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第22話
自分がいつイったのか、またタカハシがぼくの中でいつ射精したのか、興奮しきっていたぼくには分からなかった。
力をなくしたタカハシがぼくから出ていくとき、のけぞり、なだれを打つようにベッドに頽おれたきり、ぼくは自分ではなに一つ体を動かせぬまま、うつろにタカハシを見あげた。タカハシもまた呆然と、暗闇で幽霊でも見つけたような目をしてぼくを見おろしていた。ぼくには痙攣がおき、ときおりピクピクと手足が勝手に動いた。
このセックスはなんだったのだろう。
愛じゃない、もちろん。
――勝負。
始め、そう感じた気がする。でも終わってみれば、ぼくの八つ当たりにすぎなかったのかもしれない。ぼくはタカハシを使った――。でも、それも想定内だといえなくもない。つまり二人にとってどうってことじゃない。ぼくは狂人だ。
しばらくしてタカハシがぼくと彼の腹にぶちまかれたぼくのザーメンと、ぼくの無様なアヌスからとろとろと流れ始めた彼のザーメンとを拭った。
ぼくは疲れ、目を閉じると涙が溢れた。急激な眠気が襲い、もはや心も体もどこがどう痛いのかよく分からなくなって、眠りによる麻酔が欲しかった。
まもなく柔らかい、タカハシの匂いがする掛け布団が優しくぼくを被う。心地よさに眩暈がする…今は何時ごろなのだろう。考えるまもなく気が遠くなり、無我の、無意識の宿る幸せな闇の境地へとぼくは堕ちた。
きれぎれに意識が戻っても、すぐにまた眠りに堕ちてしまう。
そして何度目かに、カチッと高い音がして、かなりゆっくりと目覚めた。目を開いても、一瞬ここがどこだか分からなかった。天井の蛍光灯は消えていて、卓上ライトだけが頼りなく部屋を照らしていた。
視線を上げると、もう元通りに服を着たタカハシが椅子に腰掛けて紫煙を燻らせている。
そうしているのを見るとなんだかほんとにオッサンくさい。というかまあ、二十二歳くらいに見える。社会人直前という感じ。ぼくの視線に感づいてこっちを見、相変わらず飄々とした表情で口を開く。
「まだ早いから、もっと寝ていろ」
なぜさっき、ぼくはこの表情にあんなに苛立ったのだろう。
「いま何時?」
「二時半」
そんな時間か。十一時がとっくに過ぎていることに気付いて息が詰まった。胃のあたりがずんと重くなった。
悟さんは昨夜のぼくの不在をどのように怒っただろう。いや……今もまんじりともせず起きていて、その怒りを募らせ続けているとしたら?
考えただけでいますぐどこかのビルから飛び降りたい気分になった。
喉が渇いていた。
もらった緑茶のコップがベッドの下に置きっぱなしだったのを思い出す。
「あんたは、寝ないの?」
そう、タカハシに訊きながら布団から出ようとしたときだった。ものすごく大事なものが間違っている感じがして、一気に頭が混乱した。すぐにその理由が分かって、全身から血の気が引く。冗談ではなく本当にゾクッとした。
ぼくはシャツを着ていなかった。
「あれ…? なんで――?」
ベッドにしゃがみこみ、ぼくは唖然としてタカハシを見た。
「どうして…? なんで、脱がしたの――?」
あまりのショックで声に力が入らない。
灰皿でタバコを揉み消したタカハシが、険しくぼくを見た。
「その背中、誰にやられた?」
なにもかもが信じがたくて、ぼくは問いを繰り返した。
「ねえ、なんで…? なんでだよ。あんなに、お願いしたろ…?」
血の気が引いて、頭がくらくらする。喉に塊りが詰まったみたいに、息苦しくなった。
「あんなに頼んだのに…!」
タカハシはぼくの願いをきいてくれなかった。ひどいよ、ひどい。
新しい絶望がぼくの上に降りかかってくる。背中を見られてはならない、その破戒による絶望が。
タカハシがぼくの前にきて膝をつき、顔を近づける。
「ステディにやられたのか?」
ぼくは反動的に首を振った。質問にまともに返答をする気など、とうからなかった。
「ねえ、どうして? なんでだよ――? あんなに見ないでって、頼んだじゃないか。なんで、こんなこと。あ…シャツを返して。どこ? ぼく制服、どこ?」
見回すと、タカハシが座っていた椅子の背もたれにそれらしいのが掛かっている。取ろうとベッドから立ち上がろうとすると、腕をとられた。
「答えろ。ステディがやったのか」
ぼくは呆然と彼に視線をあわせた。
――ステディ? …そうだよ。でもぼくは、自分から悟さんのことをそう呼んだことはない。タカハシがそう呼ぶのを否定はしなかったけれど。
「シャツを返して。ぼく、帰る」
「佳樹、おまえがされていることを世間じゃなんて呼ぶか知っているか? デートDVっていうんだぜ」
腕を握る手に力を加えて、ぼくに言いきかせる。
デートDV。
もちろん聞いたことはあるし、それがなんだかも知っている。ぼくは吐き気を覚えた。なんだかこいつはしょうもなく腹が立つ、そんな怒りがわいてくる。
「あんたはなんにも分かっていないくせに、余計なことをするなよ」
「朝になったら病院へ連れていく。その背中の腫れ方は尋常じゃない。医者に見せるべきだ」
ぼくは絶句した。
とんでもない。それだけは。それだけは。
それだけは絶対にできない。ぼくは死ぬんだ。死ななくちゃならないのだから、医者になんか行っている暇はない。
「あんたには関係ない。タカハシ。関係なさすぎるんだよ」
命を清算しようと思っているのだから、余計なことをしないでほしい。
タカハシが眉根を寄せる。
「関係ない? そんな言い分、通らないだろ。俺にはおまえを抱いた責任がある」
ぼくはまたも言葉を失った。
…責任。
――責任?
