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先輩とたばこ
告白しないまま、卒業式を迎えた。
望 は高台の公園から校舎を見おろしていた。屋上の半分が茂みに隠れたその校舎は、ひどく静かだった。卒業式は終わったらしい。
二年の望は今日は休みだ。
望は視線を上げていった。
フェンスの向こうには、集合住宅や戸建て、高架、駅ビルが広がっている。晴れてはいるが、肌寒い。
「居たんだな」
あの人の声がした。
たわんだフェンスから、望は離れた。
ネクタイを緩めながら、真次 がフェンスにもたれていた。ブレザーにコサージュ、手に二つ折りの卒業証書がある。昼食で食べたらしい焼肉のにおいがする。
「先輩、来たんすね」
「ここの景色、見ておきたいからな」
真次は明日、関西に行く。一人暮らしが始まるのだ。
「卒業おめでとう、です」
「サンキュ」
真次は、滑り台のついたお椀型の丘を登って、寝そべった。
望もそうした。
芝生がやわらかい。
大きな空が、わだかまる言葉を持ち上げて、心を軽くしていく。
「初めて会った日、憶えてますか」
「憶えてないな」
「大学、よく合格できましたね」
「大切なこと以外、憶えないんだ」
「ひどいっすね」
望が笑うと、真次も笑った。裏手の道路から、トラックの音が響く。
「雨、だったよな?」
「梅雨晴れでした」
「似たようなもんだろ」
「全然。晴れてたし」
「なに話したっけ」
「喧嘩したんすよ」
「初対面でか?」
「初対面で」
望は憶えている。前日の雨で芝生が生乾きだったことも、暗い気持ちだったことも、母とのこれからについて考えていたことも。
望は母と二人暮らしだった。家には一台ノートパソコンがあって、ほとんど望が勉強のときに使っていた。たまに母も使うから、プライベートなことは必ずスマホを使っていた。それがあの日にかぎって、パソコンで、その手の動画を観てしまったのだ、男同士の。ズボン脱いでなくてよかったーと、いまでは笑い話にできるけど。
雨が降っていた。望はイヤホンをしていた。声がして、あわててパソコンを閉じて振り向くと、ドアのそばで母が笑っていた。作り笑いだったかもしれない。望は片方のイヤホンを外し、「ごはん、できたよ」と言った母を見送った。つけたままのイヤホンからは、首を絞められたような喘ぎ声が聞こえていた。
そのあとも、母の態度に変化はなかった。気づかなかったのか、気づかないふりをしているのか、いまでもわからない。
翌日、望は四時間目の体育をサボった。学校を抜けだして、ここに寝ころがっていた。母との関係が変わるのだろうかとか、死にたいなーとか、ぼんやり考えながら、閉じたまぶたの光を眺めていた。
そんなとき、真次と出会った。
真次は煙草を吸っていた。望が起きると、言った。
「わりいな。ここは俺の席なんだ。ぜっていどかないからな」
誰もいないのにわざわざ隣に座って、街に目を細め、うまそうに煙草をくゆらせていた。同じ制服を着ていた。
いつもの望なら、無言で立ち去るはずだ。けれどその日は、言い返してしまった。
「男の隣がいいとか、ホモかよ」
胸倉を掴まれた。その手は刃のように固かった。ねじれた眉の下の、真次の眼光は強かった。必死に、望は睨み返した。それでも怖かった。泣きそうだった。少し、ちびった。
真次が拳をあげた、青空を背負うように、大きく。
その瞬間、イヤホンから聞こえていたあの喘ぎ声が、ドアを閉める母の笑顔が、昼休みに怒られるであろう自分が、そんなものがいちどきに突き上がり、拳が迫るや、望は大声をあげていた。真次を突き飛ばし、のしかかった。真次が襟を掴んだ。取っ組み合いのまま、ぐわんぐわん頭が揺れながら丘を転がった。頬が焼けたように痛んだ。殴られたのだ。尻を振るい落として、今度は望が馬乗りになって殴った。真次が怒鳴った。望の視野に青空が降った。背中が地面に衝突し息の詰まった瞬間、殴られた。それでもすぐ真次の太ももを抱きかかえた。真次の二発目はくうを切った。仰向けにさせ、望は殴りかかった。が、漫画みたいに、手のひらで拳を止められた。眼前には、止めたことに自分でも驚いている真次の顔があった。間抜け面だった。胸のバッチは三年だった。先輩だ。笑いそうになって、反撃された。下腹を蹴られた。だから望も掴みかかった。野生に戻ったように、戦った。
煙草のにおいがした。
あの日と同じ、煙草のにおいだ。
真次が茜色の縁取りで輝いていた。
望は上体を起こした。
街の陰影が深い。地平線の夕陽が、青空を引きずりこもうとしている。きれいな青空は、もうここだけだ。
「寝んなよ。帰りづらいだろ」
芝生に、コーラの空き缶とスマホが投げ出されている。
謝ってから、望は言った。
「夢、見てました。好きな子の」
「きもちわりい」笑って、真次が煙草の箱を差しだした。
「いらないっす」
舌打ちして、今度はくわえていたフィルターを向けてきた。
「唾液、つけんなよ」
ひと口もいらないんだけどな。そう思いながら、いつものように望はつまみ取り、くわえた。
夕陽がまぶしい。
青空が消える。
「うまいか」
答える。
「くそ、まずいっす」
おわり
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