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この世界が現実だと妹は忘れている

倒れた妹が目覚めたと聞いて、アラルはすぐに会いにいった。 そのとき、最悪を想定していなかったとは言わない。 アラルの人生は公爵家の長男にしては苦労が多いものだった。 常に頭の片隅に悪い想像をしておくことで、心構えをする訓練をしていた。 無意識に。 上に立つ者として人よりも多くをこなさなければならないと父から言われて続けていた。人と比較して厳しくしつけられた部分もあるが、アラルの苦悩の大部分は妹だ。 アラルだけの人生なら貴族として、平凡で平均的なものだと言えるが妹の話を出すと「よくある人生」から大きく逸脱する。 妹の出産は母の死と共に語られる。 同時ではなかったが、同時期のことだ。 母の死は父の中に未だに生々しい傷として残っている。 安全な出産ではなかった。 妊娠中の母は王都の邸宅で襲撃された。 騎士が十分に配置された庭でのことだ。 無事に騎士たちにより母は守られたが、その場で破水。 襲撃された衝撃が出産を早めたのだと後に医者が父に報告していた。 邸宅には医者も産婆も必要以上に用意していたので、予定よりも早く生まれたこと以外、問題はなかった。 ただ、公爵夫人である母が室内ではなく庭とはいえ野外で、騎士たちの目の前で出産することになったのは恥ずかしいことらしい。 緊急の事例において優先されるべきは命だ。 母の命と母に宿った子供の命。 それを守るために室内に母を移動させることは難しかった。 騎士のマントを背に敷いて、苦しそうな声を上げる母。 今でもアラルは覚えている。 お湯や布を庭に持っていく使用人たち。 慌ただしいその様子を外から目のいい平民が見ていたなどと、噂が広がるまで誰も考えるはずもない。 目の前のことで精いっぱいだ。 そして、噂の広がりはあまりにも早かった。 犬や馬のように公爵夫人は地べたに寝転んで子供をひねり出したと面白おかしく語った平民たちの声が母に届いてしまった。 そして、母は妹を産んでしばらくして自害した。 家の名誉を守るためという書き置きが残されていたが、産後の不安定な精神に噂がとどめを刺したのだというのが、医者の見解だった。 この事件によりアラルは平民を嫌悪するようになる。 平民のすべてが悪いわけではなくとも階級意識が低くなったからこそ、母は自分の命を持って家門への侮辱を終わらせなければならなかった。 他国のように圧倒的に貴族の立場が保証されていれば起こらなかった悲劇だ。 貴族の侮辱を堂々と口にできるほど王都の治安は素晴らしいのですねと幼いながらにアラルは初対面の王太子に皮肉を言った。 それほどに妹が生まれたころの記憶はアラルにとって鮮明なものだった。 妹が苦しんだりしないよう、さみしくならないようにありとあらゆるものを公爵家の力で手に入れる父に辟易しながらアラルは従った。 妹の望みを叶えることが必ずしも苦しみを取り除いたり、さみしさを遠ざけることに繋がらないと知っていながら、アラルは父の決定に従うしかない。 甘やかされる妹と厳しくされ続ける兄という構造が常態化しても、アラルは仕方がないと思う気持ちが強かった。 無事に産まれ、無事に生きている妹を尊いと思うのなら、兄である自分が苦労をしても受け入れるべきだと思った。 ただ、アラルも万能ではない。才能に恵まれているわけでもない。 妹のわがままが段々と笑えないものに変わってきたことで、父に抗議したり妹を直接ちゃんと叱ったりもしたが遅すぎた。 アラルがどれだけ父と妹にこのままではいけないと訴えても何も変わらない。彼らは今の生活に慣れてしまった。 日常は問題なく過ぎている。 そう思っているのだろう。 第二王子殿下に仕えながら妹の起こした問題の後始末に奔放するアラル。 妹の侍女は妹を甘やかすばかりで内心では馬鹿にしている。 この状況がまた妹の素行を悪くして、自分を振り返って反省することがなくなっていた。 身勝手で差別的な言動に歯止めが利かなくなっていた。 アラルが出来ることは限られているが、そのどれも成功とは言えなかった。 