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俺はすぐさま着信に応え、自分のスマホを片耳に押し当てた。実をいうと一瞬悪い想像をしてしまった。
こういった悪い要件の電話じゃなかろうかと思ってしまったのである。道中交通事故を起こしてしまって今夜はお客様(俺)の元へ行けそうもありません、道が混雑していてもう少し遅くなりそうです、途中でキャスト(ユンファさん)の体調が悪くなってしまったので、本日はやっぱりキャンセルでもよろしいでしょうか。
激しい期待は激しい不安によく似ている。しかし、俺のそのいやにネガティブに傾いた悪い想像を瞬時に掻き消したのは、電話越しに聞こえてきたこの玲瓏 な男性の声である。
『…あっもしもし? お待たせしております、…』
「…グ……」
俺の予想通りの相手、…とは少し違った。
…俺はてっきり運転手など『DONKEY』のスタッフが連絡を寄越してくるものだとばかり思っていたが、何と今電話口で俺に話し掛けてきたのは、
『…私 “DONKEY”のユエと申しますが、こちら、カナイ様のお電話番号で間違いありませんでしょうか?』
――ユンファさんご本人である。
彼はスタッフ(運転手)の携帯電話を借りたか、あるいは仕事用の携帯電話から俺に電話をかけてきたようであった。――それもこまやかな気遣いが身についているらしいユンファさんは、事務的ながら電話越しの俺に聞き取りやすいよう、ハキハキとあえてほんのわずかばかり声を高く出してくれている。――それにすら好意を向けられているようでときめく。
『…もしもし。……? もしもし?』
「……、…、…」
もちろん電話越しではやや濁って聞こえてくるので明瞭ではない上に、スマホでの通話だといわゆる「合成音声」らしい――本人の肉声ではなく、その声を真似ている機械音声ということらしい――以上、この声がユンファさんご本人の声であるとはいえない。しかし、たとえユンファさんの声に近い合成音声であったとしても、相変わらず男性なりに低くも美しく澄み渡った響きのある声である。
なんにしても声を聞いただけで心臓が痛い…死ぬ…というか眩暈がする…俺、ユンファさんと話している…何だか夢みたい…。
『…もしもし…? お客様? もしもし…もしもーし…、…あれ…もしかして聞こえていませんか…?』
ユンファさんはあまりにも俺が返事をしないので『あれ、電波悪いのかな…』と訝りはじめた。それにハッと我に返った俺は、
「あっいえ聞こえてます、ええ…ええ間違いありません、かっ…カナイです…」
……名乗り慣れない「カナイ」という名の違和感に力んだあまり、情けなくも吃ってしまった。――ただ本人確認ができたと電話越し、ユンファさんは安堵した笑みを含ませた声で『ありがとうございます』と言う。そして彼は早速、聞き取りやすい声色で電話の要件を言い伝えてくる。
『…ただいまホテル・ベリッシマTOKYOの下に到着いたしました。今からお部屋へ伺っても…』
「あっはい、全然大丈夫です、……」
もちろん『ホテル・ベリッシマTOKYO』とはこのホテルのことである。
『…ありがとうございます。では今からお部屋に伺いますので、恐れ入りますが念の為、お部屋の番号をもう一度……』
「っはい、部屋の番号は……――。」
俺はこの部屋の番号をユンファさんへ言い伝えた。
俺はこうしたユンファさんとの事務的な通話を終えると、いよいよ約十一年ぶりに初恋の人との再会が叶うという現実を間近に感じ、全身が強張るあまりの戦慄 きを感じた。…例えばぐうっと目一杯引いた弓の弦が自然にブルブルと震えるような、そうして限界まで緊張していてはもはや抑えようもない、どうしようもない震えである。
