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第91話 庵の花畑

 真に跨って空に浮く紅優は、蒼愛が消えた空を見詰めていた。  考えなければいけないのに、動かなければいけないのに、頭が働かない。 『紅蓮……』  消え入りそうに儚い笑顔で振り返る佐久夜が、脳裏をよぎった。  ぞわりと全身が粟立って、身震いした。 (蒼愛を、奪い返さなければ。俺が助けなければ、幽世が蒼愛を喰らう。あの時みたいに、突然、消えてしまう。俺の意志とは関係なく、居なくなってしまう)  紅優は、拳を強く握った。 「真、風ノ宮に行こう。時の回廊に入って、蒼愛を連れ戻す。総て叩き壊してでも、蒼愛を見つけ出す」  静かな決意が紅優の心に冷たく降りる。  自分から蒼愛を奪う幽世に、沸々と憎悪が湧き上がった。 「蒼愛がいないなら、神でいる必要なんかないんだ。俺から蒼愛を奪う幽世を守る意味なんかない。こんな世界、俺が全部、壊してやる」  どうしようもない怒りが、殺気になって迸る。  全身の毛穴から、神力が吹き出しているかのようだった。 「俺は何があっても紅優様の味方だけどな。今の紅優様を時の回廊には連れていけないぜ」  そういって動かない真を紅優は見下ろした。 「だったら一人で行く。神でなければ側仕も必要ない。一人で充分だよ」  下りようとする紅優を、真は空を旋回して止めた。 「そうじゃねぇよ、紅優様。今の紅優様は、本来の紅優様じゃない。そんな紅優様を蒼愛様の所へは連れていけない」  カッとなって、真を見下ろした。 「お前に何がわかるんだ! 一度しか会っていない、お前に、俺の何が……」 「わかるぜ。蒼愛様がたくさん、教えてくれた。俺は幽世が選んだ二人の側仕だ。知らなくても、わかるよ」  幽世という単語に、うんざりした。 「幽世は、この世界は、俺に何を求めるんだ。奪うばかりで何も与えないこの国を、なりたくもない神になって、大切な蒼愛を失ってまで守れっていうのか? 何も要らない、蒼愛だけいればいいって、何度も願っているのに」  神じゃなくていい、宝石じゃなくていいと泣いた蒼愛を思い出す。  あの言葉は、まるで自分の気持ちの代弁だ。  蒼愛も同じ気持ちでいるはずだ。 「試練を受けて、紅優様の気持ちを幽世に伝えれば、蒼愛様は戻ってくる」 「そんなの、わからないだろ! 蒼愛の記憶を奪って、体を奪って、俺から引き離した幽世が、蒼愛を国に溶かすと言ったんだ。返す気なんか、初めからないんだ。色彩の宝石として育った蒼愛を取り込むのが目的だったんだろ。許せない……」  恐ろしくて、手と声が震えた。  蒼愛を失う恐怖が、考える頭や感じる心を紅優から奪う。  突然、襟首を引っ張られた。  振り返ると、井光が紅優の首を咥えていた。 「困った主様ですね。千年前から、全く成長されていないようだ。真が言う通り、今のお前を時の回廊に連れてはいけません。今のお前は、まるで駄々をこねる子供だ」  カッと、頭に血が上る。 「離してください。井光さんには関係ない。これは俺と蒼愛と幽世の問題だ。貴方には何もわからないでしょう」 「私は紅優様の側仕です。主が迷い間違う時は、叱り正しく導く。それも側仕の仕事です。今のお前が蒼愛様を迎えに行っても、蒼愛様は喜ばれないでしょう」  言い切った井光に、紅優の怒りが頂点に達した。 「アンタに、何がわかる! 蒼愛の何がわかるんだ! 一番近くで、隣で、蒼愛の成長を見守ってきたのは、俺なんだ。俺を求めてくれる、俺が求める蒼愛を、知っているのは俺なんだ……」  笑う蒼愛が浮かんで、視界が潤んだ。  井光が大きく息を吐いた。 「私は蒼愛様を知りません。しかし、お前を良く知っている。