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第1話

「大変申し訳ありませんでした!」  渕上祐輔、俺は先日三十歳になった。 『困るよ! 今までこんなことがなかったから、今回も頼んだんだからさ。まあ、もう時間がないから、とにかく現地に届くように手配して。話はそれから。期限は明日の午前中ね。よろしく!』 「はい。ありがとうございます」  大口のクライアントからイベント用のノベルティの発注を受けていたにも関わらず、それを放置したまま旅行に出掛けていた新人くんが、突然大病を患ったと言って辞めていった。  いきなりそんなことがあるのかと思っていると、受発注履歴に未対応案件が山のように残っていることが発覚。それが全て辞めていった新人くんが担当していたものだった。  そのうちの一つ、社内イベント用のノベルティ作成を依頼してきたクライアントに、通常の半分の期間で納品出来ると嘯いた挙句、発注時に「二日」と「五日」を聞き間違えていたらしいことがわかり、戦慄しているところにお怒りの電話がかかってきた。  長いお怒りの言葉を頂戴した後、電話を切った俺は、後ろでオロオロしていた後輩たちに指示を出す。 「木田、モノは出来てるんだよな? うん、じゃあ運べたらいい話だから、配送業者さんの都合確認して来て。でも今はドライバーさんに余裕無いだろうから、営業車の空きを確認して、運転出来る営業に片っ端から声をかけて。とにかく運ぼう。先方は動きが止まるのを嫌がる方なんだ。俺と課長は先方に顔を出してくるから、ここはお前が仕切ってくれ。いいな?」  俺は後輩の木田にこの場を任せると、課長と共に先方へお詫びをするために飛び出した。 ——あーあ。エルダーの手が回ってなさそうだったけど、ここまでだったか……。  チームリーダーを務める俺は、新人についているエルダーをまとめるのも仕事の一つだ。これまで、あまり大きな遅れが発生することもなかったのだが、ここへきて突然新人くんがやる気を失ってしまったのだ。その理由は、エルダーが怖いからというものらしい。  俺たちの世代では信じられない理由で、当然のように仕事を放棄していく若手たち。いつも頭を悩ませているのは、俺たちリーダーだ。 「渕上! 手土産買ったか?」 「はい、あります。先に倉庫寄りますが、よろしいですか?」 「ああ。急ごう。でも、安全運転でな」 「はい。新婚の課長に怪我はさせられませんからね」 「……なんだお前、えらく余裕だな。そんなだから見落としとかするんじゃ無いのか?」 「うっ、申し訳ありません……」  吉岡課長はそう言って、目尻に皺を刻んで笑う。俺は、その顔がたまらなく好きだ。ただ、それを自覚した日には既に失恋していた。俺はゲイだけど、課長はノンケだ。それに、その時にはもう婚約していたそうだ。失恋しても毎日顔を合わせることになった俺は、毎晩泣いた。それに付き合ってくれる人がいたから、今はこうして元気に働けている。 ——好きだった人とお詫び行脚かあ。帰ってからハルに聞いてもらおう。  これからお詫びをするにしては、浮かれた心持ちで俺は配送業社の倉庫へと車を走らせた。  俺には、ハルというネット上の親友がいる。俺たちは所謂、ゲーム仲間だ。一度も会った事がなく、俺はハルの姿を見たことはない。 『顔を見せるのは苦手なんだ。話すのは大丈夫だから、ボイスチャットならいつでも大丈夫だよ』 「わかった。俺はハルと話しが出来るならそれでいいから、そうしよう。嫌なことはしなくていいよ」  そう決めてからもう二年になる。ずっと声だけの付き合いにも関わらず、随分と仲良くなったものだ。  ハルはどうやら重度の恥ずかしがり屋らしく、顔だけは絶対に見せてくれない。この後も実は何度か打診してみたけれど、それだけはどうしても嫌だと言うので、俺ももう諦めることにした。  そこまで顔を見ることにこだわりがあるわけじゃないし、それを強要しなければ一緒にゲームが出来る。今の時間がなくなる方が俺にとっては問題だと思ったから、ずっとアバターに向かって話しかける日々を続けていた。  そして、今ではゲームをしていない時間にもただ話をするようになり、仕事の悩みや恋のことだって相談するような仲になっていた。  そんな中でのこのトラブルだ。帰ったら絶対にハルと話すネタにしようと思いながら、自社の倉庫からバンに積めるだけの荷物を積んで先方へと向かった。  先方の担当である脇坂氏は、常務取締役で創業家一族の分家の方だ。普段は穏やかで、必要な時にはビシッと厳しく指摘をされるけれど、あまり無駄に怒ったりしない。  順調に搬入が進むにつれて安堵されたらしく、俺たちへの労いの言葉をかけて下さるようになっていった。 「今日の分はあと少しだよね? それは業者がここへ運んで来てくれるんだろう? それならもう君たちは戻っていいよ。あとは秘書に対応させるから。迅速に対応してくれてありがとう。ただし、くれぐれも明日の分のチェックは抜かりないようにね。