また俺はその震えと同時に、うなじ上の後頭部から頭頂部へと向かい山火事のようにじわじわと燃え広がる、興奮からの熱い痺れを感じた。
なおシャワー上がりに朗 報 を受けていた俺は、急ぎ濡れ髪にワックスをつけてオールバックに整えたのちさっと走り出しそうになったが、――忘れそうになった洗面台の上の仮面に身を返し、慌ててそれを取ろうとして、今度はぎとついたワックスまみれの手を思い出した。
目一杯レバーを下げた蛇口から流れる激しい小さな滝の中で、俺はとにかく強く両手を擦った。早く走り出したいのである。そして、粗方のぬるつきが取れた濡れたままの手で掴んだ仮面、それを急ぎ顔に被った俺は、そうしながらも勢いよく脱衣場を飛び出した。
俺は気持ちが逸 るあまり、走って部屋の出入り口へと向かった。あの日のようにユンファさんを求めて走った。しかしあの日とは違った。――俺の足は緊張から浮ついており、床を踏んでいる感覚も希薄であった。まるで雲の上を走っている夢を見ているかのようだった。
だが、あわや雲の上で足を止めれば今に沈んで地に堕ちるとわかっていた俺は、とにかく前に踏み出す足を止めなかった。
その上ホテルのスリッパを履いていたため今にも足がもつれそうだったが、危うくも幸い転ぶことはなく、俺は早々に部屋の出入り口へとたどり着く。――この部屋の出入り口はクリーム色の大理石模様の、左右に開くエレベーターのドアだった。
最上級スイートルームともなれば、エレベーターから直に室内へと入れる構造になっているのである。
「…っは……はっ…はぁ、はぁ……」
なおそこにたどり着いたときの俺は、全力疾走の上に緊張から酷い息切れを起こしていた。
あわや今からやっと再会できる初恋の人に不審がられてもおかしくはないほど息を切らしている俺は、ドアの前に突っ立ち、一秒でも早くユンファさんを出迎えようと待ち構えている。であるからドア横のインターホンのモニターの、応答をするためのスイッチに人差し指の先をもう置いているのだ。
「は…は…、…すーー…――はぁぁぁ……っ」
不審がられないようにと静かに息をし、たが…いやまだユンファさんは来ていないのだから、やはり根本から呼吸を整えるほうが得策だと強い深呼吸を繰り返しながら、エレベーターの扉すれすれに鼻先を向けて立っている俺が今考えていることとは――こうである。
実は私、全く恥ずかしながら、これもまた初めての経験なのですが――。
「……ッぅぉえ゛っ…、…ふぅ゛、…はーっ…はーっ…」
あかん僕もうえずき そうや……いや、……顔が焼けている。いや顔が熱い。それくらい熱い。
しかし手足は氷水に浸されたかのように凍えそうである。例えば夏と冬が一遍 に来たら、人々はこのような混沌を味わうのであろう。味わえ。味わえよお前らもみんな地球上に居る奴ら全員人類全員だよ82億人全員味わえこのっ…――いや、我ながら上手いことを言ったね。
俺は冬生まれ――そしてユンファさんは夏生まれ。
なるほどこれは俺たちの再会に相応しいBig Bangというわけである。You are my destiny.We were meant to be together!(貴方こそ俺の運命だ。俺たちは一つになる運命なんだ!)そうして俺たちは二人揃ってこそ創造を始められる、二人が一つとなってはじめて俺たちは宇宙さえも造化可能な破壊と創造の神とな……?
「……は…??」
いや何を言っているのだ俺は――??
