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前夜

「好きです、つきあってもらえませんか?」  バレンタイン、卒業式、夏祭り、クリスマス。  俺が人生で告白された回数は、たぶん人より多いだろう。 「ごめんなさい」  人からの好意を拒絶するのは心が痛んだ。あなたは俺のことが好きなようですが、俺はあなたがそこまで好きではありません。それを平然と告げることができる人間になれるほど、俺は自分を高く見積もってなかった。だからなるべく心を込めて断ったつもりだった。  だけどその中には、それで引いてくれない人もいる。 「彼女がいるんですか?」  そう続く場合もかなりあった。  いない、と正直に言ってしまうと、「じゃあ、試しでもいいんで付き合ってほしいです」と言われることもある。多分、少しでも可能性を繋ぎたいだけなんだろうと思うけれど、こっちはそんな心で付き合えない。  そういう場合は何を言っても納得されないことが何度かあった。  だから俺はだんだん、 「ごめんなさい、彼女がいるので」  そう言って断るようになった。  純粋に嘘だった。  それを言えば、よほどでない限り向こうはあっさり引き下がった。  だけど次第にそんな嘘をついている自分が嫌になって、告白なんてしてほしくないと思うようになった。  だって俺は彼女どころか、誰かを好きになった経験さえなかった。もしかすると、俺の中には誰かを好きになるっていう装置がないんじゃないかなと思うほどだ。  だけどみんなが誰かを好きになったり、告白したりしているのだって、きっとみんながそうしているからとか、そういうものだからとか、そういう人がほとんどなんじゃないかなと思う。  誰かを好きになるとはどういうことだろう。  人は人のことをそんな簡単に好きになるんだろうか。  好きになる誰かがそんな身近に簡単にいるものなんだろうか。  わからなかった。  かっこいいと思った先輩がいた。リトルリーグの、一つ上の先輩だ。  憧れなのか、恋だったのか自分でももうよくわからない。  その人になるべく近づきたくて、その先輩の球をしっかり受け止めたくて努力した。だけどある日、その先輩が、同級生の男子から告白された話を面白おかしく話していて、俺はとても悲しかったのを覚えている。  好きになるって、多分本当はすごく難しいことなんだ。  だから、――最初はそれが、何なのかわからなった。  入学式を少し先に控えた三月の終わり、野球部は希望者だけで早期練習を開始することになっていた。高校でも野球を続けるつもりだった俺は迷わず参加した。  初日の顔合わせ。新入部員たちがずらりと並んで、緊張に背筋を硬くする中、眠たそうにあくびをする一人の部員を見たとき、俺はまばたきを忘れてしまった。  身長は俺より低くて、髪の毛は坊主頭。あくびをした後の顔を、ぐいっと歪ませて、しぱしぱとまばたきをする。一重か奥二重の目、その目の奥がくりっとしている。  身長は高くなくて、幼なげな印象なのに、どこか落ち着いた、大人びた、なんだか不思議な雰囲気がある。  俺は、その時何かの引力をそいつに感じていた。  すごくかっこいいという顔じゃない。  きっと、整った顔だとは言われないだろう。  だけど俺は、その顔から目が離せなかった。  ちょうど、そいつの自己紹介の順番がやってきた。 「岡本智志です。えーと、小二から野球、やってます。……力になれるように頑張ります」  岡本智志。名前を覚える。  そのあと、見知った顔を含め何人かが自己紹介をしていたけど、全然頭に入らなくて、俺はずっと岡本を、気づかれないように、痙攣するワイパーみたいな動きで視界に入れた。 「――じゃあ、次。……大丈夫?」 「え? あっ、はい!」  俺は用意していた自己紹介も全部吹っ飛んでしまった。けれど主将が「緊張してるなあ」と笑って場を和ませてくれた。  高校の野球部に入って最初のキャッチボール。自由に組んで、と言われて、知り合いで組んでるやつもいたけど、せっかくなのだから知らない相手と――と思っていたら、ちょうど岡本はフリーの様子だった。  俺は意を決して話しかけた。 「い、一緒にどう」  言うと、岡本はぺこりと頭を下げて、「お願いします」とだけ言う。  岡本とボールを投げあった。季節は春。俺はこれから高校生になる。今、岡本とボールを投げ合っている。全部がなんだか綺麗なマーブル模様になって、俺の足元から温かいお湯が体に満ちていくみたいだった。  