まともな侍女は配置換えを願うばかりで性悪しか妹の近くに残らない。終わりだ。妹を取り巻く状況は終わっていた。 性悪は手癖が悪く妹の服を勝手に持ち出したり、宝石を盗んで質屋で売っていた。そういった魂胆でもなければ、妹の侍女にはなりたくないということかもしれない。 アラルは妹の侍女が廊下の反対側をのんびりと歩いているのを見て、サボっているのだと即座に理解した。 倒れた公爵令嬢が目覚めたのに廊下で外を見ている暇そうな侍女などいるわけがない。医者を呼んだり、飲み物を取りにいったり、忙しく歩き回るか、傍らについて様子を見るものだ。妹が蔑ろにされている姿に頭が痛くなる。 アラルに気づいた次女は頭を下げて小走りで通り過ぎていった。 あまりにも不遜な態度だ。 アラルはノックをせずに妹の部屋を開ける。 部屋の中で妹に限らず誰かが悪さをしている可能性があるので、妹の部屋はずいぶん前からノックしないで入室することにしていた。 アラルのそういった不作法な行動は年頃の妹からすると破廉恥で許し難いようだ。よく怒られる。 『知らない人が急に押し入ってきたと思ったら、お兄さま?』 と嫌味ったらしく言われることもあった。 アラルと妹は似ていない。 その上、アラルの容姿は父とも似ていない。 癖のある赤茶色の髪と赤みかかった瞳とそばかすという、平民たちによくある色合いを明るくしただけでアラルは地味だった。 父は赤みがかった金髪と黄金の瞳で公爵として華のある色合いと容姿で未だに若々しい。 父に似た派手さがある妹から地味な兄が見下されるのは仕方がない部分もあった。 「この見た目、もしかして乙女ゲームの悪役令嬢っ!?」 鏡を見ながら絶叫する妹を見て、アラルは意識が遠のきかけた。 アラルは今までも十分すぎるほどに妹には迷惑をかけられたし、忙しい日々を過ごしていたが、これから更に迷惑をかけられ、忙しくなると確信できた。 ◆◆◆ 渋る妹をなだめすかして甘やかしたり脅したりしつつ、聞き出した話をまとめると――こうだ。 この世界は大ヒットした乙女ゲームの世界で、自分はゲームだけでなく漫画やアニメを視聴したどころか、がっつりと二次創作もしていたオタクなのだという。 乙女ゲームとしての内容は幼少期に悪役令嬢を操作して主人公とのフラグを作らせるという画期的なシステムだという。 何が画期的で、何が正攻法なのか乙女ゲームを知らないアラルには理解できない。 「物語の中に入るパターンって実は本家にもDLCであって……あ、DLCっていうのは、ダウンロードコンテンツの略なんだけど」 ダウンロードコンテンツという単語に聞き覚えがないアラルはとりあえずメモを取ることにした。 あとで妹の発言をまとめなければならない。 「あたらしい主人公で別の視点で再体験、みたいな?」 妹が訴えることの一割もアラルは理解できなかったが、何とか伝えようとする内容を整理すると以下のようになる。 主人公は絶世の美女と噂される男爵令嬢であり、DLC版では中の人が異世界からやってきた中年女性に変わる。 主人公の中の人が変わることにより攻略対象の反応が変化する以外にも攻略対象が増える上に複数の男たちが付き合う薔薇イベントが発生する。 ファンの要望によりイベントの数は追加されるという。 この薔薇イベントに妹は生涯を捧げたと恐ろしいことを言い出した。 「やっぱり毒舌従者って受けだと思うから、顔グラが全然なくてモブ同然で王子たちのイベントにちょっと出番がある脇役あつかいで終わらせられる存在でも――わたし、アラル推しだったんだ」 妹の言葉にアラルは不覚にも泣きそうになった。 推しという言葉は知っている。 最初に妹が説明してくれたこともあるが、『勇者語録』と呼ばれる書物に意味が記載されている。 勇者の世界で使われている言葉はどれも独特だが、だからこそ、世界の神秘に触れた存在を簡単に暴き出してしまう。 アラルの心情が伝わったのか、妹は息を飲んだ。 「ごめんなさい。あなたの妹の体に勝手に入り込んで」 「おまえは僕の妹だ。