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9 俺は楽になりたい

 些細なことですれ違うとか気まずくなってとか、ラブストーリーでありがちな話で、お互いに思い合っているのにそういう風になる漫画とかよく見るけど、馬鹿馬鹿しいと思っていた。  だって好きならそう言えばいい。抱きしめたいなら抱きしめればいい。それで解決するじゃないか。そう思っていた。  でも実際、結構そういうものなんだな。  誠一郎との少しずつ遠ざかる距離を感じて思う。大きくなっていく、小さかった俺の穴。うまくいかないと思えば思うほどにうまくいかなくなっていく。  でもそれは、すれ違いじゃない。  だって、俺は誠一郎が俺のことを好きじゃないんじゃないかって、まったく思ってないんだ。  誠一郎はいつも俺に「好きだ」ってちゃんと言ってくれる。  ちゃんと抱きしめて、ちゃんと笑ってくれる。  誠一郎は俺をちゃんと愛してくれている。  だけど、――いや、だから、なんだ――俺は不安になってしまう。  誠一郎は、どうして俺のことなんて好きなんだろう。  俺のどこが好きなんだろう。  俺が勝手に不安になってるだけだってわかってるけど、だけど、そうじゃなくても、俺は誠一郎に何もしてやれてなくて、誠一郎はきっともっと他の人との方が幸せになれるんじゃないかって思う。  誠一郎が幸せになれるなら、そっちの方がいいんじゃないかって思ってしまう。  ああ、そうだ。  だからこれは、結局ただ単に俺の問題だ。  俺は、自信がないんだ。  誠一郎をしあわせにできる自信がない。  俺は誠一郎に相応しくないって思っちゃうんだ。  だから。 「田沼誠一郎」  監督に名前を呼ばれて、誠一郎が立ち上がる。俺は座って、立ち上がった誠一郎を見上げている。  夏大会に向けての地区予選、先発メンバーの発表だった。 「――以上のメンバーに任せる」  監督が言う。  わかってたことだ。選ばれるわけがない。だって俺は、その努力をちゃんとしていない。だから、悔しいとさえ思わない。  そうだ、悔しいと思うことはない。  だって、それはすごくおこがましい。  俺は部員のみんなの頑張りを目の前で見ている。誰よりも知っている。  だから、悔しいって思うのは、間違いだって知っている。  それはきっと、誠一郎との関係も一緒だ。俺はそう気づいてしまう。気づかないようにしていたけど、わかってしまう。  俺が誠一郎の隣にいるなんて、俺が誠一郎と恋人なんて、きっと、きっと――すごく、おこがましい。  ひらめきが俺の中にふっと優しく降りてきて、『連絡をとるのをやめよう』ということだった。それは、恐ろしいほどにあっさりと俺の中に行き渡って、何の抵抗もなくそのとおりだと思う。  だって今、誠一郎は大事な時期だし、キャプテンで大変だろうし、俺は忙しい誠一郎に何もしてやれない。  だから俺なんかが迷惑をかけちゃいけない。  全部全部その通りだ。  俺の中で小さな声がした。  ――それは言い訳でしょ。  ――努力をすればいい。誠一郎にふさわしい恋人になれるように。  ――努力をすればいい。それだけの話でしょ。  そうだ本当にそれはその通りだ。  だけど、あいつは眩しすぎて、あまりにも輝いていて、俺は――俺なんかが隣にいれないよ。  俺は立ち上がって尻についた泥を払って、練習に向かう。  俺はあいつに何もしてやれないんだ。  それが、事実。           *  そう決めてしまえば、連絡を取らないのは簡単だった。  まず、自分からメッセージを送らない。  メッセージが来ても返事をしない。  それだけだ。  最初は、返事しなくても、誠一郎は何も言ってこなかった。今までだって忙しくて返事できないことだってなくはなかったから。  大丈夫、大丈夫、このまま。  そう思ったからスマホが震えて電話が鳴って、発信元が誠一郎だったときは、さすがにどきっとした。  