それが頭まで溜まって、俺を満たしたとき、俺は思わずボールを取りこぼした。そのボールが地面に落ちたとき、俺は理解した。  俺は恋に落ちたんだ。  今までどうして恋に『落ちる』なんて言うんだろうってずっと不思議だったけど、その通りだった。  誰かが背中をとんと軽く押して、俺を穴の中にふっと落とした、そんな感覚。そんな風にあっさりとしているのに、その穴はどこまでも深くて、俺はそこからどうやって出ればいいかわからない。  そしてキャッチボールの時間が終わった。岡本は俺の前にトコトコやってきて、 「あざした」  と一言いった。 「こちら、こそ」  俺はなんとかそれだけ搾り出す。  学校が始まって、クラス分けが発表されて、俺は真っ先に、自分の名前よりも先に『岡本智志』の文字列を探した。――あった、E組。途中、いやでも見えてしまった。『田沼誠一郎』はC組だった。 「おなクラ〜」  野球部の進藤が後ろからぐいと肩を組んでくる。クラス表を見上げながら、「結構ばらけてるな」と言った。まあ、確かに。たぶん、あえてなのだろうと推測はつく。俺は周囲に岡本を探して――普通にE組の教室に向かう後ろ姿を見て、当たり前に寂しかった。  でも同じ部活だ。いくらでも、なんならクラスのやつよりも関係は密になる。そう思ったけれど、うちの野球部は学校が大きいのもあり大所帯で、必然的に野球部の同じ学年の中でもある程度グループができた。  そして、俺と岡本は違うグループになった。  ……でも、もしかするとそれはそれでよかったのかもしれない、と思う。  だって、俺は岡本をこっそり、本当に誰にも気づかれずに、好きな時に視界にいれることができた。  岡本を見て、改めて不思議だと思う。  一目惚れするなんて、全く思っていなかった。  別にあいつの見た目がすごく整っているとか、そういうこともない。だから、俺は最初その感情が何なのかわからなかった。食べたことない国の料理を食べたとき、それがおいしいのかわからないみたいに。家に帰って、あああれをまた食べたいと思ったときに初めて、それがおいしかったんだと理解するみたいに、時差で俺の中にその恋心はやってきた。  そして気がつけばあいつを目で追っていて、気づかれないように、なるべく視界に入れていた。  岡本は飄々としてお調子者で、部活でもムードメイカーだった。  だけどよく観察すると人のことを無闇に馬鹿にするのが嫌いで、自分が馬鹿にされるのは構わないのに、人が軽んじられているとそれとなく怒っていた。  他の人がなんとなく、適当に話すようなことにも真剣で、まあ部活はそこそこ手を抜いているけど、根が真面目。  優しくて、とても素敵だ。  果たして、素敵だから好きなのか、好きだから素敵に見えるのか。  どっちだろうって思ったけど、そんなのはどっちでもいい。  好きだし、素敵なんだ。  まあ、どちらかと言うと見た目は地味――だけれど、きっと好きな人はすごく好きな顔だ、と思う。これって惚れてるからそう見えるだけだろうか。なんというか全体的にころっと丸くバランスが収まっていてかわいらしい。ずっと見ていたいような、そういう感じだ。  それであいつの表情はころころ良く変わる。よく笑う、よく驚く、よく眉間に皺を寄せてわからないという顔をする。その中でも、あいつがけらけらと楽しそうに笑っている顔を見ると、俺は幸せな気持ちになる。好きな人が幸せならそれでいいなんて全く共感できなかったのに、俺は本当にその通りだと思うようになっている。  岡本を好きになってからしばらく、自分がゲイなのかどうかということで悩んだ。  だって俺は男で、あいつも男だ。  テレビでそういう特集をしているのをこっそり見た。テレビの中のできごとはなんだかまるで他人事みたいだった。最近流行っているらしい、そういう男同士の恋愛のドラマだとか映画だとかを見てみたりした。別に嫌だとは思わなかったけれど、自分のことのようにも思えなかった。  俺はあの先輩のことを思い出す。あの先輩に抱きかけたあの感情も、もしかしたらそうなのかもしれない、そう思う。結局俺は、まだ答えがよくわかっていない。  だけど、俺が岡本のことを好きなのはとりあえず――というか絶対に、間違いない。  それならやっぱりゲイなんじゃないの? って誰かが言うのであれば、そうなんだろうなと受け入れるしかない。それならそれでいい。それは、俺にとってもしかすると重要じゃないのかもしれなかった。  