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第3話

 自らの凋落のことを考えてみる。くだらないが頭が暇だからやってみる。お口の方は悟さんのペニスのお掃除で忙しいけど。  分かりやすいから物理の公式で考えてみよう。  ある物体の落下開始からt時間後の落下速度をvとすると。  うーんと?  『 v = Vo + at 』  だな。うん。  こいつをぼくの現実に当てはめてみる。  vは、ぼくの現在の凋落スピードだ。はたして男娼佳樹くんはどんだけの堕ちぶれようなのか、ってこと。  Voは初速度だから、どのくらいの衝撃でぼくの凋落が始まったかってので、これはやはり母親が父親を刺し殺したっていう社会的インパクトからいっても相当なものだ。どっかんって感じだよ。大砲の発射並みってわけ。  aは加速度か。物体が落ちる場合、質量によって時間とともに落下速度は速くなる。うーん。これもけっこうぼくに当てはまっているんじゃない? 重力加速度なんて生易しいもんじゃないよ?   …でも、なんだな。これほどのひどいセックスも日々重なると慣れるというか、これ以上悪くなりようがないみたいな、もう堕ちるとこまで堕ちちゃっているんで、みたいな開き直った感じもあって、ぼくの転落加速度も最近じゃちょっと手加減気味かも。て。それがなに、だけど。  そして、時間t。  これはいままでの思考からいって、お母さんがお父さんを刺したあの悪夢の時間から始まっているのだ。  いや――でも、果たしてそうなのだろうか?  じつはそれよりももっと前の、両親の間で起きたすれ違いとか、他愛ない違和感とか、そんなものから始まっているのじゃないだろうか。  そしてお母さんはある日、男に走った。それからすったもんだすったもんだあって、妻の不貞に半狂乱になったお父さんをお母さんが刺し殺しちまったという、なんとも安っぽいメロドラマか土曜サスペンス劇場みたいな現実がぼくの身に降りかかったというわけだ。  そしてぼくは転落を始めた。あっけなく、コロコロコロ…、と。  自然界では物質の落下にたいして「抵抗力」というのが働くのだと教わった。これを考えるたびに、ぼくはこの抵抗力ってやつは本当に天からのお恵みなんだと感動する。その情け深い(ことわり)に胸が咽いでくる。  例えば、雨粒は空気抵抗を受けているという。じゃなきゃぼくらは、遠い天空から堕ちる雨の一粒一粒に弾丸に当たるようにして撃ち殺されてしまう。  あと、体内でも抵抗力というのは働いている。いわゆる免疫力というやつで、毎日ヒトの体には数千個のがん細胞ができるというが、それを免疫細胞が甲斐甲斐しくやっつけてくれているというわけだ。  こんなのはほんの一例であって、それらのなにがすごいって、こういうことを人間が知るも知らないも、感謝などしない間にも、そういうことが起こっているという現実が、つまりその理の実行力がまことにすごい、本当にありがたい、奇跡的なことだなぁとぼくはしみじみ感嘆するのだ。  (ひるがえ)って、自分の転落における「抵抗力」について考えてみる。  するとまあ呆れ果てることには、ぼくにはそんな抵抗力がもとから備わっていないというか、むしろ逆に、「加速力」なら、ある、気がしてならないのだ。  己の転落を加速しちゃう力というか、衝動というか、思考というか、そんなものなら必要以上に、有害なほど所持していると思わずにはいられない。だからこそぼくはここまで堕ちに堕ちぶれているのだろうし、案外、そんなことにもけっこう早めに慣れてきてしまっているのだ。  そういうことを考えるにつれ、ぼくはこの状態をせめて人のせいには、たとえば親とか悟さんのせいには、しないように気をつけている。そりゃ、確かに悟さんの仕打ちはひどいものだけれど、それもたぶんどこかぼくに悪いところがあるからに違いないと、もうここまでいくと自虐以外のなにものでもないかもしれないけれど、そう思うのだ。 「お前、なにを考えている」 「――――?」  また、悟さんがぼくに声を掛ける。  ぼくはベッドに仰向けになっている悟さんに跨って、上から最後のお勤めをしているのでありますが。つまり、自分の肛門にぶちこまれていたナニを舐めて綺麗にしてさしあげている最中なのだ。しかも今夜は両手首を縛られるという屈辱的な格好までもさせられて。  それにしても、なんでこの人は他人の思考にこうとやかく言ってくるのだろう。別になにを考えたっていいだろ、お勤めはきちんとしてるんだからさ。と、言ってみたくなる。怖いから言わないけど。 「いま、なにを考えていた。その空っぽな頭でなにも考えるなと、いつも言っているだろう」  冷たい、体の芯まで凍らせるような言葉を聞いて、またぼくは思う。なんで、と――――。  