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第十七章 チェンジ・オブ・ハート③
こんな汚い雑踏、佳嘉には似合わない。
それでも懸命に自分の名前を呼んで追ってきていた佳嘉が、今そこで倒れて、動かない。
考えるより先に身体が動いていて、真生は佳嘉に駆け寄っていた。
地面に片膝を付き、倒れたまま動かない佳嘉の背中に触れて軽く揺する。
「大丈夫か……? お前、そんなに身体強くな――」
言い掛けたとき、真生が気付いたのは倒れた佳嘉が片手で腹部を押さえていることだった。真生はその腹部の位置に覚えがあった。
「そういやお前腹にある傷……」
佳嘉の意思を一切無視して、自室に閉じ込め凌辱の限りを尽くした年末年始の十日間。何度も見た、佳嘉の腹にある刺されたような傷を。
佳嘉の左手掌にも同じような痣があった。佳嘉の過去になにがあったのかを真生は知らない。だけれど確実に佳嘉の過去になにかがあったことだけは分かっていた。
腹の傷が障ったのではないかと考えた真生の血の気がサッと引く。
無理に追わせてしまった。逃げなければ良かった。もし、自分が逃げたせいで佳嘉の身になにかあったとしたら――真生は自分で自分を許せなくなる。
「お、おい佳嘉、しっかりしろって……」
蹲り、佳嘉の顔を覗き込むようにして身体を揺する。
動機がどんどん速くなっていく。それは全力疾走をしたからではない。佳嘉の生死の危機そのものが、真生にとっては筆舌に尽くしがたいほど深刻な問題だった。
逃げたわけじゃない。向き合う勇気が自分になかっただけだ。佳嘉があまりにも純粋で綺麗で――大好きで――自分の手で汚してしまったことに、傷付けてしまったことに耐え切れなかった。
もう逃げないから、頼むから目を覚まして欲しい。あの時みたいに、また優しい微笑みを見せて欲しい。
「――なーんてな」
「は?」
後悔に苛まれる真生の腕を、佳嘉が掴む。
「捕まえた」
佳嘉はもぞりと身を起こし、少し悪戯めいた表情を向けて真生を見上げる。
そして佳嘉は真生の片腕を掴んだまま、上半身だけを起こした状態で、心配そうに覗き込んでいた真生に対して首を伸ばして唇を重ねる。
繁華街の雑踏、周囲にはゴミが散乱し少し生臭い。決して綺麗だともロマンチックとも言えない薄汚い路地の一角。
――これが初めて佳嘉からされるキスだった。
ムードなんてあったものでもない。ギャルソン姿の男と、スーツ姿でゴミにまみれた男がただキスをしているだけ。それでも、真生にとってはこの瞬間が永遠にも感じられた。
「騙し討ちたあ、随分ズルいことするじゃんパパ」
佳嘉がゆっくり唇を離すと、真生は困惑を浮かべ表情を引き攣らせながら告げる。
もう佳嘉に対してどのような口調と態度が正しいものであるのかも、真生には分からなくなっていた。佳嘉にとって真生が金銭を与えるだけの存在だったとしても、真生は一度も佳嘉のことを援助してくれるだけの存在だと思ったことはなかった。
佳嘉に胸ぐらを捕まれ、真生は引き寄せられる。
これまでの佳嘉からはとても考えられないような行動だった。
「僕はもう、真生のパパじゃない」
佳嘉の真剣な眼差しが真生へ向けられる。
どこか決意を秘めたような瞳、しかし固く結んだ唇は僅かに震えていた。
――こんな佳嘉、知らない。
あんなにたくさん傷付けてしまったのに、悲しませてしまったのに。
真生は無意識に佳嘉の頬に触れていた。
綺麗だった佳嘉が、こんなに汚れて、ゴミにまみれて。
今、真生の目の前にいるのは、これまで真生が見ていたカッコよくて完璧な〝パパ〟ではなかった。
真生は一度目蓋を伏せてから、力が抜けたようにふっと笑う。
「……確かにな」
地べたに這いつくばったままの佳嘉の腰を抱き寄せて、真生は目を細めながら再度佳嘉と口付けを交わす。
生臭い路地裏の空気を掻き消すように、二人の唇が重なる。佳嘉の手が真生の背中へ周り、真生の身体がぴくりと震える。互いの鼓動が伝わり合うその瞬間、すべての音が遠ざかった。
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