でも、俺はそれに出なかった。電話はその日二回鳴って、翌日に一回、それきり、何も連絡は来なくなった。  学校でも、クラスが違うから遭遇はほとんどない。  部活ではもちろん顔を合わせるけど、元からそこでのコミュニケーションはほとんどない。  だから、誰も俺たちの関係が終わっていくことに気がつかない。  当たり前だ。近づいたこと、関係が生まれたことさえ誰も気づいていないのだから。  誰も知らない。俺たちのあの時間を、あの関係を、あのふれあいを。  誰も知らないなら存在しないのと同じじゃないかと思って、そう考えるとすごくむなしくなった。  本当に夢を見ていたみたいだ。  そうは言っても部活はあって、俺はやる気がないとはいえ部活にはちゃんと出た。これで部活に出なくなったら、もしかするとさすがに誠一郎が気にするかもしれないと思ったから。  そして部活では誠一郎は今まで通りちゃんとしていて、俺は安心する。俺が誠一郎に何の影響も与えてないことに本当に安心する。  もちろんそれは悲しい。悲しいけど、安心の方が勝ってて、俺はじゃあ、やっぱり本当は誠一郎のことなんて好きじゃなかったのかもって思う。  俺はなんだか、あれはやっぱり夢だったんだなと思うようになった。あんなの、やっぱり変な話だ。誠一郎が、俺のことを好きだなんて。そうだ、最初から変な話じゃないか。やっぱり、誠一郎は何か勘違いをしていたんだ。  連絡をとらないまま二週間が過ぎて、俺たちのチームは地区予選を勝ち進んでいった。  そして移動教室で美術室に向かう途中、嫌な予感がした。なんだか、前に何かあった気がする、そう、なんだっけ、と思う頃、目の前から誠一郎が歩いてきた――。誠一郎は一人で、進藤は隣にいなかった。俺は心臓が締め付けられた気がして、喉が急に乾いて吐きそうだった。でもそれは変だ。連絡を取らないと決めたのは俺なんだから。隣で宗田が何かを話している。俺は適当に相槌を打っている。誠一郎と俺は少しずつ近づいて――そして、そのまますれ違った。  誠一郎は、こちらを見なかった。  まっすぐ前を見て、しっかり歩いていた。  泣くなよ、と思った。お前は泣くなよ、お前が泣くのはおかしいだろ。お前が決めて、お前が切り離したんだ、お前がやったんだ。  だからお前は泣くなよ。  俺は自分にそう強く強く言い聞かせて、美術室の扉を開けた。          * 「なんかあったんですか?」  部室でグローブを磨いていると鹿島田に言われた。 「元気ないですよね」 「うる、せぇよ」  自分でもびっくりするくらい弱々しい声が出た。 「なんもない」  そうだ、なんもないんだ。なんもなかったんだから。 「ふうん」  そう言ってベンチに鹿島田は座る。座ってストレッチをしている。  誠一郎は、何か変わった様子があっただろうか。親しい鹿島田なら、何か気づいたかもしれない。それとなく、聞いてみようか。 「なぁ、あのさ」 「はい」 「俺、田沼とさ……」  口にした名前がひどくよそよそしく響いて驚く。どうしてよそよそしいんだろう。それは、呼び方の問題か、もう彼が俺から遠く離れてしまったのか。  わからなかった。  鹿島田に言ってしまいたかった。誠一郎のことを誠一郎って呼んであいつは俺の恋人なんだ、って言いたかった。  でもうまくいってないんだどうしたらいいと思う? そう言いたかった。  でも、言い出せない。俺の中のそれをどんなに丁寧に持ち上げても、あっけなく壊れてしまいそうだったから。  いや、違う。  俺はそれを思わず投げ捨ててしまいそうだったから。その俺のなかの大事なものを、どこかに投げつけて壊してしまいそうだったから。  俺は楽になりたいんだ。  俺は苦しい。  ――誠一郎が好きで、すごく苦しい。

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