だからこそ、蒼愛様が愛した紅優が、どういう妖狐か、よくわかる。千年前と変わらないクソガキのお前の根性を入れ直す必要がありそうですね。私と来なさい、紅優」  井光が紅優の首根っこに噛み付いたまま、天上に飛び上がった。 「離して、くれ! 俺は、時の回廊に行かないと」 「今のお前が時の回廊に入っても、蒼愛様を失うだけです。大人しく私と来なさい」  有無を言わさぬ勢いで井光が雲を突き破る。   井光が紅優を連れてきたのは、火ノ宮だった。  宮の奥にひっそりと残る小さな庵と、こじんまりとした庭。  その景色を眺めて、紅優は顔を歪めた。 「今更どうして、こんな場所に連れてくるんです。今の俺にはもう、関係がない場所だ」  直視できなくて、目を覆い隠した。 「今だからですよ。佐久夜様を喰ってから千年、お前は一度もこの場所に入らなかった。そうでしょう、火産霊様」  後ろに立つ火産霊を井光が振り返った。 「紅優は忘れたがっているんだと思っていた。俺もそれでいいと思った。だがお前は、蒼愛に佐久夜の話をした。本当は向き合って、あの時の自分を許してやりてぇんだと、思ったよ」  火産霊が悲しい顔で俯いた。 「申し訳なかったと思ってる。お前にも、佐久夜にも。あの時、俺が最初からこの国に来ていりゃ、紅優……、いや。紅蓮と佐久夜を苦しめたり、しねぇで済んだんだ」  紅蓮、という名前に、肩が震えた。   「病弱だった佐久夜が、紅蓮と番になっても体質が変わらずに、神の務めもこなせねぇで、こんな小せぇ庵に引きこもって、お前にばっかり仕事させていたのも、現世にいた俺は何もしらねぇで……」 「違う、違うんだよ、火産霊。そうじゃないんだ」  紅優は膝を付いて、その場に蹲った。 「俺と番になったから、佐久夜は死んだ。俺に神力を吸われていたから、病弱な体質も戻らなかった。佐久夜を守るために番になったのに、俺は……。俺が佐久夜を殺す原因になって、結局俺が、喰ったんだよ」  力を分け与えるために番になったのに、奪ってしまった。  紅優が送り込む妖力以上の神力が佐久夜から流れ込んでくる毎日が、怖くて辛かった。 「仕方がねぇさ。紅優の妖力の方が遥かに強かった。あの頃から紅優は現世でも瑞穂国でも比肩する者がないほど強く美しい妖狐だったんだ。まさか、力が不均衡だと相手を喰っちまうなんて、あの頃はまだわかってもいなかった」  この幽世が生まれたばかりの頃、番という仕組みも出来上がったばかりだった。  まだわからないことだらけで、神ですら手探りで国を作っていた時代だ。 「それだけじゃ、ない。番のバランスは、気持ちのバランスでもあるんだよ。今なら火産霊にも、わかるだろ。俺の気持ちより、佐久夜の気持ちの方が遥かに大きかった。俺を愛してくれていた。俺は、同じだけの気持ちを、返せなかったんだ」  蒼愛に出会った今だから、余計に理解できてしまう。  自分は、蒼愛を愛するように佐久夜を愛していなかった。 「愛してた、だから番になった。けど、全然、足りていなかったんだ」 「本当に、そうですか?」  膝を抱えて俯く紅優を、井光が見下ろした。 「お前は本当に、佐久夜様を愛していましたか」  紅優は、小さく顔を上げた。 「……強くて美しい、完璧な妖狐を求める佐久夜の期待は、重かった。けど、ちゃんと愛して……」 「ちゃんと?」  紅優は、目だけで井光を見上げた。  鋭い眼光が、紅優を貫いた。 「佐久夜様が愛していたのは、本当に強くて完璧な妖狐でしたか? お前は、自分の気持ちを誤魔化すために、佐久夜様の気持ちまで捻じ曲げるのですか?」  紅優の視界の端に、綺麗な花が見えた。  土ばかりで寂しかった庭に突然、色とりどりの花が咲き乱れた。 「この、花……。