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11 新生活、いきなりシビア

 目が覚めた。朝だ。  見慣れない天井で自分の状況を思い出す。 「……出勤、しなくていいんだ」  顔を洗い、あくびを噛み殺しながら部屋を出る。  ジェードの姿を探した。朝の挨拶をしたくて。  食堂に人の姿はなく、ならばと書斎に向かう。 「ここにいる。来なさい」  書斎の扉は開いていた。俺の気配をとうに察知していたらしく、中から呼ばれる。  そこにはジェードだけではなく、ロコがいた。  ロコは背中から血を流し、人魚の姿で床に這いつくばっている。  涙で濡れた顔を歪め、苦しそうに(うめ)く。 「な……何があったんですか!?」  ジェードは鞭をもっていた。  ロコの生々しい傷の原因は明らかにそれだ。 「あの狼も大概だが……これ(・・)は害意を持っておまえを傷付けた。魔族は怨恨をいつまでも残さないことが暗黙の了解だ。寿命や能力が多様なぶん、不公平な復讐が起きるのでな。──ハヤトキどうだ、この程度では足りないか」 「ケジメってこと!? これが!?」  動物的な"群れのルール"が魔族にはあるようだ。  彼は俺に道理(スジ)を通させてくれようとしているらしいが……だからってこれは、日本育ちには刺激が強すぎる。 「ごめん、なさい……」  ロコの声の弱々しさに息を呑んだ。  駆け寄って抱き上げると、手にぬるりと彼の体温がまとわりつく。  悲惨な状況に言葉が出ない。 「ハヤトキ……こ、こわかったよね、痛かったよね……。あのときのボク、へんだった。だから……じぶんで、来たんだ。またキミと、ごはん、したくて。……ごめんね、ゆるしてね……」  途切れ途切れに紡がれた言葉でさらに面食らう。  ロコが望んでこうなっているなんて。 「許すに決まってる! バウのとき、助けてくれましたもんね。悪気がなかったことくらいわかってます。改めてごはんしましょう。俺はもう大丈夫ですから」  表情を緩めたロコに、こっちが安堵する。  ジェードが手元の鞭を黒い霧に変えて片付けるのが見えた。 「ではこの話は終わりだ。ロコ、おまえは帰りなさい」  黒い霧が次はロコを包んでいく。  腕の中が軽くなり、霧が晴れるとロコの姿は消えていた。湖へ送り届けられたようだ。 「……これって、普通のことなんですか?」 「魔族を法で縛るのには限界がある。裁くにしても守るにしてもな。本能にわからせる(・・・・・)のが一番簡単だ。これからはおまえの血を嗅いでも少しはこらえるだろう。──朝食にしよう」  すたすたとジェードが部屋から出ていく。  食堂で席に着いても、もうロコの話が出ることはなかった。  切り替えの早さについていけない。  俺はいつまでもさっきの光景のことを考えてしまっていた。  本当にあれで良かったのか? 反省があったからこそ、鞭で打たれに来たのだろう。それだけの善性がある人をあえて痛めつける必要なんて……、いや、あれは俺のためでもあり、ロコのためでもあったのだろう。  俺が怒っているかいないか、他人からすれば確かめようもない。反省を証明するのも難しい。だからジェードは、落としどころを作るためにロコの申し出を受け入れ、汚れ役を買って出てくれたのだろう。  ……それが公正な判断だったとして、あんなふうに涼しい顔で鞭を振るったあと、何食わぬ顔で日常に戻れるものなのだろうか。  やっぱり怖い人だな、と思ってしまう。  フォークを動かすと、切っ先が皿に触れて小さな音が鳴った。  正体不明のキューブ型の実を口に運ぶ。一口サイズのそれには細かい小さな種があり、ぷちぷちと口の中で弾けた。飲んで良い種なのかどうかわからないまま飲み込む。  朝食はまた野菜に果物、生魚だった。  さっきの今で食欲が失せ気味だが、食べられるときに食べておかねばならない。何が起きるかわからない場所だから。  ……うーんでも、贅沢を言えるなら、塩が欲しいかも。  彼は何も口にせず、俺をじっと観察するばかりだ。  しゃくしゃくしゃく。  じ────────。  もぐもぐもぐ。  じ─────。  視線、気になるな。 「そう見られているとちょっと……」 「魚は食わないのか」  なんだ。食べるものに偏りがあることを気にしていたのか。 「生でも食えないことはないですけど、できたら焼くか煮るかしたい……ですね」 「そうか……」  あ、ちょっとしょんぼりしてる。  誰にでも知らないことはあるから気にしないでほしいのに。他種族の生態ならなおさら。  ワインの入ったグラスを取り、唇を濡らす。  昨日の酒はキツかったが、これくらいなら大丈夫だ。酒、ほどほどに飲める体質で良かったな。 「そういえば、《水が飲めるか》ってどういう意味だったんですか?」  前にされた質問だ。意図を確かめられていないままだったが、やっと聞けた。 「人間は生水で腹を壊すことがあるのだろう」  それくらいはわかるとばかりの顔で言われた。  よくご存知で。 「確かに……でも煮沸してもらえれば……って、え!?」  "人間は"!?  俺が人間だと見抜いていたのか。 「私が気付いていないと思ったのか? 歴代勇者と戦っているし、人間の国にも行ったことがあるからわかる。──島流しにあった人間が魔の国に流れ着くことがある。おまえはその(たぐい)ではないのか?」 「何度も言いますけど、記憶喪失で……」  出自についてはこっちが知りたいくらいで、あいまいな嘘でごまかすしかなかった。 「構わん。食材の出自にさして興味はない」  あっさりと話がそこで終わって、かえってこっちが戸惑う。  前のネックレスのこともそうだが、ジェードは妙に俺の詳細へ踏み込もうとしない。やけに慎重だ。 「――おまえがどうするつもりなのかは知りたいが」 「俺が……どうしたいか?」  投げかけられた問いに言葉が詰まる。  意識するほど、じわりと嫌な汗がにじんだ。  明日明後日の──これからのことなんて、考えないようにしていた。  だって、森で目覚めてからずっと、向こう側の見えない崖に立たされているのと同じだからだ。ジェードという橋がかけられても、その先にあるものも、俺にできることがあるのかも、なんにもわからない。  あるがままを受け入れ、ここで生きていけばいいのか?  それとも、東京に帰る方法を探す? 「……地図、ありますか?」 「ふむ?」 「このあたりの土地のこと、知りたくて」  できれば世界地図が見たかった。  薄々感じている現実……この世界が地球ではないと、確かめるまでは信じられない。  何かを決めるのは、それからだ。 「ならば飛竜を()ぼう。空から見下ろせば地図を見るより早い」 「り、竜!?」 「それに、おまえの身の回りのものを街へ買いに行かねばならないからな。おまえの服は一着しかないし、私の服を着る姿はまるで子供みたいだ」

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