中身がどうであっても、それは変わらない」 「いい子になるから! わだじ、ぢゃんど、……っ知ってるの」 公爵令嬢とは思えない見苦しい顔になった妹の涙をアラルはぬぐってやる。 「今までお兄ちゃんがいっぱいがんばってたこと、知ってるから、だからっ、公爵家の跡継ぎはわたしの子供に任せてっ!」 「は?」 「見た目が最強の男を婿にするから父様よりもキラキラで華やかで素敵な子を産むわ。次期当主として相応しいって一目見て分かる容姿の子をね!」 晴れやかな笑顔を見せる妹を前にアラルの意識は「もう無理だ」と訴えていた。 自分でも知らなかった部分をめった刺しにされた上、丹念に塩を塗り込まれた。 そんな残酷なことをした相手には善意しかない。 その状況に心がついてけなかった。 続きは後日また話そうと告げてアラルは自室に戻った。 すぐにでも第二王子に状況を報告しなければならない。 妹や使用人たちへの口止めも早ければ早いほうがいい。 分かっているのに一度ソファに座ると立ち上がれなくなっていた。 よく磨かれた木の机に映る自分。 アラルは手で顔を覆う。 貴族が持つ華やかさがない。その事実は知っていた。 客観的な情報としてアラルの頭の中にある。 分かっていたはずなのに妹の言葉に思った以上の衝撃を受けていた。 体がソファに沈み込んで一体化しているような意味の分からない想像をしてしまう。 ダイヤモンドは砕けないという『勇者語録』の一文を思い出すが、同時にダイヤモンドはトンカチで粉々になるという逸話も思い出す。 硬度が高いダイヤモンドは壊れない物、強い者のたとえとして勇者の世界では使われるが、同時にある条件下に置いて驚くほど簡単に壊れてしまう部分もあるという。 妹はアラルのことを見た目が平凡モブなのに公爵家の長男で誰に対しても毒を吐き出すのに父親には苦手意識があると言っていた。 間違っていないと認める気持ちと拒否感とが同じだけある。 アラルは息を吐きだして冷静になろうと努めた。 考えることは多い。 くだらない私事で思考を放棄するわけにはいかない。 妹は語っていた。 乙女ゲームの中で知ったアラルという人間は外見に劣等感を持っていてこじらせているので、最高の美貌を持つ男爵令嬢である主人公とは相性が悪い。 妹の中の人になったと言い出す存在は、乙女ゲームの世界観やキャラクターや物語の内容は好きだが男爵令嬢の美貌を鼻にかけた言動も性格の悪さも嫌っていた。 だからこそ、男爵令嬢の見た目に騙されないアラルに好感を抱いたという。 男爵令嬢が逆ハーレムを作ろうとして失敗したバッドエンドは、アラルと思わしき地味男が攻略対象になっている男たちにちやほやされているところを見せられるオチだという。 欲張り主人公ざまあエンドだと妹は言っていた。 やるべきことは多い。 なるべく早く動かなければいけない。 考えをまとめて合理的に動かなければいけない。 分かっているのに寒気がする。 自分の指先から足先まで血が通っていない気がして怖くなる。 『公爵家の跡継ぎはわたしの子供に任せてっ!』 妹の言葉を頭から追い払う。 今までの苦しみと努力によって作り上げたと思っていた公爵家の跡継ぎというアラルの肩書きが妹の言葉によって打ち砕かれた。 アラルは公爵家の長男であり、正式に跡継ぎだと父から告げられていない。 それは「現時点では」と但し書きがつくだけで、近い将来にただの事実になるはずだった。 相応の功績や父が隠居を考える時期に、アラルは跡継ぎとして任命される。 そして公爵として必要な仕事を任されていくことになる。 今はまだ第二王子の隣で人脈作りの最中だ。 よくある貴族の世代交代の流れで何もおかしなところはない。 周囲もアラルを公爵家の跡継ぎだと思って接している。 つらいことがあってもそれは未来のためになると思っていた。 思い込まなければやっていけなかったのかもしれない。 息苦しさを自覚していると肩をゆさぶられた。 見ると第二王子の補佐をしているジェディーがいた。 扉のほうにはジュディーもいる。 王子殿下が将来有望な人間だとして孤児院から連れてきた双子の姉弟。 アラルが平民の雇用に良い顔をしなかったことで、子爵の養子になった二人だ。 