いずれにせよ、俺は遠くから見ているだけだ。もちろん時々喋ったり、連絡事項をメッセージしたりする。だけど岡本の一番仲の良い宗田みたいなポジションには、多分もうなれないんだろう。  そして高校生活はいろいろと忙しい。部活だけじゃない、定期試験も、学校行事もある。自分のセクシャリティについてだとか、岡本ともっと仲良くなりたいとか悩むのももちろん大事だけれど、その前に俺は一人の高校生だった。試験があるから勉強しなければならないし、学校行事には積極的に参加したいし、部活にも真面目にちゃんと打ち込みたい。  そんなこんなで慌ただしく過ごすうちに、あっという間に二年になった。このままだと、すぐに来年になって最後の夏大会が終わって引退して大学受験に流れ込んで気がつけば卒業だろう。  岡本とは結局、ほとんど入部から距離が変わっていなかった。  同じ部活だし話すけど、というだけ。  それで満足だった。満足だったと思う。  リトルリーグでチームメイトだった鹿島田が入部してきて、なぜかあいつは岡本に随分懐いているようだった。もちろん俺ともよく喋るので聞いたことがある。 「航基、よく岡本と喋ってるよな」 「ああ、はい、そうっすね。あの人、なんかかわいくないですか? 先輩相手に失礼ですけど。でも、なんかこう、からかいたくなる感じなんですよね。それに、あの人ああ見えて真面目だし、いい人ですよ」  俺はそれを聞いて、そんなことは俺でも知ってると思った。俺の方が一年あいつと長く付き合ってるんだ。  ――とは言え、距離感を考えると、よっぽど鹿島田の方が密な関係かもしれなかった。  そして俺は、その鹿島田の口調にも、何かのニュアンスを感じていた。多分、きっと鹿島田自信もそれに気づいていないだろうけれど。  そして夏の大会が終わって三年が引退して、その次の練習で俺が主将に任命された。  学年のまとめ役は俺が自然に担っていたので、まあ、妥当な任命だろうとみんなが思ったと思う。  そのとき俺はなぜか、岡本に連絡をした。してしまった。二人で話でもしたいんだ、という要件で。  岡本は気軽に応じて、俺たちは学校近くのファミレスで会うことになった。  オフ。放課後。約束より早めにファミレスに着いて、緊張していた。何を話そう。同じ学校同じ学年同じ部活、話すことはいくらでもあると思ったけど、よく考えると俺は岡本のパーソナルなことを何も知らない。  必死に頭でシミュレートをしていると、 「おー」  岡本だ。  なんとなくの流れで二人ともドリンクバー。あまり話さないまま、俺は二人分の飲み物を汲みに行った。俺がそれを手渡すと岡本はそれを受け取って、 「――キャプテン、就任おめでとう」  そう言った。 「その話?」 「……うん」  そういうわけでもなかったけれど。 「何、どうしたの」  俺は黙ってしまった。なんだか岡本と話したかった、それだけなのだ。三年が引退したということは俺たちの活動もあと一年で、俺と岡本はほとんど距離が変わっていなくて、このままではいいんだろうかいいわけない、そう思って連絡してしまった。  黙っている俺に、 「まー、大変だよ」  岡本が言う。 「でもきっと、お前なら大丈夫だよ」  ストローでコーラの氷をかき混ぜながら岡本が言う。 「田沼って、なんかすげえ俺たちのことちゃんと見てるなって思うし」 「そう、か?」 「うん。前にさ、宗田が体調壊したことあったじゃん」  あの時か。 「あのときも、真っ先に気づいただろ? 俺なんてずっとあいつと喋ってたのに全然わかってなくて、なんかテンション低いなくらいにしか思ってなくて。あんとき、俺お前のことすげーなって思ったよ」  俺はそのとき、ちゃんとこいつの視界の中に俺がいたことが嬉しかった。ちゃんとこいつの記憶の中に俺がいたことが嬉しかった。 「……そんな感じ!」  なんだか気恥ずかしくなってしまったのか、誤魔化すように岡本は声を少し張った。 「ダメだろ、キャプテンがそんな自信なさげな顔じゃあさ、いつものお前みたいにキリッとしてろよ。その方がカッコいい、から」  岡本はストローを咥えてもう中身のなくなったコップを傾けて残りのコーラをずずずと吸い込んだ。  それ以降、連絡を取ることが増えた――ということも別になく、俺たちはそのままの距離だった。  俺はそれで良いと思っていた。もともと叶うわけのない恋だったし、今俺たちはそれなりに近い距離だ。このまま卒業をして、違う進路に進んで、数年後に同窓会で会って、それ以外はもう何も連絡などしない、そういう関係になるだろう。