あの頃、みたいな」 「佐久夜様は花を好まれる神様でした。庵で静かに暮らしながら、自分で育てた花を愛で、土ノ神の大気津様にアドバイスをいただきながら、これだけ大きな花の庭を造られた」  井光が指を鳴らす。  小さな庭を埋め尽くす花々で溢れかえった。 「普段は可憐で物静かながら、内に秘めた強い心の持ち主。それが火ノ神佐久夜様です。一ノ側仕であった私も、時に一緒になって土と戯れたものです」  紅蓮が佐久夜の番になり一ノ側仕を降りた後、その任についたのは、井光だ。  佐久夜が死んで、火産霊が火ノ神になってからも、側仕の任を継続した。   「公務に忙しかったお前は、知りませんでしたか?」  佐久夜の番になってから、体が弱い佐久夜の代わりに火ノ神の任をこなす日々が続いた。  その時に支えてくれたのも、井光だ。  紅優は、首を横に振った。 「知っていました。佐久夜が花を好いたのも、大人しく控えめな青年だったのも、本当は強く大きな力を、持っていたことも」 「その力は、命を燃やさねば使えない力です。佐久夜様自身が使ってはいけない力だと理解されていました」  井光の話が、紅優にあの頃の佐久夜を思い出させた。 『私は花が好きだよ。どんなに小さく名のない花でも、心を癒してくれる。私もそういう優しい力が欲しいと願うよ』  紅蓮に笑いかけた佐久夜の笑顔は、優しかった。 『強くて美しい紅蓮が好きだ。私が頼っても折れずに支えてくれる紅蓮が好きだよ。同じくらい、心優しい紅蓮が、好きだ。強く優しい紅蓮が、好きだよ』  強くて優しい紅蓮を望んだ佐久夜だから、そうあろうと努力した。  佐久夜がどんなに寄りかかっても折れない壊れない。悲しみも怯えも見せない、完璧な番であろうと努力した。 (佐久夜は、心優しい俺も好きだと、言ってくれた。いつのまに、忘れていたんだろう)  紅優は目の前に広がる花畑を眺めた。  井光の幻術で再現された佐久夜の花畑が、あの頃の紅蓮を紅優に思い出させていた。 「お前が本当は臆病で落ち込みやすい、悲しみを一人で抱え込む妖狐であると、佐久夜様は知っていました。だから、この場所に花を植えたのです」  紅優は井光をゆっくり見上げた。 「自分の代わりに神の御役目を果たしてくれるお前に、何かしたかった。お前の心を癒したかった。自分にできることをしたかった。頼りにならない自分でも、紅蓮の支えになりたかったのだそうです」  井光が紅優を見詰めた。 「お前は、どうでしたか? 紅蓮は佐久夜様を、愛せていましたか?」  胸に痛みが走った。 「俺は……。あの頃の、俺は。忙しくて、できないことばかりで、佐久夜に会うのも疲れて、嫌になりかけていたのかも、しれません」  佐久夜の代わりに役目についても、自分は神じゃない。  もっと強い神力があれば、神のような力があれば、佐久夜の手を煩わせはしないのに。  そう、考えていた。 (本当に、そうか? 俺はあの時、いっそ自分が神になりたいと、考えたんじゃなかったか)  何もできない佐久夜を不憫に思いながら、疎んじて面倒に感じていなかっただろうか。  そんな自分が嫌になって、佐久夜から距離をとった。  愛しているから番になったのに、佐久夜を支えたかったのに。 「あの頃の瑞穂国は、創世直後で不安定でした。そんな時分の火ノ神代行の多忙さは、私もよく覚えています。お前を責めるつもりもありません。佐久夜様も、同じ気持であったでしょう。問題はそれではない。憐れみを愛と勘違いしたお前の愚かさです」  息が止まるような苦しさが、胸を締めた。  井光の言葉に怒りが湧く。  その怒りは井光に対してではない、自分に対してだ。 「きっと初めは、愛し合って番になったのでしょう。私の目にも、そう映った。けれどその愛は、本当に愛でしたか? 