アラルは王族と平民の境目を薄くしたいと考えた王子殿下とは真逆の発想をした。双子と仲は良くない。 ジェディーが真っ青な顔でアラルの頬を叩いた。 そうしてようやく、自分の手で自分の首を絞めていることに気づく。こんなことで窒息死することはないが、首を撫でると痛みがあった。 跡が残っていることを悟ったアラルは、第二王子に頭を下げて引き出しから取り出したスカーフを首元に巻く。 急なことだったので、選択肢がなかったとはいえスカーフは母が死ぬのに使った物だと思い出す。 同時に自分の行動も母の死の本当の動機も理解した。 分かったからといってアラルに出来ることなど何もない。 感情のすべてを脇に置いて、いつも以上に自分を殺すことにする。 第二王子の前で無様にうろたえているわけにはいかない。 「……その自傷癖、いつからのものだ」 第二王子ルチルスは青い印象がある。 白銀に近い水色の髪と常に身にまとう蒼き獅子が描かれたマントのせいだろう。 ジェディーとジュディーの双子は蒼き獅子があしらわれたブローチを胸元につけている。 蒼き獅子は自身の徽章と騎士団の紋章をあわせて作られた第二王子のためだけの意匠。独特な模様は再現性が難しいのか、王室御用達の刺繍屋の中でも作れるのは熟練者だけだという。 そんな全体的に青い印象がある第二王子ルチルスだが、不思議なことに右目だけが赤かった。左目は透明感のある青で、白銀に近い水色の髪と調和がとれている。 横顔は右と左で瞳の色のせいで印象が違っている。 どちらから見ても間違いなく美しいと表現できる第二王子だが、正面から見ると不自然さを感じる。 髪型のせいで赤い目が隠れることが多い。そう考えてから否定する。何もかもが違う。第二王子であるルチルスに今の髪形を提案したのはアラルだった。 いまさら、アラルは蓋をしたつもりになった自我に気づく。 第二王子を真っ直ぐに見れない。 「自傷癖はありません。」 殺した心が漏れ出さないように努めて淡々とした声を出す。 第二王子の訪問への礼を欠いた状態だったことを詫びるとジュディーが食って掛かってきた。 双子の片割れが衝撃を受けていることへの批判だ。 ジェディーにもジュディーにも情けない姿を見せてしまったが、今は第二王子との話の途中だ。 割り込むような無礼を許した覚えはない。頭が働かないなら外にいろと双子を部屋から追い出した。 アラルとしては自分が第二王子に報告すれば彼らも同じ内容を知ることになるので、一緒に聞くならそれで良かったが心構えが出来ていないなら邪魔なだけだ。アラルには他人を気遣う余裕などない。 話は国内の最重要機密と言っていい。 勇者が遺したアーティファクトの無差別な使用という大事件。 本来、許された者たちが許された空間だけで使用できるアーティファクトが、無差別に使用されている。 誰かが何かを意図したわけではなく、偶発的な事故であるとされている現象。 勇者のアーティファクトが使われた痕跡を探すのは難しいが、誰が事故に巻き込まれたのかはすぐに分かる。本人が隠そうとしてもボロは出るし、この世界ではない勇者の文化を当たり前に感じた上での言動は想像以上に目立つ。 普通は『勇者語録』に書かれている内容を当然の事として活用したり、この世界が創作物の中の出来事だと言い出したりしない。 貴族たちは自分の子供が訳の分からないことを言い出したら王家に報告する義務が課せられている。 この理由を王家は神の啓示を受けた聖女として国が保護するためだとしているが、国内を混乱させないための詭弁だ。 勇者のアーティファクトの力は、使用者を完全に第三者の視点に立たせて自分を見つめ直させるものだという。 自分を客観的に見るのは難しいことだ。 そのため妹は自分が勇者の世界で生まれ育った人間だと思い込んでいる。読書が苦手な妹は『勇者語録』に触れてこなかった。読んでいなくとも『勇者語録』を使いこなせるのが勇者のアーティファクトが関与した証拠だ。 以前のわがままな振る舞いがなくなった代わりに公爵令嬢とは思えない立ち振る舞いをしている妹。 それだけで勇者のアーティファクトの影響を受けたことをアラルは察していた。 