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序章 シャドウ・ラメント
冬――。
世間はクリスマスムード一色で、心は浮足立ち誰もが足早に家路へ向かう、そんな時期。
普段より禍々しいオレンジ色の西陽が強く差し込むそのアパートの一室、部屋の中央で仰向けに倒れる男の命の灯火は、ロウソクよりも儚く今そのゆらめきを失いつつあった。
どこか建て付けの悪い窓の隙間から吹き込む風は、室内の温度をガラス一枚隔てた外気と同等のものとし、背中に感じる床の感触は氷のように冷たい。
誰よりも大切な存在だった。
共に過ごす日々のなかで、沢山の表情を見ることができて、様々な感情が自身のなかに芽生えるのを感じていた。
そばにいられるだけで、それだけで充分だった。
他になにもいらないほど、あなただけを愛していた。
想いに応えるように、大切に、大切にあなたを愛していた。
すべての思い出が走馬灯のように、目の前で煌めいている。
「……もう誰も、……たく、な……」
今はそれらすべてが間違いだったと否定されたような絶望感だけが残っていた。
頬を伝う涙の感覚だけが唯一温かかった。
一筋の悔し涙を流しせながら、この命がもう間もなく尽きるという事実を感じていた。
冷え切った指先に感覚はもう残ってはいない。左手は自分の意志で動かすこともできない。
浅く酸素を吸い込むと、腹の辺りがずきりと痛んだ。確認できるのは、視界の隅にわずか見える突き立てられた包丁の柄。
拡がる血の海が容赦なく体温と魂を削り取っていく。
おもむろに息を吐けば、湯気のように白いもやが目の前に広がった。
一度カチリと奥歯が噛み合うと、意志とは無関係にカチカチと痙攣の音を鳴らし始める。
右腕を、今はもう届かぬあなたへと伸ばす。
こんなに汚れて。もうあなたに触れられない。
あなたの笑顔が好きだった。あなたが喜ぶためなら何でもできた。
再びこの手を重ねて、指を絡めて、愛していると告げられることを夢みてしまう。
今はただ、ひどく眠い。
このまま堕ちれば、きっと心地よい眠りにつけるのだろう。
願わくば目を覚ましたとき、すべてが夢であると良い。
あなたを失った現実が、ただの悪夢であって欲しい。
右腕が重い音をたてて床に落ち、跳ねる微かな水音が耳に響く。
ただ眠くて、このまま少しだけ休もうと、ゆっくりと目蓋を落とす。
――本当に、大好きだったんだ。
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