初めは愛だと思っていたお前でも、気が付いたのではないですか。自分が佐久夜様に向ける感情は愛ではなく憐みや同情であったと」    言葉の響きがあまりに強くて、気後れした。 「違う、俺は、佐久夜をちゃんと愛して……」  愛していたと、思っていた。蒼愛に出会うまでは。  出会ってからも、すぐには気が付かなかった。  蒼愛が紅優を愛してくれる度に、自分が蒼愛に深く心酔するたびに、愛するとはこういう気持ちなのだと知った。 「愛していた、つもりでした。佐久夜に出会って、喰ってしまってからも、ずっと。俺は佐久夜を愛していたんだと、疑わなかった」  紅優は自分の膝に顔を埋めた。 「蒼愛は、最初から弱い俺を愛してくれた。悲しい時に隣りで手を繋いでいるために番になりたいと、そう言ってくれた。俺が求めていた愛はこれだったんだと、初めて、気が付いた」  涙が溢れて、止まらない。  佐久夜への申し訳ない気持ちも、蒼愛への愛も増すばかりで、気持ちが涙になって溢れ出る。  井光が紅優に手を伸ばした。  涙でぐちゃぐちゃの顔に手を添えた。 「井光さん、俺は、どうしたら、良いんですか。佐久夜に何て謝ったら。俺のような弱い妖狐が、神様になんか」  しゃくりあげて言葉が続かない紅優を、井光が胸に抱いた。 「時の回廊で、佐久夜様に会ってきなさい。顔を見たら、きっと言葉が浮かぶでしょう。弱い心を知る者だからこそ、神になれるのですよ。弱さを受け入れ受け止めるのは、強さです。弱さを知るのも、強さなのだから。紅優、お前は千年前より、強くなりました。お前が今、強くあれるのは、誰のお陰ですか?」  井光の声がさっきより優しく響く。 「蒼愛です。蒼愛が俺を愛してくれたから、この国が美しく見えた。蒼愛と生きたいから、この場所を守りたいと思ったんです」  総ては、蒼愛と生きるために。  何て身勝手な願いだろうと思う。 「それでいいのですよ。残念ながら神は万能でも全能でもない。お前もよく知っているでしょう。けれど、持っていなければいけない最低限の条件はあります」 「何、ですか……」  涙が止まらない紅優の顔を見詰めて、井光が笑った。 「命を慈しみ、尊ぶ心です。その心が愛を理解し国を守る気持ちに繋がる。お前が蒼愛様を愛するとは、そういう事なのですよ」  いつか蒼愛が紅優にくれた言葉を思い出した。  命を慈しんで大事にしてくれる紅優は優しい。紅優の食事が弔いに見えた、と。 (だから蒼愛は、俺を選んでくれたのか。だから色彩の宝石は、紅優を瑞穂ノ神に選んでくれたのか)  ガラクタと呼ばれた美しい魂を持った少年は、臆病な妖狐を神に変えた。 (蒼愛の方が、ずっとずっと神様だ。俺は、蒼愛がいないと、生きることも満足にできない)  紅優は視線を上げて、井光に向き合った。 「時の回廊に行って、佐久夜に会ってきます。幽世に俺の答えを聞いてもらって、蒼愛を取り戻してきます。蒼愛は俺に必要な番です。俺だけじゃない、この国に必要な、宝です」  紅優と同じような愛情を持って、皆が蒼愛を愛する。  そんな状況に嫉妬したり喜んだりしながら、蒼愛と共に過ごしたい。  井光が安堵の息を漏らした。 「手のかかる主様です。どうやら私のこの先に、暇という時間はなさそうですね。紅優様のお守りは、骨が折れます」  そういって笑う井光が、嬉しそうに見えた。 「傍に、居てください。俺を、叱ってください。昔みたいに、昔以上に。俺は、本当の神様になったから」  微笑を返した紅優の顔を井光が撫でる。  大きくて温かな指が、涙を拭ってくれた。  やっと、いつものように笑えた気がした。
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