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第8章:混沌 1
あの一件があり、当たり前なのだが衣都は専属モデルから外された。
昨今はオメガが表に出て活躍できるような社会になっているが、まさか浅沙や他の関係者も藍と衣都が『運命の番』で、会うと自動的に二人ともヒートを起こすなんて事態になるとは想像していなかっただろう。
かくいう由利も想像していなかったうちの一人だ。
衣都と付き合っていた時は彼のフェロモンなんて感じたこともなかったが、オメガのフェロモンはあんなに強烈なものなのかと思い知った。そこでふと、衣都が自分に迫ってきたのは無意識に藍のフェロモンのようなものを感じていたのかもしれない、と思えた。衣都と付き合っていたのは3年前で、その頃は藍と体の関係はなかったし、実家に帰る時も藍がいない日を狙って帰っていたので会ってもいなかったのだ。
でも思い出したのは、藍の洗濯物が由利の荷物に混ざってしまっていたこと。
インナーが一枚混ざっていたのだが捨てるのも忍びないし、着ていたことがあるのだ。そんなまさか、藍のフェロモンがついていたとしても微量だろうと思っていたのだけれど『運命』は分かるのかもしれない。
衣都があの後どんな状態になったのか聞けていないのだが、もう一人の『運命』はあれから寝込んでいる。
――いや、寝込んでいるというか、オメガのような発情期に苦しんでいるのだ。
「………藍、大丈夫?調子どう?」
あまり近寄らないで欲しいと言われたので、由利の寝室を明け渡したら藍は引きこもるようになった。でも一日中顔を見ないのは不安なので様子を見にいくのだが、寝室のドアを開けた途端にぶわりと藍のフェロモンが体にまとわりついてくる。由利もアルファなのにそれを上回るフェロモンの『重さ』に、がくがくと足が震えるのをグッと堪えた。
アルファの発情はラットと呼ばれているが、度を越すと自分のオメガを守るために狂暴化することもあると聞いたことがある。今の藍には守る相手がいなくて、彼の本能が衣都を欲して暴れそうになっているのかもしれない。そう考えると心臓を握りつぶされそうなほど苦しいが、そんなわがままを言ってられない状況だ。
「ゆうり……?」
ベッドの背もたれに寄りかかるように座っている藍がこちらを見て、何かを堪えるように歯をギリッと噛み締めたのが分かる。眉間に深く皺を刻み肩で息をしている彼は、もう暖かくなる季節なのに時期はずれの雪が降っていて寒いのに、タンクトップだけを身にまとっていた。
まるで獣のように由利を見つめている藍の視線にどきりとしたが、由利はオメガではないので彼のフェロモンには反応しない。本能的になにも反応しない自分はやはり『アルファ』なんだなと思うと、ぎゅっと胸が締め付けられた。
「水、持ってきたから……必要なものがあれば言って」
「うん、ありがとう……」
「仕事も大丈夫。あんなことがあったから、一旦スタッフの入れ替えとか新しいモデルを考える時間とか、体制の立て直しで時間が欲しいって浅沙さんからも言われてるし。藍の仕事はアシスタントの子たちが代わってくれたりスケジュールをずらしてくれてるみたい。藍の看病はしばらく俺がするって無理やり各方面を説得したから、ゆっくり休んで」
汗が滲んでいる額を拭こうと思って手を伸ばし、毛先が濡れている前髪に触れる。由利は『Camellia』の専属モデル以外にも仕事のスケジュールが詰まっているのでずっと家にはいられないが、今の藍にとってはそのほうがいいだろう。
でも、彼が自由に家の中を歩き回っていないのは帰ってきた時の家の中の空気で分かる。浴室に入ると香水のような残り香がふわりと鼻をくすぐるのだが、リビングなどには行かないようにしているらしい。アルファがアルファのフェロモンに『性的』な意味であてられることはことはないだろうが、由利はなぜか藍のフェロモンを嗅ぐと体の奥底がずくりと疼く感じがする。
今も、この部屋に入った瞬間から藍 に取って食われそうな緊張感で空気が張り詰めていた。
「……額が熱いけど、本当に大丈夫?一回病院に行ったほうがいいんじゃない?」
「行っても抑制剤出されるだけだし、無駄だって……。体の膿を出し切る注射とかしてくれるなら、別だけど」
「膿?え?どこか怪我してんの!?」
「そうじゃない。衣都 のフェロモンが、体の中に入り込んでて気持ち悪い……」
そう言いながらぎゅっと抱きしめられ、由利は思考が停止した。
熱い体温の彼に抱きしめられながら考えたのは、運命の番のフェロモンを『膿』だと言って嫌がるのは世界中を探しても藍だけだろうな、ということ。
そんな言い方は失礼だとか、もう少し言い方を考えろとか、藍の兄として言いたいことが頭の中に浮かぶ。でもそんな常識的な言葉より、彼が一ミリだって運命の番になびいていないことが心の底から嬉しかった。
今すぐ藍にキスをして、彼の中の膿を全て出し切って由利のことで満たしたい。
そんな思いを込めて力づくで唇を重ねると、藍は熱に浮かされ潤んだ瞳を見開いた。
「ゆ、り……?」
「膿、出し切ろう、ぜんぶ。俺、明日オフだから……」
明日が休み、なんてこれ以上の誘い文句はない。
由利から誘われると思っていなかったのか藍は驚いていたが、やっとどこか力が抜けたように安心した顔になって微笑んだ。
「――愛してる、由利。僕を由利で満たしてほしい」
そう言って触れた藍の指は、肌が火傷しそうなほど熱かった。
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