だって、なにかを考えて気分転換でもしていなければ、こんなのやっていられない。  前戯もなくぶち込まれ、鞭で打たれて。長時間、ガンガンとヤられて。  ザーメンを流し込まれ、挙句にうんちまみれのペニスを舐めさせられて。  そんなの人間のすることじゃない。ペットだってやらない。もう、クズのクズ、トイレットペーパーくらいじゃないか。それだって、ぶち込まれている間はなにかを考える余裕なんかないんだから、だから考えるっていったって、ほんのいまだけだ。 「なんだ。その顔は」  別に顔に出したつもりはないけれど、ぼくの反抗を感じ取ったように、悟さんが低い、怒りのこもった声を出す。のっそりと上体を起こす。 「口を離せ」  命じられるままに口をペニスから離した途端、髪の毛を乱暴に掴まれた。そのままバン、バン、バンっと、十回くらい頬に平手を食らう。 「あ…痛――」  じんじんとほっぺたが痺れて、腫れあがる感覚がする。あまりに理不尽で悲しくて、声をあげて泣き出してしまいたくなる。浮かぶ涙を止めたくなくなる。 「泣くな」  浮かんだぼくの涙に気付いて、悟さんが鋭く命じる。 「お前は淫乱で淫売な人形なんだから、人間みたいに泣くんじゃねえ」  なんで…?  そんなの、ひどい。  そう思って目を閉じると、ひとしずく涙が零れ落ちた。それでまた、バシンとひっぱたかれる。髪を掴まれているから、引っぱられて頭も痛い。 「泣くんじゃねえって言ってんだろうが!」  今度は大きな怒声が飛ぶ。  髪を掴んだまま腕を振りおろして、悟さんがぼくをベッドから放り出す。 「もういい。汚らしい娼婦野郎」  床への衝撃で、ぼくはしばらく呆然とした。娼婦野郎…って初めて聞く言葉だな。グレーゾーンて感じだな。とかぼんやりと思いながら。  悟さんはそのまま布団に潜り込んでしまう。  リビングに戻ろうとしたぼくは手首を縛られたままでいることに気付いた。何時間もされっぱなしだから、生まれてこのかたこんなじゃなかったかしらと錯覚していた。 「あの、これ…」  悟さんの枕元に手首を差し出した。まだ眠っていなかったみたいで、悟さんがぎろりときつい視線を遣す。  その顔を見て、ぼくはふと気付いた。悟さんは別に悪い顔はしていない。どちらかというと、はやりの俳優並みのかっこいい顔を持っている。なのになぜ、ぼくとばかりセックスをするのだろう。いや、でも、もしかしたら昼間は誰か他の女ともヤっているんだろうか?  …ああ、まったく。腕の紐をほどいてくださいとお願いしようとしていただけなのに、こんなときになんでぼくはこんな思考回路を採るのだろう。我ながら不可解でならない。 「うるせえ。早く出て行かねえと、もういっぺん殴るぞ」  もっぺん殴られちゃかなわない。ぼくは手首を結わかれたまま、パジャマを掴んでいそいそと部屋を出た。前に結わかれているからトイレはできるな、うん。もっとも、なぜ後ろ手に縛らなかったのかといえば、それじゃ背中への鞭打ちがうまくできないからだろう、きっと。  リビングでカッターを探した。口に咥えて縄を切るためだ。最近あまりにお口を使っているから、ほっぺたに新手の筋肉がついた気がする。  なかなかうまく切れなくて、かなり長いことかかって、ようやく切れた。手首は真っ赤で、ところどころ皮膚が擦り剥けていた。  その縄を手にして目にして、いきなりぼたぼたと涙が零れた。堪えていたものが、詰まりが取れたみたいに噴き出した。  あららら。  佳樹ったら、そんなに我慢してたの。  ぼくが、震えて泣き出す。  …いつまで?  ――いつまで。  いつまで、これが続くの?  目の前にあるのは真っ黒な闇だ。 (この縄で首でも吊っちまおうか)  不意に新しい決意が起こる。まるでものすごい解決策を思いついたように、突如として視界が開けた。  それもいいよな。  楽になれる。  でも、明日、学校に行けば。  そう。あいつに会える。  声をかけてくれるかな。  いや。くれるだろう。少なくとも挨拶は必ずしてくれる。その点、うんざりするほど律儀なやつだ。そのあとでどんなにぼくがムスっとして無視しようが。  自分でも何様だと思う。  だから前職タカハシの言ったことは正しい。  他のクラスメートはとっくにそんなぼくの正体を見抜いて、こんなやつ存在しない方がいいみたいな、楽園にやってきたヘビを見るみたいな蔑みの目でぼくを忌避するけれど。  でも工藤だけは、ぼくを無視しないでいてくれる。  ――それだけで。  たったそれだけで、ぼくはもう少し生きたいと願えるのだ。  もう少し、生きていられそうな気がするのだ。それで充分じゃないか。だろ? 女郎の佳樹よ。  だからそんなに思いつめるな。  思いつめたって、しょうがねえんだよ。

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