を立てている。 「うん。親が女の子みたいな名前にしたかったんだって。母さんは女の子が欲しかったみたいでさ」  林理化は明るい声でいつも答えているだろう説明をした。少し子どもっぽい甘い声だった。  そうじゃなくて。  心の中が何か感じたことのない色と温度に変化した。 「俺の名前、小林理解」  開いていたノートの端に自分の名前を書いて見せた。 「うそ」  理化は薄茶色の瞳で理解の顔を見つめた。  綺麗な睫毛がくるんと上を向いていて、女の子たちみたいだと思った。 「こばやしりかい、はやしりかが入ってる」  小さくつぶやいて理化はもっと小さな声で「よかった」と言って息を吐いた。その意味は少し後になってからわかった。  林理化がアイドル研修生でデビューのために転入して来たことは、瞬く間に学校中に広まった。白い肌に薄茶色の瞳。薄い唇はなぜか紅くて血が滲んでいるように見えた。  理化は初日に自分から話した。 「アイドルにね、なれるかもしてなくて東京に引越してきたんだ」  コンビニで買って来たお弁当を不器用そうに食べながら理化は話した。一緒にいると、理化が顔立は飛び抜けて綺麗なのに中身は普通の男の子だとわかってきた。何事もあまり気にしていない。自分の容姿もそれほど気にしていないのではと思ったのは、髪に寝癖がついていたからだった。 「アイドルってあのテレビで歌って踊る人たち?」 「うん、そう。あとはコンサートとか」  理化は冷たいお弁当を美味しそうに頬張っていた。伏せた睫毛で影ができる人をはじめて見た。  アイドルはテレビの中の人たちで、自分には関わりのない世界だと思ってた。 「へぇ、そう。すごいね、転校までして頑張ってるんだ」  確かにアイドルのキラキラした衣装にも理化の綺麗な顔は負けないような気がした。 「ね。その卵焼き美味しそうだね」  理解の母親は毎日お弁当に卵焼きを入れてくれた。理化は羨ましそうに手作りの弁当箱を覗き込んだ。 「食べる?」 「食べる」  笑うと八重歯が見える。理化は「美味い」と繰り返しながら理解の母親が作った卵焼きを食べた。 「はじめて」  理化の言葉は単語が多くてまるで小学生のようだ。 「卵焼きが?」  もう一切れ食べるかなと残しておいた卵焼きをコンビニ弁当の空いたスペースに入れると理化は綺麗に笑った。 「美味しい卵焼きも、アイドルになるって話してからかったり反対しなかったの、理解がはじめて」  その時はじめて名前を呼ばれた。心臓が大きく跳ねた気がした。 「よかった。この学校に理解がいてくれて」 そんな簡単に名前を呼ぶんだ。鼓動を隠して聞いた。理化の声をもっと聞きたい。 「反対されたの?」 「されたよー。そんな簡単な世界じゃないって。でも、アイドルって存在するだけで尊いんだって。すごいんだよ。全然知らない誰かが自分を応援してくれるなんてさ、生きてるだけで愛して貰えるなんて、すごいんだよ。そんな生き方あるんだって知らなかった」  理化はすごいと繰り返した。  今まで愛して貰えなかったの? とは聞けなかった。誰かに。無条件で愛して貰えることなんていくらでもあるのに。卵焼き、毎日お弁当に入ってるよ。 「理化はアイドルになれると思うよ」  綺麗でかわいい、可哀想なアイドル研修生は愛らしい八重歯を見せて笑った。 「ありがとう。頑張るね」  林理化を含めた4人アイドルグループ/slashがデビューしたのはそれから1年半後、理化と理解が高校を卒業した年だった。/slashは瞬く間にトップになり、理化はあこがれていた誰からも愛されるアイドルになった。 「ただいまー」  まるで自分の部屋のように自然に入ってくる。振り向いた理解に手を上げた。  さっきまでテレビの中で煌びやかな衣装を着てカメラに手を振っていたのに、今はグレーのスウェット上下と黒のキャップ。靴下も履いてないからまた適当な靴で仕事に出たんだろう。裸足のまま、スリッパもいつも履かない。 「おかえり。早かったね」  番組が終わってまだ30分も経ってない。キッチンを通り抜けてリビングへ歩く。 「早く帰りたくって」  歩きながら服を脱ぎ始める。キャップはソファーの上に座っているウサギのぬいぐるみに被せて置いた。理化が居る時はキャップはいつもウサギが被ってる。このウサギは理化が上京する時に実家から持ってきた。  理化の脱いだ服を拾い集めながら追いかけて部屋着を渡す。渡さないと脱いだままソファーに座るからだ。 「ご飯は食べた?」  まるで子どもを迎えた親のように理解は理化に尋ねた。 「始まる前にお弁当食べたけど、お腹空いた」  理化は隣に自分の部屋があるのに理解の部屋に帰ってくる。