責任だなんて、そんなもの。
ぼくは臓腑が痺れるような憤怒がわき立ってくるのを抑えられなかった。
「そんなの、いらねえよ」
耐えきれずに呻いた。
「責任、なんて。そんなもの、どこにあるってのよ。だって、ぼくがゆうべここに来なかったら、タカハシ、あんたはなにをしていた? 昨日の相手を抱いてたろ? ぼくのことなんか忘れて、頭に過ぎりもしないでさ。あいつと仲良くセックスしてたろ。あいつだけじゃない。あんたはとっかえひっかえいろんなやつを可愛いと思っちゃ、抱いているんだろ? なのに、なにが、責任だよ。笑わせんなよ。ぽっと来たぼくのことなんかほっといて、それこそ忘れろよ。もうこれきりだって言ったろ? それで、いいじゃないかよ」
勢いに任せて一気に言った。
ほんとに、なにもかもがしょっぱい。世知辛え。所詮この世は生き地獄――だ。
(だから嫌だったんだ)
だから背中の傷を知られるのが嫌だった。
心身ともに疲れ果てているのに、こういうとんでもなく的外れな言い合いをしなくちゃならない。
本当はその腕に抱いて欲しいだけなのに、余計なことで時間を無駄にして、大事にしたかったことを諦めなくちゃならない。
ぼくのこれほどの罵言にもタカハシは表情一つ変えなかった。しばらく黙りこくったあと、
「俺のことなんてどう解釈してもらってもかまわない。でも明日、おまえは俺が病院に連れて行く。力づくでもそうする」
そのきっぱりとした明瞭な響きに、ぼくは息が止まりそうになった。おかしなもので、こんなに切羽詰ったときだというのに、生徒会長だったときのタカハシはもしかしたらこんなしゃべり方をしていたのかもしれない、などとふと思った。
なんだかでも、このタカハシの視線は危険だった。
それを感じてぼくの心臓は不穏に暴れていた。
なぜならぼくの中の、もう少しだけ生きたい、いっそ誰かに助け出してもらいたい、などというすでに脳裏の奥深くに抑えつけ、または捨てきったと思っていた願望を、この瞳が突き動かしてしまいそうで怖かった。
そこに、死のう、死なねばならない、とのぼくの文字通り命をかけた一大決心を覆してしまうだけの力が秘められているのを感じて――そして、それがぼくにとってあまりにも魅惑的で、甘くて、力強いから。
体が、心が、ふたたび溶けてしまいそうなほどに、彼を欲してしまいそうで、それが怖かった。
だからぼくはこの瞳から逃げたかった。逃げ去りたい、その一心だった。彼の目の前から、一刻も早く消えたいと切実に願った。
「あんたには関係ない、タカハシ。これは、ぼくの家の問題なんだから」
あまりにここから逃げ出したくて、彼の前からいなくなりたくて、思わず口を滑らせてから、しまったと気付く。なんて軽率な発言をしたものだろう…!
案の定、タカハシの目の色が変わった。
「――うち? 家族にやられているのか?」
語気を強める。
ぼくは、痙攣がおきたように首を横に振った。ダメだ…ダメ…。絶対に、知られちゃダメなんだ…。だからもう、ほっといて――!
強く肩を掴まれた。
「親か。親にやられているのか?」
顔を歪ませながら首を振り、否み続けた。
親は、いない。ぼくに親はいない。
一人は死んだ。もう一人に殺されて。
そしてそのもう一人はいま刑務所にいる。面会になど来るなと言い残して、ぼくの前から消えてしまった。
ぼくは孤独に、ぼくを憎むだけの悟さんに預けられ、強姦され、鞭打たれて。でも悟さんだけが悪いんじゃない。悟さんだって、心に深く傷を受けた被害者なのだから。
悪いのはお母さんで、そしてその母のすべてを継いで生を受けてしまったぼくという存在で。だからぼくはいなくならなくちゃならない。なにより自分自身が、いなくなりたいと願っている。
どうしてこんなに、なんでこんなに、うまくいかないことばかりなのだろう。なんの歯車が、どこでどう壊れてしまって、それでも回り続けているのだろう…?
心臓がドクドクと暴れ出した。なぜかハアハアと走った後みたいに息がきれる。息をするたびに唇が乾いた。
「そんなこと…知られたくはなかったんだよ…あんたに――」
それ以外に、どんな言葉がぼくに残されていただろう?
涙が盛りあがり、頬へと伝った。急に、胸が焼かれたみたいに強く痛んだ。
(あ――?)
どうして。
息が、できない。
(苦しい…)
突然興った体の変化に、思考が追いつかなかった。ぼくは虚空の一点を凝視し、空気を求めて喘いだ。
息苦しい。いったいなにが興ったのだろう?
「…あ」
「佳樹?」
タカハシが顔色を変える。
「佳樹? どうしたっ、大丈夫かっ?」
やめて――そんな悲痛な目をしないで。
そんなに心配しないでほしい。どんなことをされたって、あんたがどんな人だって、ぼくは、あんたが大好きなんだから。
懸命に口で息を吸い込もうとする。何度も何度も。でも入らない。入ってこない。
視界が暗くなる。意識が遠のく。
苦しい――、苦しい…!
そうか。
肺に骨が刺さったんだ。
ならばぼくは死ぬ。
本当にここで死んでしまう。
ごめん、タカハシ。すごい迷惑をかけて――!
そしてそのままぼくは、睡眠より深い眠りへと堕ちていった。意識を失う直前のほんのつかのま、タカハシが倒れるぼくを抱きかかえてくれたことだけは、かろうじて分かった。
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