実際に同じ症状の人間を見ていなくとも異様なので分かる。 妹は観劇を通して見れたことがない。途中で寝てしまうし、いくら説明しても内容は頭からこぼれてしまうらしい。 他人のふり見て我が振りを治すためにわがまま令嬢が処刑される物語を見せたところで妹の心には全然響いていなかった。 それが泣きながら良い子になると言い出した。 どう考えてもおかしい。 妹は「乙女ゲームの悪役令嬢」だと自分のことを思っている。 これは勇者のアーティファクトにより自分が客観的に見て褒められた人間ではないことを理解していることになる。 自分が主役で好き勝手生きていいと妹は思っていない。 元々の妹の立ち振る舞いを批判的な目で見ている。 勇者のアーティファクトは正常に働いたのだ。 妹の人格が人知を超えた奇跡の産物により強制的に去勢された。 わがままで非常識な妹は消え去った。 いいや、心のどこかにまだ残っているのかもしれない。 ただし、以前はなかった羞恥心は植え付けられただろう。 自分の言動をきちんと見つめ直して、考えて行動できるようになったはずだ。 この世界は乙女ゲームの世界ではない。 妹が自分の立場を分かりやすく理解するために乙女ゲームのプレイヤーになっていたのだ。 つまり中の人などいない。 妹が自分自身のことを忘れて、妹の体を乗っ取ったと勘違いしているだけだ。 勇者の世界にある娯楽は刺激が強すぎて、少年少女の幼い自我など吹き飛ばしてしまう。 そして、こちらがより重要なことになるが勇者のアーティファクトにより本来なら妹が知るはずのない情報を今の妹は持ち合わせている。 本人はこれを乙女ゲームをプレイしたからだと思い込んでいるようだったが、勇者のアーティファクトの機能だ。 妹自身の情報だけではなく、王宮に訪れた人々の情報を無断で蓄えたアーティファクトは未来予知を可能としている。 妹が世界を乙女ゲームという分岐のある選択制の娯楽だと考えたことからも分かるように世界は何も決定していない。 「なるほど。勇者語録にあるテンプレと呼ばれる乙女ゲームにひとひねり入れている形だな。幼少期に自分がどんな言動をしたのかが、世界に大きく影響を与えると無意識に思っているとは――」 第二王子の冷笑はいつだって怖い。 いつもなら不気味な笑みへの注意をするが、アラルは説明を続けることにした。 「妹は現状、公爵令嬢という自覚がありません。アーティファクトにより見聞きしたものが強烈だったと思われるので、人格も元に戻るかは分かりません」 「そういった事例は今までもあった」 自分はこの世界の住人じゃないと主張する令嬢や令息。『勇者語録』を参照するなら、中二病と呼ばれる症状でもある。 自分が特別な人間だと思い込むことで発症するが、見識を広めていくことで自己解決したり、あるいは一生治らないという。 「それで?」 第二王子が首に手をやる。その話題は避けて通れない。 アラルは分かっていたが、正直に告げなければいけないわけでもない。きわめて個人的な話だ。 「気づいたら手が動いていました」 これは事実だが、理由まで語る必要はない。 第二王子とは友人と言って差し支えない存在かもしれない。 今までずいぶんと親しくさせてもらっていた。 「自傷癖もないのに?」 「考えがまとまらないときに目を閉じると気持ちが休まったりするでしょう」 「そうか?」 知らないと言ってくる第二王子に「私はそうです」と言い切る。 いつも目を閉じているわけではないが、暗闇は好きだ。 「手で目を隠していたのですが、あまりにも考えに熱中しすぎて手の位置がおかしくなったのでしょうね」 嘘にしか聞こえない言い逃れだが、アラルにとっては事実だった。 事実のすべてを口にしているわけではなかったが、本当に自分で自分の首を絞めようと思ってなどいない。 「今日のところは、これ以上の追求はよそう」 これ以上のことなど話すことは誰にもできない。 第二王子ルチルスの視線から逃げることはないアラルだったが、心の中は冷静とは言い難かった。 妹の身に起きたこと、自分の醜い劣等感。 忠誠心など、どこにもない。 ただ、保身と罪悪感のために吐き出された言葉。 