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                 僕は隣でまだ「履かせて差し上げますよ」とか妙なことを言っていたソンジュさんをなかば無視し(何回「大丈夫です、自分で履けます」と僕が断っても彼、どうか遠慮なく、やりたいのです、私に任せて、と言い募ってくるので)、その新品のスニーカーを有り難く履かせてもらった。   「…………」    まあ、とりあえずよかった…――靴が履けて。  しかも、願ってもないような憧れの新品スニーカー…これだけのことをしていただいては、あとでソンジュさんに僕は、いったい何を要求されるのやら、――今度はまた、新しくそうした不安要素が立ち上ってきているが。  というか…それもそうだが、僕にはもう一つ不安なことがある。――本当に、大丈夫なんだろうか。   「……、ところでソンジュさん、聞いてもいいでしょうか…」   「…はい…?」    隣でどうぞ、と優しく僕の質問を許したソンジュさんだが、僕は彼の顔が見られないで軽く俯いたまま。   「正直、大丈夫なんでしょうか…? 僕の代わりの性奴隷なんて…――あの、ケグリ氏はあれでかなり……」    もちろん僕の実体験によるところの話だが、ケグリ氏の性奴隷となってしまったらそれこそ、かなり酷い目に合うことはまず確かだ。――それを僕の代わりに誰かが、その誰かが僕と同じような目に合うなんて、僕はどうも気分が悪い。  僕だけがその酷い扱いから逃げられても、また僕と同じような目に合う人が出てきてしまっては…――と、思ったのだが、隣でソンジュさんは、「ああ」と何も後ろめたそうじゃなく、気軽に応え。   「それに関しましては、実は()なのです。…」   「……は…?」    嘘?   「…私に、性奴隷の知り合いなんていません。」   「…えっ」    僕は目を瞠ってソンジュさんへと顔を向けた。  彼は神妙な顔を、隣の僕のほうへと向けている。   「…いえしかし、まあ…できるものならやってみろ、自分たちを性奴隷として扱えるものならやってみろ、という感じの――知り合いのハウスキーパーを、派遣する手はずにはなっていますよ。…」    ソンジュさんは「もちろんその方たちも、この件了承済みです」と付け加え、それから顔を伏せた。――そしてソンジュさんは、スラックスのポケットからスマートフォンを取り出すと、それの電源をカチリと入れつつ。   「…本来ならば…まあ、すぐさま警察にでも通報したほうがよいのでしょう。――人身取り引き、性奴隷という形での性サービス従事の強要など、あきらかな犯罪行為をさまざま行っているケグリさんたちですからね。…」    そうスラスラと話すソンジュさんは、スラスラとスマホの画面を人差し指で擦って操作している。   「…それこそ、ユンファさんの恋心を利用して性風俗店で働くことを強要したモウラに関しても、それは立派な犯罪行為ですから、実に彼もまた、その件で裁くことはできるのです。…」   「………、…」    え、そうなの、か。  僕はそのことを知らなかったあまりに、目からウロコというようだ。   「…ユンファさんのように恋心を利用されたケースですと、被害者の方は大概自分の意思でサインしたから、と思い込んでしまったり…あるいは、そうでなくとも泣き寝入りしてしまう方も多くいるのですが――ふ、たとえ恋心があろうが何だろうが、そもそも他人が誰かを、性風俗店に務めさせることそれ自体がもう、まず犯罪行為なのです。…もはや仕事を勧めるだけでアウトですよ。ただ……」   「……、…」    ソンジュさんはスマホの画面を見下ろし、何か操作しながら話を続ける。   「…検挙するにも、いささか証拠が不十分ですから。――どうせなら、できるだけ彼らの罪を重くしてもらわないとね…、それに“AWAit”の客のなかには、その実国の関係者もいたようです。ですので、今は慎重に事を進めるべきかと……」   「…………」    そうだったのか、とは、かなり呑気な話である。  僕はつまり、その国の関係者の人々にもなぶられ犯されていたらしいわけだが、…仮面を着けているその人たちがそうなのだとは正直、全然気が付かなかった。――そしてソンジュさんは、やはりスマホ画面を見下ろしながら。 「…まあ一応、ユンファさんの痴態を収めていた写真や映像などは、すべて彼らの手元から消去させる手はずとなっています。――セカンドポルノとして脅迫に使用されても、もちろん困りますからね。…その件は今、モグスさんが直接交渉してくださっているはずですよ。」   「………、…」    え…――じゃあ、僕。  いや、でも…そんなのは今更なんじゃないか、とは思いつつも。――やはりその話を聞けたら僕は、いくらか救われた気持ちになる。   「…ふふ…モグスさんのことは信用なさって大丈夫ですよ、ユンファさん。…あれで頭が切れる人ですし、何より…ケグリさんたちは、()()()()()()()()()()()()()――PCに保存されているものやカメラに残っているもの、別途メモリーディスクに保存されているものなど、そのあたり抜かりなく、ケグリさんたちの手元には一切残らないよう、モグスさんがすべて消去してくださることでしょう。…何かしら、上手いこと理由をつけてね。…ただ……」   「…………」    モグスさん…物腰もやわらかく陽気な人だが、…だいぶ凄い人、らしいな。――いや、だからこそ九条ヲク家の(ソンジュさんの)専属執事になれるのかもしれない。   「もちろん、それも犯罪の証拠となりうるものですから、申し訳ないが…別途こちらで保存はさせていただきます。――ユンファさんとしては、複雑な思いであることとは思いますが…その点は、どうかご了承ください。…」    そう真摯に言ったソンジュさんは、そこで僕に振り返る。――そして僕と目が合うなり、ふふ、と微笑みながら、今しがたまで操作していたスマートフォンの画面を僕のほうへと向けて、…それを見せてきた。  そこに映っていたのは、一枚の写真であった。    何か、真紅のカーテンか何かの前に、ポーズを決めた人物が二人写っている。――一人は黒い肌色で(おそらく黒人である)、その筋肉で膨らんだ両腕を、胸の前で曲げた形でボディビルダーのようにポーズを取る……綺麗にメイクをした(バサバサとしたたっぷりの黒いまつ毛、見事に塗られた銀色のアイシャドウは目頭から目尻へ黒へとグラデーションし、紫色のソバージュの長い髪は肩にかかって、濃いワインレッドの口紅をつけ、その笑った厚い唇から輝くような真っ白な歯を覗かせている)、そして白いひらひらのワンピースを着ている…おそらく男性。でも、とても綺麗な人だ、顔はとても整って見える。ドラァグクイーンのようである。    その隣には、その男性と身長差が三十センチはあるものの――その色白なお顔こそお上品な中年のご婦人、というようではあるものの。……グッと曲げて肩の位置まで上げたその二の腕は太く、そこにボコっとした立派な力こぶを宿し、カメラへとキリリ凄んでいる、…ムキムキの、赤い口紅をした、勇ましそうなご婦人。…彼女も綺麗にメイクをしておしゃれをしており、なんとチューブ型の黒いドレスは途中で途切れ、彼女の六つに割れた白い腹筋を見せて(しかもおへそには銀のリングピアスがついている)、それから腰骨辺りでまたチューブ型の黒いドレスに続いている。   「ふふふ…これは、以前私の家でパーティーをしたときの写真なのですが。――この方たちを、あのケグリさんたちの家に派遣する手はずとなっているのですよ。…」   「……へ、へえ、そうなんですか……」      凄く、一見にしても個性的な人たちだ。  一度見たら忘れられないくらい――とても個性的である。……いや、とてもじゃないが、ハウスキーパーの人たちには見えないのだが。           

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