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朝のおにぎり弁当

 軽快なノック音に、翔はまたかと苦虫を噛み潰したような顔をした。その顔を見た相方である白川――芸名は中村なので翔はいつもややこしい思いをしている――がそれを見て、なんだったら楽屋の前に弁当を置こうかと提案してくるものだからますます翔の眉間の皺が深くなる。と言っても、いつも笑顔な翔の眉間の皺は浅く、怒った顔をしているのに怒っているような顔には全く見えなかった。地毛である茶髪の癖っ毛も相まってお人好しな雰囲気が拭えない。そこが翔の長所でもあり短所でもあった。 「犬飼さん、どうも! お久しぶりです!」  『給食の時間』との紙が掲げられた楽屋のドアを開けたのは、自分たちよりも歳下の若手芸人であった。確か以前、学園祭の営業で顔を合わせたことがある。 「弁当は無いで」  相手が遠回しな要件を告げるよりも素早く結論を突き出せば、相手側はそうでしたかえへへ、などと言いながら退散していった。大部屋の他の芸人にも伝えときや、と釘を刺したが効果が表れるかどうかは怪しいものであった。 「これでもう四人目やで、四人! どう思う?」 「どう思うって……人気者やな、俺ら」  白川がそう言いながら、笑ったことによってズレた銀のフレームの眼鏡の位置を直す。朝からぎょーさん笑ったわ、なんてことを言うので、今からぎょーさん笑ってどうするかアホ、と翔は返した。なにせ今から朝の生放送バラエティ番組の収録なのである。沢山笑ったり笑わせたりするのはもう少し後で十分であった。  コンビ・給食の時間には、朝の楽屋弁当は不要である。それは、テレビ業界と呼ばれる業界の中では有名な話であった。料理上手な白川は自作の弁当を持ってくることが多かったし、翔も一年半前に結婚してからは朝はパートナーが作ってくれたおにぎり弁当で済ましていた。そのため、浮いた弁当を狙って食に飢えた若手芸人がやって来るようになったのである。今回出る番組には何度か出演した事があるが、どうやら弁当の分配を業界入りたての若手がしたらしく、本来は不必要な二人の分まで弁当が置かれていた。そのことをどこからか聞きつけたのか、オープニングのネタコーナーに出演する若手芸人の一部がやって来たのであった。 「今度から、二人の分の弁当が出されたらボクが食べておきましょうか」  そう言い出したのは身長一九〇センチ、体重九〇キロ超えの巨漢マネージャー今田である。 「確かに、今田さんなら二人分楽勝やな」  翔もせやせやと言いながら、ようやく黒のリュックサックの中から四角い保存容器を取り出した。同棲を始めた頃、弁当はどうするという話になってさまざまな脱線をした挙げ句、今の保存容器にラップで包まれたおにぎり三個というスタイルになった。とはいえ、翔のパートナーの手は大きいのでおにぎり三個で茶椀三杯分となる。それでも早朝から起き、これからヘビーな収録に挑む戦士としては足りない量であった。逆に白川は後で電気流されるかもしれないのにこないに多く食べられるかと、朝食は少なめに摂っていた。  コンビニで買ったインスタント味噌汁の横にレンジでチンした保存容器を置くと、翔は割り箸を持ちつつ両手を合わせた。汁物も作ってもらっていた時期もあるが、さすがに負担が多すぎるということで今はおにぎりだけにしてもらっている。 「いただきます!」  三個とも海苔が巻かれたおにぎりは、一見すると中身が分からない状態となっている。翔も、食べてみるまでは中身が何なのかは知らされていない。パートナーの鋼太郎曰く、知らない方が楽しいこともあるだろう、ということであったが、確かにそうなのかもしれない、と翔は思っている。  まずはセンターのおにぎりから食べてみる。具があるであろう中心部まで行くように大きな一口で食めば、脳天まで突き抜ける爽やかな酸味が口いっぱいに広がる。種を取り除いて解された梅肉には何の味付けもしていないはずなのに、仄かな甘みが後からやってくる。確か、この梅はこの間行ったロケ先で食べた美味しい梅だ。鋼太郎にも食べてほしいと買って帰ってきたのだが、まさかまた食べられるとは思いもしなかった。ふふ、と一口目にして思わず頬がにやける。白川は何度も見ている光景なので、今さら茶化したりはしない。ただ無言でSNS用の写真を撮るだけである。なぜか白川は写真の趣味もないはずなのに、コンビ結成時から翔を撮っては投稿しているのであった。因みにSNSをしていない翔の結婚発表も白川のSNSでやった。まだレギュラーラジオ番組も無かった時の話である。  梅おにぎりを食べ終えた翔は、味噌汁を何口か飲むと、左側のおにぎりに取り掛かった。力を込めて握ったからか、おにぎり専門店やコンビニおにぎりのようなふわふわとした感触からは少々遠い、ぎゅぎゅぎゅっとしたおにぎりを食べ進めていけば、今度は醤油の香ばしさとカツオが香るおかかに辿り着いた。カツオの旨味が白米に馴染んで美味しい。梅で目覚めた頭におかかの香ばしさと旨さが染み込んでいく。  梅、おかかと来れば残りは昆布であろうか。そんなことを考えながら口内に残った白米を味噌汁で流し込み、最後の三個目に取り掛かる。 「しかしまあ、朝から食えるなあ……ゲーしないん?」 「んー、したことないかな」  白川とそんな会話をしつつ、三個目に取り掛かる。三個目は、マヨネーズにツナの油が混ざって濃厚なハーモニーを奏でているツナマヨであった。惜しい! と思わず胸の内で叫びつつ、翔は勢いよく二口目を頬張った。咀嚼しつつ、スマホの画面を開き、トークアプリを開くと、今日もおにぎりを作ってくれた愛おしいパートナーに感謝のメッセージとスタンプを送った。勿論、既読は付かない。きっと今頃は二度寝もとい仮眠をしているか、出勤準備をしている頃であろう。確か今日は当直だとか言っていたから、翔よりもハードな一日を過ごすことになるであろう。それでも毎朝――当直の時は作り置きしておいた分を用意している――おにぎりを用意してくれているのだから、感謝しかない。愛しかない。こっちも何か料理スキルを高めて手の込んだものを振る舞ってやりたいが、売れっ子若手芸人ということもあり、中々上手いようには行っていない。だからこそ、翔は美味しく食べることを大切にしている。出されたものを美味しく食べることも、元気な姿を液晶画面越しに見せることも、またひとつの愛ではなかろうか。 「ごちそうさまでした!」 「今日もまた、偉い食べっぷりやったな……この写真、ゼットにアップしとくで」 「ん、頼む」  翔は膨らんだ腹をひと撫ですると、最後の確認のために台本に目を落とした。
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