言うべき機会は今ではないと落ち着いていたのならアラルは判断できたはずだ。 失敗していた。間違っていた。 絶対に発言するのは今ではない。 「――ルチルスさまの補佐役を辞退したいと存じます」 頭を下げたアラルは、ルチルスの表情を見逃した。 見たとしても理解できなかったかもしれない。 アラルの頭の中にあるのはルチルスではなかったからだ。 妹のことを第二王子へ報告したことで気持ちが緩んだ。 アラルの頭の中にこびりついた妹の言葉。 妹に「公爵家の跡継ぎはわたしの子供に任せてっ!」と言われたことで気づいた。 自分は居ても居なくてもどうでもいい存在なのだ――と。 跡継ぎになるために頑張っていた今までの努力は無駄だった。 妹の言い分がこの家では、正しいものだとさている。ほぼ通る。 とくにわがままさが消えて年相応の合理性を発揮し始めた今の妹なら父を口説き落とすことなどたやすいとアラルは思った。 父には説得の必要すらないのかもしれない。 『次期当主として相応しいって一目見て分かる容姿の子をね!』 他の誰でもないアラル自身が自分は公爵家の当主に相応しくない容姿だと無意識に思っていた。 そのことを妹の言葉によって突きつけられた。 勇者のアーティファクトは人々の思いを収集するという。 妹がアラルの知らないアラルの気持ちを語ったとしても不思議なことではない。 他人に心を盗み見られた不快感よりも先に恥ずかしさと絶望があった。誰かを責めるというなら、自分を責めたい気持ちだ。 どれだけ努力したところで報われないことを教えられてしまった。 脇役でしかない見た目の自分が公爵を名乗ることになったら、不安感から人々に攻撃的になったことだろう。 第二王子に仕えている平民だった双子への難色は彼らの見た目がそばかすだったからだ。今では消えてしまったが、幼いころはアラルよりもそばかすが目立っていた。 子爵の養子になったからというよりも食事や生活の変化によって双子はイモムシが蝶に変わるように美しく育った。 自分とは違って悪くない見た目だとアラルは無意識に彼らを判断していた。 容姿への陰口は煌びやかな王太子周辺の人間から日常的にあったが、無視していた。無視できていると思い込んでいた。 アラルは妹から指摘されるまで外見への劣等感に自覚がなかった。 無意識に人を見下していた。仕えている主である第二王子さえ対象にするほどの醜さを持っていた。 第二王子に仕えているのは、瞳の色の違いを不気味だとか気持ち悪いと言われていたからだ。そのことにアラルは気づいてしまった。 完璧で完全な王太子に感じる気分の悪さを第二王子は消してくれる。そんなことを思っていた。 妹が毒舌従者とアラルを表現したように砕けた言い回しを多用して第二王子と親しくしていたのは、公爵家の跡継ぎとして箔をつけるためだった。 体を大きく見せるために羽を広げたり小細工をする動物と同じだ。 自分が上に立った時に舐められないよう第二王子を日常的に利用していた。自分を偉く見せるために失礼な態度をとり続けた。 第二王子のことを思うならアラルは出来ることがいくらでもあったが、しなかった。 自分以外に親しい従者が居たら自分の価値が下がると思って、複数人の補佐役をつけるという案を第二王子の居ないところで握りつぶした。 自分だけで十分だと証明するために仕事量は増えたが充実していた。自分の立場が脅かされないことに安心していた。 家の中では何をしても誰も評価してくれないので、第二王子のとなりに居ることはアラルにとって誇らしく、有意義だった。 家の中心が妹であることはアラルにとって仕方がないことだったが、妹の問題行動に頭を下げ続けても誰にも感謝されないのは苦しかった。 家門に泥を塗らないよう考えることは当主となる人間として当たり前で、妹を見捨てないのもまた当主になるからこそだった。 第二王子への忠誠心のない振る舞いは許されるべきものじゃない。 妹の人格を更生するために起動したと思われる勇者のアーティファクトだが、アラルにとって自分を構成するものをぶち壊していった。アラルの指先に母が残したスカーフが触れる。 