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第七章 ストップ・ザ・デンジャー①

 膜のように何重にも覆い被さってくる眠気は真生から正常な判断を奪い、肌に纏わりつく不快な熱気も、周囲の雑踏の音も現実のものではないかのように思えた。  大人込みで五千円という金額は考えられないほどの低額で、いくら金銭が目的ではないとしてもここまでに掛けた時間や往復の交通費のことを考えると割りに合わなかった。  重苦しい水の中を歩いているような感覚があって、なんとか振り切らなければいけないと分かっていながらも、それを行動に移す意識が上手く働かない。  確かに立って歩かされているのに、夢と現実の境界が曖昧である感覚があった。 「真生っ!」  真生は半分夢の中で、誰かに名前を呼ばれたような気がした。しかしそれが夢の中の出来事であるのか、現実でのことなのかは区別が付かなかった。  青木に支えられて足を進めているだけの真生だったが、青木が歩みを止めると真生は前方へ倒れそうになり、両腕を掴んだ青木によって支えられる。  何が起こったのかと真生が理解するより早く、真生はその声を発した主を青木と共に振り返っていた。  視線の先にいたのは上下グレーのスウェット姿でぼさぼさ頭の男性で、両肩を大きく震わせながら息を切らせていた。繁華街は一瞬にして静寂に包まれ、すぐにその光景に対してざわめきが浮かび始める。  周囲のどよめきを歯牙にもかけず、二人に向かって駆け寄ってきたその男性は、ぼんやりと見上げる真生の目の前に立つと青木の腕から真生を奪い取る。 「うちの子に、何かご用ですか!?」  まだ夢を見ているのではないかと真生は思った。  斜め上を虚ろに見上げれば良く見た横顔、セットもされていないぼさぼさの髪型ではすぐに思い浮かばなかったが、青木の魔の手から真生を奪い返した人物それは紛れもなく佳嘉で、左手首に巻き付けられているリフレクターバンドが何よりの証拠だった。  人に見せられるような私服を持っていないと言って一度もプライベートの姿を見せてくれなかった佳嘉。デートのときはいつでもスーツ姿でしっかりとヘアセットをしていた佳嘉の姿しか見たことが無かった真生は、間近で声を聞くまでそれが佳嘉であると気付くことができなかった。  青木の手が自分の腕から離れた瞬間、冷たい汗が一気に噴き出した。けれど代わりに自分を包む佳嘉の腕の力強さに、涙が込み上げてきた。 「よ、パパ……」  何故ここに佳嘉がいるのか、真生には理解できなかった。この一週間一度も連絡をくれなかったのに、やはりこれは夢なのではないかと真生は混乱し始める。  余程焦って走ってきたのか、佳嘉は未だに整えるように呼吸を浅く繰り返しており、その視線の先は青木へと向けられていた。  抱き寄せられた肩には痛いほど佳嘉の爪が食い込み、その熱さから真生はこれが夢ではなく現実に起こっていることであると理解し始める。きっと佳嘉は自分を助けに現れてくれたのだ。  真生を抱き寄せる佳嘉の手は、あの日カラオケ店の一室で真生が他のパパと会っていると疑われた時の動揺と同じで、指先から佳嘉の焦りと動揺が伝わってくるようだった。  そして同時に、月五十万円で他のパパとは会わないと契約をしたのにそれを破ってしまった事実を真生は思い出す。  青木と対峙する佳嘉の姿が、いつかどこかで見た光景であるような気がした。真生を守るように自分のほうへ引き寄せつつ、明らかに危害を加えようとしている青木に対して緊張を張り巡らせる佳嘉は、まるで子を守ろうとする草食動物のようだった。  鬼気迫る様子は上手く頭が働かない真生にもビシビシと伝わるが、線が細くどこか頼りなさそうな部分は拭えず、真生は寸前まで身に迫っていた危機から縋るように佳嘉のスウェットを掴む。  これまで一人でなんとかしてきた。しかし一人ではどうにもならない事態があることも知った。真生の内を占領していたのは圧倒的な恐怖と、佳嘉が現れたことに対する安堵感だった。  佳嘉の大きな手が真生の頭をぽんと叩き、優しく撫でる。それはまるで大丈夫だと真生に伝えているようだった。 「今日塾の日だろ、来てないって先生から連絡貰って探してたんだぞ」  視界の隅が暗く滲んで、佳嘉の声だけが遥か遠くから響いてくるようだった。それでも、その声が命綱のように真生を現実へ引き戻していた。  佳嘉はあくまで青木の前では父子という体を貫くつもりで、その意図を理解した真生は佳嘉に縋り付いたままこくこくと頷く。  子持ちとするには佳嘉はあまりにも若すぎる。しかしこの場を切り抜けられるのならば関係性なんてなんでも良かった。  人々の視線が二人に集中する中、佳嘉は微動だにしなかった。その静けさが、逆に青木を追い詰めていった。  大衆から好奇の目に晒され、口々に放たれる邪推の言葉は真生の耳にも届いていた。しかしそれを受けて一番分が悪いのは他でもない青木で、馴染みがある土地であるのなら尚更、悪評が広まるのを避けるように舌打ちをすると人混みへ紛れるようにしてその場を後にする。
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