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第55話 不穏な声

 寝所を出て、広間に向かう。  途中、従者らしき者に声を掛けられ、奥の間に案内された。  部屋に入ると、文机とノートのような冊子に筆が、きっちりと準備されていた。 「なんだ、もう平気なのか?」  後ろから志那津に声を掛けられて、振り返る。 「急に眠っちゃって、すみませんでした。すっかり元気です」  深々と頭を下げた。  利荔に霊力を吸われた後、蒼愛は意識を失って倒れたらしい。  怖い声を聴いて、気が付いたら紅優に抱かれて寝ていた。 「あれは利荔の無礼のせいだから、気にしなくていい。むしろ謝るべきは俺だ。すまなかった」  志那津に真っ直ぐに謝られて、ぽかんと口を開けてしまった。 「なんだよ、その締まりのない顔は。余計に阿呆に見えるから、せめて口を閉じろよ」  指摘されて、慌てて口を閉じた。 「調子が戻ったのなら、学びを始める。まずは漢字の書き取りから。ある程度の漢字を覚えたら、創世記の説明を利荔にさせるから。今日は漢字の書き取りをびっしりやってもらう。三日しかないんだから、効率よく集中して覚えろよ」 「はい! わかりました」  志那津が早口でまくし立てるので、思わず背筋が伸びた。 「志那津様、時の回廊は、今、どうしていますか?」  さらっと紅優が質問を挟んだ。 「常時と変化ない。ここ数百年は誰も入っていないよ」  志那津が訝し気な視線を紅優に向ける。 「実は先ほど、蒼愛の夢に何者かが入り込んだ様子で。声しか聞こえなかったんだよね? 姿は見た?」  紅優に質問され、蒼愛は首を振った。 「真っ暗な場所で、声を聴いただけだよ。とても怖くて、逃げたんだけど、どこも真っ暗で、どこに逃げればいいか、わからなくて。ずっと紅優の名前を呼んでた」  思い出すだけでも背筋が寒くなる。  そんな怖さだった。  志那津が、あからさまに顔色を変えた。 「どんな声だった? 男? 女?」 「よく、わかりません。女性だったようにも思うし、男性だった気もするし。ごめんなさい」  しゅんと肩を落とす蒼愛を余所に、志那津が紅優に目を向ける。 「この国を壊せ。神に騙されるな。真実を知れ。と話していたそうです。蒼愛には、悪い声に感じられたようです」 「……そうか」  紅優の説明を聞いた志那津は、心なしか安堵したように見えた。 「不備はないはずだけど、もう一度点検させる。よく考えれば、現時点で蒼愛と接点を持つためには、時の回廊くらいしか手段がないかもしれないな」 「もしくは三日後の、色彩の宝石の祭祀になるかと存じます」  志那津の独り言のような呟きに、紅優が言葉を続けた。  考える顔をして、志那津が黙った。 (僕に声をかけてきたのが誰なのか、紅優と志那津様は知っているんだ)  志那津が顔を上げて、紅優に向き直った。 「これまで蒼愛に何も知らせなかったのは、わざとか? どういった仔細だった?」 「俺は蒼愛を餌として買い入れました。だから俺の屋敷を出たこともなく、この国を何も知らない。だからこそ見える真実を、淤加美様や月詠見様は求められたようです。中途半端に事情を知れば蒼愛の目を濁すだけだと、考えられたのでしょう」  色彩の宝石を盗んだ犯人を知ったら蒼愛は態度に出しそうだから、と説明されていた。   それも嘘ではないのだろうが、どうやらそれだけではなかったらしい。 「淤加美様の判断に異を唱えるつもりはない。けど、淤加美様がそう判じられた時とは状況が変わってきていると俺は考える。だからこそ、蒼愛に創世記や歴史を学ばせる決断をされたんだろう」 「志那津様の御推察に間違いはないと存じます」  志那津の話に紅優が頷いている。  さっきから二人の話は、蒼愛には難しい。 「蒼愛を守るためにも、総てを知らせるべきだね。霊能も今より鍛えなきゃダメだ。色彩の宝石を奉る祭祀まで、三日か。時間が足りないな」  志那津が眉間に皺を寄せて舌打ちした。  そんな志那津を、蒼愛は呆然を眺めた。  蒼愛の視線に気が付いた志那津が、突然慌てだした。 「別にお前を守るためじゃない。淤加美様の頼み事を滞りなく遂行するためだから。お前が自分で自分の身を守れなければ、淤加美様に迷惑が掛かる。無能のまま帰すわけにはいかないと悩んでいただけだからな」  言うだけ言ってそっぽを向いてしまった志那津は、ちょっと可愛く見えた。  蒼愛の隣で、紅優が笑いを抑えているのがわかる。 「漢字の書き取りは後回しにする。創世記の説明と歴史を今日中に頭に叩き込んでもらう。明日と明後日は霊能を鍛える訓練に回す。利荔なら日暗の浄化の力も使い方を教えられるけど。念のため、俺の方から月詠見と日美子に報せを入れるよ。風の使い方も覚えてもらうから、そのつもりでいろよ」  志那津に視線を向けられて、蒼愛は思わず前に出た。 「風の使い方、教えてもらえるんですか? 創世記の勉強も、できるんですか?」  志那津が話したカリキュラムは、蒼愛が望んでいた勉強の内容だった。  特に風の使い方は、前から知りたかった術だ。ワクワクが止まらない。  嬉しい気持ちが前面に出てしまった。 「総て一度で覚えろよ。俺が教えるんだから。完璧に身に付けてもらう」 「……はい、がんばります」  上がったテンションが半分くらいに下がった。 「日美子様と月詠見様にお声掛けしていただけるのですか?」  紅優が驚いた様子で志那津に問う。 「仕方がないだろ。背に腹は変えられない。その代わり、対応は紅優に任せるよ」  志那津の顔には、あの二人苦手だと書いてあった。  紅優が苦笑して頷いた。 「勿論でございます。志那津様のお気遣いに感謝いたします」  仰々しく礼をする紅優に倣って、蒼愛も頭を下げた。  そんな蒼愛を横目に眺めて、志那津が背を向けて部屋を出ていった。 「だから関わりたくなかったんだ。色彩の宝石なんて鍛えたくなるに決まってる。しかもなんで蒼愛はあんなに素直で可愛いんだ。守ってやりたくなってるじゃないか。ほだされるな、俺の馬鹿」  志那津がブツブツと言いながら、小さく息を吐く。  部屋を出ながら漏れ聞こえた言葉に、紅優と蒼愛は思わず顔を見合わせた。 「今、利荔を呼ぶ。奥の間で待っていろ。待っている間も、自分で本を読んで予習しろよ」  部屋の中に戻ってきて蒼愛に指示すると、志那津が今度こそ部屋を出ていった。  どうやら独り言を口に出していた自覚はないらしい。 「志那津様と仲良くなれそうだね」  紅優が笑顔で蒼愛に話し掛けた。 「うん、思ってたよりずっと優しい神様だし、嫌われてもなかったみたい」  蒼愛も紅優に笑顔を返した。  嫌いな素振を前面に出していた神様は、ちょっと素直じゃないだけの生真面目で聡明な神様だとわかった。  利荔と紅優が言っていたツンデレというのがどういう意味か、何となく分かった気がした。

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