22歳を過ぎた頃、アイドル事務所が借りてくれていたマンションから出ることになって、理解と一緒に住みたいと言ったのは理化だった。それを説得して隣に住むことで諦めさせるのには随分と骨が折れた。最終的に「理解がそばにいてくれないと、俺……」と泣かれて、理解は理化の隣の部屋に入ることになった。それから4年、結局ふたりでこの部屋で暮らしていることを秘密にして過ごしてきた。  案外バレないものなんだなと思う。  理化は自分の部屋には自分が帰る時間に明かりがつき、しばらくしたら消えるように設定している。動物も飼わない。  飼っているのはお互いだけ。 「おにぎりなら作れるよ」 「やった!」  理化はなんでも美味しいと言って食べる。子どもの頃、暖かいご飯をあまり食べたことがないと言って、作りたてのものをとても喜んだ。  おにぎりと味噌汁、そして熱いお茶を出すと、理化は「すごい!」と手を叩いた。 「それ、インスタントだよ」  お湯を注ぐだけのインスタント味噌汁は理化が美味しいと言うので買ってあるだけで、本当はちゃんと作って食べさせたかった。 「うん。理解が作ったんじゃないっていうのはわかる」 「どうぞ」  この美しくてかわいいだけの生き物は、6年の間でドームクラスのコンサートを何度もやり、テレビドラマも舞台もこなした。一度も見に行ったことはないけれど。 「理解」 「なに?」  見ていないうちに全部平らげて、理化は爪を噛みながら「5」と呟いた。  高校生の時に決めたふたりの暗号。  理解はすべてを置いて理化の隣に座る。 「5」は横に来て。  何かあったんだなと直感した。 「3」はキスしよう。そして。 「理解、おれ明日休み。理解も休みでしょう?」  土曜日と日曜日は理解の仕事は休み。曜日の感覚なんてない理化もそれだけは覚えてる。 「珍しいね。理化が土曜日休みなんて」 「働き方改革だよ」  テレビ局や芸能事務所も働き方改革なんだって。  だから。 「0」  濡れた瞳で理解を誘う。  5センチの、そして3センチの距離を理化は暗号にした。  だから、0センチの距離で朝まで過ごそう。  こんなふうに誘ってくるのはいつも仕事場で何かがあった時。それはわかってる。理化をずっと甘やかして生きてきた。  体温を溶かしあって鼓動を伝え合って。 「なんかあった?」  体に絡みついてくる腕を押さえて聞いてみた。答えはわかってるのに。 「なんもない。ただ理解とやりたいだけ」 「そう? ならいいけど」  理解の答えを聞くと、理化はすっと立ち上がって理解の寝室に入って行った。  ひとりに戻った部屋で窓を振り向くと遠くに小さく東京タワーが見えた。それは部屋を選ぶ時に理化が絶対条件として挙げた唯一の希望だった。 「理解、だいすき」  俺たちは出会ってすぐティッシュに水が染み込むように恋に落ちた。そして溺れた。  セックスはお互いの欲望を確かめ合い認め合いながら少しずつ深くなっていった。  理化を抱きしめると、理化を愛している誰よりも近くにいるという強くて暗い感情が生まれた。この瞬間、理化は俺のものだ。開いてと言ったら口を開き、舐めてと命令したら赤ん坊のような唇と舌で理解を舐めた。誰も理化をこんなふうに独占できない。  理化は俺だけのものなのに、なんでみんなが見るんだろう。理化はおもちゃじゃない。俺の大切な人なのに。  大人になるにつれて、理解は自分の感情がわからなくなっていった。 「理化。リカ!」  夢中で舐めている理化を止める。頬を両手で包んで唇から離した。 「なに、まだ途中じゃん」  不満そうに理解を見上げた。理化は舐めるのが好きだ。言わないけどわかる。 「わかってる。わかってるけど」  理化のことが好きすぎてよくわからない。 「理化、これでいいの?」  アイドルとして生きる理化の、本当の感情はいつもわからない。セックスはいつも悲しみや苦しみを減らすための儀式だった。 「なに言ってるの?」  理化は裸のままでベッドに正座した。 「理解とやりたい。理解はやりたくないの?」  理化は出会ってから1度も怒ったりしたことはなかった。 「生番組でわざと俺の名前出したでしょう?」 「いいでしょ? そのくらい」  いいけど、よくない。 「理化」  目の前のアイドルという生き物が好きすぎてよくわからない。 「理解、3」  キスしよう、理解。  頬を合わせて理解の頬に流れた涙を理化は拭った。  唇は温かかった。自分を舐めた舌が入ってくる感覚に興奮した。  全部許して愛そう。理化のすべてを。 「理解、だいすき」 「うん」  涙があふれた。  寝室の窓の向こうに東京タワーが見える。  朝焼けは、まだ遠い。  

ともだちにシェアしよう!