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第十章 ストレンジ・エンカウンター①

 あれだけの酷暑も喉元過ぎれば暑さも和らぎ、日中は半袖で問題なくとも夕方にもなれば肌寒さを覚え始めるころ。  真生からのたっての希望で、時期を待って美味しい岩牡蠣を提供する店を予約して訪れた。  真生が部屋を飛び出してから、休日のデートとして会うのはこれが初めてだった。その間も平日夜だけの食事は頻繁にしていたが、月極五十万円に形式が移行してからは、都度お手当てを渡すということも無くなっていた。  考えればあの日から真生の笑顔を見ていない。  食事の時、会計の時、礼も告げてくるしそこには間違いなく笑顔もあったが、どこか覇気がないというか、表面上だけの笑顔のように見えていた。適当に時間を消費しようとしているようには思わなかったが、向けられる形式的な笑顔からはこれまでのような多幸感が得られなかった。 「いつまでぶーたれてるつもりだよ」  口に含んだ生牡蠣を、ペリエで流し込んでからナプキンで口元を拭う。  真生は感情が表に出やすいので見ていて分かりやすい。本人は隠しているつもりかもしれないが、ここ最近はずっともやもやしたものを内に抱えているようで、ふとした時視線が下へ落ち気味になってきている。  大人を何度も迫ってきていたときはそれでも次会う時には気を持ち直していたものだったが、思えば最後に真生からの大人を拒絶したのは、月極形式に契約を変更したときだった。 「ぶーたれてなんかないし」  殻から器用に牡蠣の身を外した真生はレモン汁を搾るが、カットされたレモンを手の中に握り込むようにてぼとぼとと新鮮な果汁を垂らす。  露骨に不機嫌さを表に出すのは最近珍しくなく、果汁でべたべたになった掌を拭き詰まった身を口へ運ぶ。  どこに真生を怒らせたトリガーがあったのか、未だに理解が出来ないまま佳嘉は箸の先で牡蠣の貝柱を切断する。  少し小洒落たオイスターバー。ドレスコードや年齢制限などはなかったが、真生のような見た目の人物が家族連れ以外でこういった店に来るのは珍しい。  真生もそれを理解しているのか、ハイネックセーターに落ち着いた色のボトムと普段の子どもらしい服装とは変わって落ち着いた装いだった。 「こないだのことだろ? 何が嫌だったんだよ」  いくら見た目だけが大人っぽくなっていても、その行動は不貞腐れた子どもそのもので、当然といえば当然だったが、関係性の改善を考えるのならばやはり直接訊ねるしかなかった。  金銭面で苦労をさせている覚えはない。食事面でも真生が食べたいものを優先的に時間を捻出している。大人の関係に至らない理由もちゃんと説明をして、理解してくれたと信じていた。  無料で掃除や食事の世話をしてもらい、それを当然のように享受してしまえるような関係性ではない。物事にはそれに見合った対価が必要で、佳嘉にできることは内容に応じた正当な報酬を渡すことだけだった。  真生に渡すための金銭ならば、なにも惜しくはなかった。  真生は食べる手を止め、ちらりと佳嘉に視線を向けるが、またすぐにふいっと視線を反らす。 「言いたくない」  ぷくりと膨らむ頬は子どもらしさの象徴で、真生はグラスのボウル部分を鷲掴みペリエを喉の奥へ流し込むと、荒々しくプレートをテーブルに叩きつける。  不満なことがあるのなら言葉にしてくれなければなにも伝わらないのに、真生は終始不機嫌を全面に押し出していた。それは佳嘉が理由を訊ねることでさらに悪化し、原因を求める佳嘉の思考をフル回転させた。  手を軽く上げて店員を呼ぶと、空になった真生のグラスへペリエのおかわりを求める。  頬杖をつき不機嫌そうな真生を見ていると何故だか胸がざわつく。  目の前にいるのに以前のように楽しめない空気感そのものが、重苦しく佳嘉へのしかかる。  楽しめないと思ってはいけない。その気持ちはきっと真生に伝わってしまうから。  左手のフォークでカキフライを固定させ、右手のナイフでそれを斜めに切る。揚げたての湯気が切った瞬間に広がり、フォークでその半身を突き刺すと左手が疼くように痛んだ。 「佳嘉さんってさあ」  器に入れられたタルタルソースを切断面に塗布していると、真生に声を掛けられ視線を上げる。 「人の気持ち分かんないよね」 「えっ……」  一瞬、目の前が白と黒二色だけのモノクロ世界のように見えた。  真生から突き付けられた一言が、佳嘉の心を大きく揺さぶる。  フォークを握る左手が佳嘉の意志とは無関係にカタカタと小さく震え始めていた。
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