母はこのスカーフで自害した。 理由は平民から受けた侮辱に耐えかねたからでも、これ以上の侮辱を受けることで家名に傷をつけないためでもない。 父は邸宅が襲撃されることを知っていた。 知っていて身重の母と幼いアラルを邸宅に残した。 餌にされたのだ。 その事実は、母の死に打ちのめされた父が漏らしていた。 深酒をした父が母の肖像画を見ながら懺悔していた。 そのときは、事態を早く確実に収束させるのに必要だったという父の言葉を信じた。早産になったのも、母の死も事故だ。 父が画策したことではない。 おさないアラルはそうやって、父を無意識に擁護した。 だが、今は母の気持ちが分かってしまう。 自分が辱めを受ける可能性を考えず、侮辱され続ける自分を庇うこともない父の姿に母は絶望したのだ。 自分の名誉を守らない夫の姿に自分の命が軽視されたと感じたはずだ。生粋の貴婦人であった母が「獣のような声を上げて、地べたで産んだ」とか「公爵夫人の出産が見たい? 産気づいた牛を見るといい」そんな言葉を聞いて冷静でいられるわけがない。 下卑た男たちが公爵家の紋章を見て母が乗る馬車に下品な言葉を投げかけたことをアラルは決して忘れられない。 同じような発想が自分の中にあったことを妹との会話でアラルは自覚してしまった。 地位のある人間を貶めることで得られる愉悦。 許されていたとしても第二王子であるルチルスに憎まれ口や度が過ぎた小言など口にするべきではない。 毒舌従者である自覚などアラルにはなかった。 自分は公爵家の人間として常識的な人間だと思い込んでいた。『勇者語録』にある自己プロデュースの一環として許される立ち振る舞いだと信じていた。 いつだって人は自分の都合のいいようにしか物事を判断できない。 そのため、この後に起こったのはアラルの中で史上最大の奇跡だ。 妹に起きた神秘よりも理解不能な数奇な事件に巻き込まれた。 アラルはルチルスがどういう人間であるのか忘れていた。 自分に生意気な口を叩く奴が気に入らないのなら武力を行使してでも即座に黙らせるし、従者の数を増やしたいのなら誰に何を言われたところで増やす。そういう自我の強さを持っていた。 公爵家に私兵を複数配置させていたからこそアラルの妹の異変を察知していち早くやってきたことも理解していない。 自分は居なくても公爵家は問題がないのだと気づいてしまったことに心がついていけず、アラルは判断力を失っていた。 物事には段取りがある。 アラルはそれをよく理解していた。 ルチルスへの振る舞いも決して自分勝手なものではなく、事実に裏打ちされた内容だった。 嘘を吐いて不当な利益を得ていたわけではない。 ルチルスが神経質な気分屋であることは、アラル以上に長年王宮に勤めている周囲は理解していた。 従者を増やすことは被害者を増やすことだとも思われていた。 アラルが公爵令息という立場だからこそ、負担を減らすべきだと気を利かせた人間がいたことは事実だが、アラル自身に断らせることを前提とした提案だ。 大人はアラルが思っている以上に汚いし、形式を大切にする。 冷静でさえあれば、気に病む必要はない理由がいくつでもアラルは思い浮かんだだろう。そのぐらい幼いころから上手く世渡りをしていた。 今までの自分が全て覆ったなんていうのは、妹が受けた衝撃に共鳴しすぎている。大袈裟だ。勘違いだ。そうやって割り切らないといけなかった。引きずり込まれてはいけない。 母と違ってアラルにとって幸いだったのは、妹がアラルのことを「推し」と表現したことだ。 自分がしてきたことが本当に何にもなっていなかったわけではない、そういう慰めになる。少なくとも無意識に妹がアラルに好意的だったという証明がされた。 それだけを心の支えにするにはつらすぎたとしても、母の感じた苦しみよりもいくらかはマシだ。そう思えた。 自分の考えに囚われたアラルはルチルスが見えていなかった。 第二王子という身分の事ばかり気にしていた。 だから、首を絞められることになる。二重の意味で。

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