そのとき、甲高いトーン…というような部屋のインターホンが鳴った。
俺は「う゛ぉえ…っ」胸焼けを起こしながらドア横のモニターのスイッチを押し、咳払いで声を改めてから「はい」と震え声で応えつつもモニター画面を確認した。
その小さい画面に映る伏し目がちの美貌、『あ、…あの私 …』
はたと目を上げたユンファさんが言い切る前にも、焦った俺は人差し指で『開く』スイッチを押した。すぐさまクリーム色の、大理石の自動ドアが左右にさーっと開かれる。
「……ぁ…」
すると間近にあるユンファさんの、その瞠目した薄紫色の瞳はこういう。『あれ開くの早…っていうか、近…?』
「…うあっ綺麗゛…!」
エレベーターの中に立っているユンファさんは驚きに目を丸くして俺を見ている。ドキッとした。ユンファさんの美貌があまりにも近い(思わず「綺麗」と本音がもれてしまった)。
お互いにその扉のすぐ前に立っていた俺たちは、二十センチの距離間で向かい合った。いっそユンファさんのいるエレベーター内に頭から突っ込むかというほど気を逸らせてこの位置に立った俺はともかく、ユンファさんがこの位置に立っているのは先ほどインターホンのボタンを押したためであろう。
「……あぁ…っ!」
というか、
「えっ…」
「…だ、駄目だよそんな露わな…、それで外を歩いて来ただなんて……」
なんてことだ……俺はさっと顔を背けた。
赤い首輪が見えるどころか、ユンファさんはその白い胸板まで覗くほど襟元のくつろいだ白いカッターシャツを着ていた。下は黒いスラックスだった。また彼の左耳の銀の十字架のピアスの下、左の肩には、シンプルな肩掛けの黒革のバッグがかかっていた。――(俺の)ユンファの生の白いぉおぉ胸が…っ!
「…え…? ……、…」
チラと横目に見れば、ユンファさんは『何だ…? 何かおかしかったか…?』と自分の服装を見下ろして訝る。
「いや、いやすみません…ぁ、あぁあまりにもお綺麗で…」
しかし顔を背けるとは失礼だった。俺は自分の仮面を被った顔をユンファさんへ戻す。彼は俺と目が合うなり「ぁ、…ありがとうございます」と困り笑顔を浮かべるが、どことなくあの日よりやつれた白い顔を美しく微笑ませると、真摯な目付きで目礼する。
「……えぇと、こんばんは。おくつろぎのところ失礼いたします。…私 先ほど電話いたしました者ですが、こちらはカナイ様のお部屋で…」
「…ッはァ…――っ!」
ユンファさんのふくよかな桃色の唇は緊張混じりにも、かなり気を遣った言葉選びでそう俺に尋ね、笑っ……てくれた、微笑みかけてくれた、俺に!?
……もはやそれだけで動悸息切れ恋の苦しみに俺は胸元の布を掴んでうなだれた。苦しい。
いや俺の胸をさりげない微笑で掴んできた、いや掴んでくれたのは俺の初恋の人ユンファさん――射抜かれたよ本日も、金の矢に心臓を――なめらかな白い額を出したやや長い黒髪に、相変わらず美しい白い細面 、凛々しい端正な黒眉と涼やかな切れ長のツリ目、そしてあの透き通った薄紫色の瞳!
(俺の)ユンファが華の顔 で俺なんかに微笑みかけてくれた!
「…ぁ、あの、だ、大丈夫ですか…?」
「全然駄目です……どうしましょう?」
困った……――俺は自分で思っていたより全然駄目そうである。
「…え…? …ぁ、どう…、……」
チラッと盗み見たユンファさんはまた驚いて目を丸くする。――『どうしましょうと僕に言われてもな…』と困惑して目を伏せる彼だが、またすぐその透き通った薄紫色の瞳を上げて俺を見る。
「……えっと…あのとにかく、か、カナイ様で…?」
「あっ…てます、はい!」
俺はあまりにも滑稽にコクコクコクコクと頷きながら元気いっぱいの返事をしてしまった。するとユンファさんは安堵と少しの可笑 しさからにこっと笑い、
「…はは、よかった。…あの、…」
「あっどっ…どうぞ、とりあえず中に…」
というか今更ながら近すぎた。言いつつ俺は後ろへと数歩歩いて引く。俺がこのドアギリギリに立っていてはいつまで経ってもユンファさんが部屋の中へ入れない。
「ありがとうございます。…失礼いたします」
とユンファさんは目を伏せ、やや頭も下げ気味にエレベーターから歩を進めると、背後の扉より二歩進んだ位置で足を止めた。――彼の背後、中に人のいないことを察知したエレベーターの扉が静かに、さーっと閉まる。
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