頼んだよ!」  そう言うと、課長の肩をポンと叩いていなくなった。 「はい。そうさせていただきます。ありがとうございました」  俺たちは二人で頭を下げると、脇坂氏を見送った。氏のそばに控えていた秘書の方が、俺たちのしていることに気がつくと、同じように綺麗なお辞儀を一つ返して下さった。そして頭を上げると同時に優雅な笑みを浮かべる。そのまま常務の後ろについて颯爽と去って行った。 「すっごい綺麗な笑顔だなあ」  思わずそう呟いていると、「おい、帰るぞー」と課長から声をかけられる。あまりに美しい笑顔だったからか、俺はしばらく見惚れてしまっていたみたいだ。 「あ、はい! すみません」  俺はそう応えながら、受付で借りた来館者証を返している課長のもとへと急いだ。自分も同じようにして入館証を返すために、ネックストラップを外そうとする。 「あっ」  カシャンと軽い音がホールに響き渡った。気がつくと胸のポケットから万年筆が滑り落ち、床を滑って消えていく。天冠の色が気に入っているため、ポケットからそれが見えるように挿していたのが仇になってしまった。 「あーしまった」  ネックストラップを外す拍子に、クリップ部分を引っ掛けてしまったらしい。パーティションの向こう側は、部外者立ち入り禁止だ。勝手に入って探すわけにもいかない。 「くそっ、なんで今なんだよ」  普段ならしないようなミスで謝罪に来た日に、クライアントの受付でものを落とすなんて信じられなかった。俺は自分に呆れた。不注意にも程がある。 「まずい、早くしないと……」  落としたものを諦めたくは無いけれど、早く帰社して他の業務の進捗も確かめないといけない。俺は焦った。  あれは、ハルが俺のためにパーツと柄を選定して作ってくれた、三十歳の誕生日プレゼントだ。  同じものを作ろうと思えば出来るけれど、俺の三十路を祝うハルの気持ちはそれに乗せられない。変えのきかない大切なものだ。 「渕上ー、どうした? 早く戻るぞー」  急いでいるにも関わらず、突然中へ戻ろうとした俺を、課長が急かしている。 「あ、はい! 直ぐに……」  とにかく今は状況が悪すぎる。後ろ髪を引かれながらも、今は仕事を優先するしかないと課長のもとへ急いだ。 「帰りはお前が運転しろよ」  そう言う課長に急かされ、二人で走った。運転席へと滑り込みドアを閉めようとすると、どこからか俺を呼んでいる声が聞こえていることに気がついた。 「渕上様! 渕上様っ!」  呼ばれた声に驚き、あたりを見回す。  そこにいたのは、先ほど美しい礼で俺たちを見送ってくれた、秘書の男性だった。 「課長、すみません。少しだけ待っていただけますか?」  俺の言葉に、課長は目を丸くした。この後に及んでまだ何かしようとするのかと、その目が訴えてくる。でも、クライアントの秘書が走って俺を呼んでいるなんて、また何かあったのかも知れない。そういうと、納得してくれたようだ。 「少しだけだぞ。すぐ戻らないといけないだろう?」 「はい、わかってます。ありがとうございます」  課長の了承を得て、ドアを開いた。そのドアに、あの秘書の男性が手をかける。 「あの! あの、これ、渕上様のものですよね。先ほど落とされて……」  息を切らす彼の手には、確かについさっき俺が落とした万年筆があった。  首軸、胴軸、尻軸、その全てのカラーが異なる。カジュアルな印象から、ぱっと見では万年筆とはわかりづらいカラーリングになっている。間違いない、俺の大切な万年筆だった。  俺はそれを見て心の底から安堵した。そして、思わずそれを受け取ろうとして、彼の手ごと握りしめてしまった。 「あー! 良かったーあああ!」 「えっ? あ、あの……」  クリップ部分には、“tabby”と刻印されている。それは俺のプレイヤーネームだ。ハルは俺の本名を知らない。だから刻印は本名ではなく、いつも呼ばれているタビーになっている。この見た目でこの刻印のものは、おそらく二つとないだろう。  ほっと一息ついて秘書氏を見ると、彼の顔は真っ赤になっていた。その反応を見て、俺は彼の手を握りしめているのだということに、ようやく気がついた。 「あ、も、申し訳ありません。あなたの手まで握ってしまいましたね」  相手はクライアントだ。俺は一体どれほど失礼を重ねたら気が済むのだろう。慌てて手を離し、頭を下げた。  しかし、彼はそんな俺を見てふっと息を吐き、「大丈夫です。はい、どうぞ」と万年筆をそっと俺の手のひらに載せてくれた。 「ありがとうございます。これはとても大切なものなんです。見つけていただいて良かった」 「そうみたいですね。それだけ大事にしてもらえたら、贈られた方もきっと喜ばれていると思いますよ」  彼はそう言って一歩後ろへと下がると、「お気をつけて」と微笑んだ。それと同時に俺は運転席へと乗り込む。綺麗なお辞儀に目を奪われないようにしながら、俺たちはその場を後にした。

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