それで良いと思っていた。思っていたはずだった。  嘘だ。 「文化祭、お前何すんの」  部活後の着替えで進藤に聞かれた。文化祭は男子校らしく他校の女子との出会いに全力を注ぐクラスがほとんどで、出し物が喫茶店ばかりという地獄の様相を呈していた。そんな中うちのクラスは比較的草食系が多かったのか、 「俺のクラスは焼きそば」 「焼きそばぁ? そんなんじゃ出会いないだろ」 「ああ、まあ」  言いながらいつもの癖でちらりと岡本の方を見た。話題が伝播したのか、そちらの方でも文化祭の話題で盛り上がっている。 「連絡先、一コはぜってーゲットする」  宗田が言っている声が聞こえた。  俺はそのとき、岡本がどういう顔をしているのか見れなかった。  岡本も宗田とか進藤みたいなギラギラした目をしているんだろうか。俺はそれを見たくないと思った。そんなのを見たら、俺はきっと耐えられない。  俺の気持ちは膨らんで、想像が先へ進んだ。  文化祭、出会った女子と岡本が連絡先を交換して、仲良くなって、部員たちがいつか気づく。「最近なんかお前付き合い悪いよな」――岡本は少し嬉しそうに、「気づいた? 俺、彼女できたんだ」と言う。  岡本はすごく幸せそうで、満たされた顔をしている。  ばん、とロッカーを少しだけ強めに閉めた。  部員たちは俺のその行動に気づかず盛り上がっている。  嫌だった。  そのとき隣にいるのは、名前もまだ知らない他校の女子なんかじゃなくて、間違いなく俺であって欲しかった。  わかってる、きっとそんなのは実らない。  だとしても、俺にできることは一つしかない。  ――おす  ――おー  ――明日って、どういう感じ?  ――何が?  ――文化祭。そっち忙しい?  ――いや、明日はそんなに  ――そっか  ――何w どしたの  ――いや、ちょっと話したいことあってさ  ――え、何。今でいいじゃん。俺さっき風呂入ったし、今日はもう暇だから。電話でもする?  ――いや、できれば直接話したくて  ――何w なんか怖いな  ――怖くないよ、別に、怖くない  ――そう? なん?  ――うん  ――そしたら明日、設営終わったあととかどう。昼前にはやることなくなってる  ――うん、そこでいい。場所とかは明日決めよう  ――おー  スマホの画面を消した。真っ暗な画面に俺の顔が写っている。  今頃智志の画面にも智志の顔が写っているんだろうか。それともあいつはそのまま、何かSNSを見ているだろうか。  明日だ。明日俺は言う。  智志に告白する。  俺はベッドに寝転がって天井を見つめてため息をついた。  OKなんてされるわけがない。わかっている。百に一つもありえない。だけど――例えば明日、誰か智志に良い人が現れてしまって――それを、自分の気持ちを伝えなくて良い言い訳にしてしまうのがいやだった。  伝えなくちゃいけない。  俺はようやく理解した。告白するって、こういうことなんだ。  ああ、すごく緊張する。俺は今まで告白されたとき、こんなことを想像してこなかった。相手の気持ちを、ちゃんと想像してこなかった。  そして俺は思い出してしまった。あの先輩の言葉。面白おかしく、茶化したあの言葉。  もしかしたら岡本も、俺の告白を誰かにああやって話すのかもしれない。当然その可能性はあって、不安だ。  でも、岡本は――智志なら、きっと――。  右腹を下にして体を少し丸める。壁を見る。  大丈夫、と呟く。  智志はきっと、俺のことを馬鹿にしたりしない。気持ち悪いとも言ってこない。智志はそういうことをしない。だから俺は智志が好きなんだ。  そうだ、馬鹿にされなければそれで十分だ。  つきあうなんて、無理なんだから。  だけど俺は伝えたい。  どう思われても、あいつに伝えておきたい。それは、もしかするとわがままかもしれなかった。  でもきっと、それは悪いことじゃない。そう思いたい。  でも、不安だ。  再び天井。  智志は、俺の告白を聞いてどういう顔をするだろう?  そう想像しようとしても、顔部分にもやがかかって全然思い描けない。  あのころころ変わるあいつの表情は、どういう色に染まるだろう?  驚くかな、照れるかな。  思い浮かぶ反応をいくつか当てはめてみても、ピンとこない。  明日、それが分かる。  どきどきする。  ――今夜はちゃんと眠れるだろうか?

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