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第7章:過去 3

心臓がバクバクして耳鳴りもしてきて、なんだか眩暈もしてきた気がする。藍が何も言ってくれないだけでこんなにも不安になるなんて、恋は人を馬鹿にするというのは本当なのかもしれない。 「ら、藍、本当に何もなかったんだって…信じてよ。付き合った期間が一ヶ月だったし、その間ものすごく仕事も忙しくて数回ご飯に行ったくらいだもん…なんもしてない、本当だよ……」 信じてもらえていないのかもと思ったら不安や恐怖よりも悲しくなって、信じて欲しいなんて簡単な言葉しか出てこない自分が悔しい。でもやましいことをした事実はないし、その人を今すぐこの場に連れてくることもできないので言葉で説明するしかないのだ。それで信じてもらえないのであれば、藍にとって由利が信頼に値しない人間だというだけだろう。 「……いじわるなこと言ってごめんね、兄さん」 「へ……?」 涙を堪えるように俯くと、ふわっと抱きしめられる。藍の大きい手が後頭部と背中を引き寄せると、じわりと体温が由利の中に流れてきた。藍の体温を感じるとなんだかホッと安心して、それと同時に瞳に溜まっていた涙がぽろりとこぼれ落ちる。別に嫌われてもいいと思っていたのに、今では藍に嫌われたらどうしようと考えているのだから、恋というのは厄介なものだ。 「僕が怒ってると思った?」 「お、お、思ったよ……!だって何も言わないで真顔で俺のこと見てたじゃん!だからきっと、もうダメなんだろうな、って……」 「オメガの恋人がいたことは多少ショックだし、万が一のことを考えたら今でもヒヤヒヤするけど…その時の由利には仕方ない選択だったんだだろうから、そこまで追求しないよ」 「藍…よかった……」 「その人の連絡先は消してるよね?」 「え?あ、うん、多分……」 「確認して。連絡を取るのは許せないから」 藍に後ろから抱きしめられ、一緒に画面を見られながら相手の連絡先がどうなってるか確認する。3年前あちらから【別れてください】というメッセージに【わかった】と返信したのを最後に、由利のほうからフレンドを解除していた。 その画面を藍に見せると満足げな顔をしていたが、トークルーム自体の『削除』ボタンをタップする。すると画面には、本当に削除するかどうかの選択肢が現れた。 「いい?」 きっと藍の気持ちは削除一択だと思うけれど、一応由利の意思を確認してくれてくすりと小さく笑う。仮にも付き合っていた人だから、思い出があるかもと気を遣ってくれているのだろうか。もしそうなら藍にもまだ甘いところがあるのだなと意外に思った。 「いいよ。残したいメッセージはないから」 由利の返事を聞いてすぐ、藍は間髪入れずに削除ボタンを押す。トークの一覧からも綺麗さっぱり消えて、これが俗にいう『過去の清算』なのかなと思うと少しすっきりした気持ちだった。 「これで由利はちゃんと僕のもの」 柔らかく口付けられて、やっと安心した。 藍に反発していた時は過去の恋愛事情がバレたってどうでもいいと思っていたけれど、いざそういう関係になってみると違うものだ。由利は藍の過去の『ヒモ事情』を気にしていたし(勘違いだったわけだが)、藍は由利のオメガの元カレを気にしていた。話し合って解決していくことでお互いの不安を解消していくのは、なんとも恋人っぽいなと少し甘酸っぱくなる。 今まで形だけでも付き合っていた人たちの過去の事情を知りたいとか気になると思ったことはないのに、藍に対してそう思うのはやはり由利が彼をちゃんと好きだからなのだろう。藍が初恋というわけではないけれど、今まで好きになった誰よりも色んな意味で『特別』だからだ。 「由利は何か他に聞きたいことはある?」 「うーん…ううん。藍を8年も突き放してたのは俺だし、その期間について俺が文句を言うのは違うから」 「そう言ってくれるのは嬉しいけど、僕は由利以外には他に誰とも関係はなかったよ」 「……逆に俺のこと責めてる?」 「あはは、そういうわけじゃないって」 自分はずっと一途に、ひたむきに由利のことを想っていました。 みたいな意地悪を言ってくる藍の頬をむぎゅっとつまむと、彼は眉を下げて笑う。そんな顔が好きだなと思って由利から口付けると、まさか由利からそんなことをされると思っていなかったのか藍が目を見開いて驚いていた。藍が驚いているのは珍しいので、自分がそんな顔をさせたのだと思うと嬉しくてもう一度唇を重ねた。 「藍って可愛いな」 「……そんなこと言ってられるのも今のうちだけどね、ゆうり」 「ふふっ」 藍の首に腕を回すと、もっともっと深く甘い口付けが待っていた。  ◆ 「関係者の皆さんにはもう一人新しく専属モデルを追加するとお話していましたが、予定していたモデルさんが体調不良により休養に入りましたので別の方にお願いすることになりました。急遽ですが挨拶に来てもらいましたので、少しだけお時間ください!」 由利と麗が撮影していたスタジオ内に『Camellia』の担当編集者、浅沙の声が響く。そういえば、もう一人専属モデルを起用するという話だったのを思い出した。確かまだ新人のモデルだと浅沙から聞いていたが、そのモデルが契約できなくなったらしい。そして代わりに契約することになったモデルの姿に、由利はごくりと息を飲み込んだ。 「鈴香衣都(すずかいと)です。よろしくお願いします」 「鈴香さんは第二性がオメガですがこのビル内にはうちの編集部お抱えの医師がいる医務室がありますし、ベータのスタッフを多く起用しているのでご安心ください。鈴香さんにはご自身の体調を考慮しながら撮影に参加していただく予定です」 浅沙の隣でお辞儀をし、スタッフに満面の笑みを見せている彼。 先日藍の手によって由利とのトーク履歴や連絡先を綺麗さっぱり消去された、オメガの元恋人だった。さすがに『Camellia』の専属モデルが由利だと知っているだろうし、元恋人と同じ仕事現場なんて気まずい以外のなにものでもない。どういう考えなのか分からないが、そもそも浅沙は有名な敏腕編集者だし、そんな人に声をかけられたらたとえ元恋人がいる現場でも断れないだろう。 「椿由利です、よろしくお願いします……」 「藍葉椿です。仲良くしてください!」 「こちらこそよろしくお願いします。……あ!もしかしてあなたがYURIさんですかっ?」 衣都は由利と麗への挨拶もそこそこに、カメラの前にいた藍を見つけてパッと顔を明るくさせて駆け寄った。なるほど、興味はそちらで元恋人の由利がいようがいまいが関係なかったのだろう。 「僕、YURIさんに撮ってもらいたかったんです!これからよろしくお願いします♪」 「……あぁ、はい、どうも」 藍は衣都が由利の元恋人だと知っているので無表情のまま差し出された手を握ったが、その瞬間スタジオ内にぶわりと重厚な甘い香りが広がる。由利は眉をひそめ咄嗟に鼻と口を塞いだが、どくんどくんと脈打つ心臓は落ち着かない。隣に立っていた麗も口元を押さえたまま膝から崩れ落ち、衣都と握手している藍は額や首に青筋を立てて何かを堪えているのが分かった。 「え、え、なにっ!?これ、もしかして……!」 「くそ……ッ」 初めて間近で見た『運命の番』。 都市伝説だと思っていたけれど、運命の番同士は会った瞬間に分かると言われている。藍と衣都が握手をした途端に衣都のフェロモンが溢れ出し、アルファである藍がラットを引き起こさないように耐えているのが、由利のぼんやりとした視界に映っていた。

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