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十分にユンファさんの関心を引き付けられたところで、俺は更に、目を伏せたままこう哀れっぽい調子で続けた。
「…俺はあくまでも…貴方に喜んでいただきたかった…、ただ、それだけのことだったのです…――。」
そう……俺はあ く ま で も 、ただユンファさんに喜んでいただきたかったというだけ……それは本当。それは俺の真実。それは間違いなく俺の、貴方への「真実の愛」。
「……俺は貴方を喜ばせたかっただけ…だというのに…それでなくともお辛そうな今の貴方を、これ以上悲しませ、追い詰めてしまうくらいならば……俺は“あの場所”の前に貴方を連れて行くことなど、もうこの際、潔く諦めたって別によいのです。…実にそのような悲しい結果となっては、俺にとって本末転倒ともいえるからです…――ですから…まあ正直残念ではありますけれど、…今回は、すっぱりと諦めることにします。…さあソファにでも座って、くつろぐといたしましょうか…?」
さあ「あの場所」へユンファさんと共に行くことは、もう潔く諦めようか――貴方の、ために……?
……そうその通り、これは貴方のためだ……だけれど、貴方だ け のためではない。
俺が本当に、ユンファさんと共に二人で「あの場所」へ行くことを、諦めているか――?
「……ふ…、……」
そんなわけないだろう…?
There's no way in hell…(まさか、そんなこと万に一つもあり得ない…)――こんなの嘘だよ……。
「……え…――?」
俺は伏せていた目をツと上げ、事の意外さに思わず思考停止をしてしまったような、ユンファさんのその真っ白な顔を見た。――俺は今に彼の異変を察したふりをして、彼の驚いている目を見たまま、小さく首を傾げる。
「……どうか…なさいました…?」
「……、…、…」
ユンファさんはその群青色の瞳を揺らして、ただ俺の目を見てくる。――『そうか…違う……』
『…違う、僕は……違うじゃないか……』
気 が 付 い た ――やっと今に気 が 付 い た ユンファさんは、そのショックのあまりに呆然としてはいながらも、今にもその顔を歪め泣き出しそうな顔をして、ただ俺のことを見ている。
それこそ、辛うじて込み上げてくる彼の涙を押し留めているのは、彼の目の前にいる俺という他人の存在なのである。しかしユンファさんの緊張の糸が切れたなり、今にユンファさんは、ポロポロと涙を流すことであろう。
「……僕、……」
――『……僕 、が ……ど う し て も 、行 き た か っ た んだ……』――
そう…本当は誰よりも貴方が、どうしても「あの場所」に行きたかったのでしょう――ね、ユンファさん……?
……俺はあえて「(“あの場所”に共に行くのは)やっぱりやめましょう」と唐突に引くことで、ユンファさんには、その「ご自分の本心」に気が付いてほしかったのである。
本当は誰よりも自分が「あの場所」に行きたいのだと、本当は誰よりも自分が「見たい」のだと――だから今自分は、躊躇はしながらも「YES」と頷いたのだと――ユンファさんはやっと今ご自分の、その強い「切望」に気が付いた。
ユンファさんのその「真実」とは実に、彼の胸中に立ち込めていた靄 に覆われ、紛れ、惑わされ、その靄に目隠しをされていた彼の目には、これまではよく見えていなかった「真実」なのである。
もちろんユンファさんは薄らぼんやりと、何よりも自分が「あの場所」に行きたいのだということを俺が見抜いており、だからこそ俺が、彼のことを気遣ってあのようなセリフを言ったのだと、そのことには気が付いていた。
しかしユンファさんが「YES」と頷いた理由、動機、それは――俺であった。
それこそ先ほどまでのユンファさんは、優しい俺の気遣いを理由にして、「あの場所」に行こうとしていたのである。だが、彼の心の奥底にあった「本心」とは、決してそればかりではなかった。
例え今の自分がどれほど罪深かろうと、例え自分が「あの場所」の前に立つことを許されていなかったとしても、誰よりも自分が「あの場所」に行きたいから、誰よりも自分が見 た い から、彼は「あの場所」に行くことを決めた――だから「YES」と頷いたとき、ユンファさんは痛いほどの罪悪感と、「本当にいいのだろうか」という葛藤に苛まれていた。そして、それらを畏れていたユンファさんは首を縦に振りながらも、怯えのあまり「わかりました」という声さえ少しも出なかった――。
つまり「俺の優しさ」など、ただのきっかけに過ぎなかったのである。――だがこれまでのユンファさんは表面的に、あたかも「俺の優しさ」ばかりが理由であると、そのように頭の中で処理をしてしまっていた。…事実今のユンファさんにとっては、あの程度の小さな優しささえもがあまりにも、涙が出るほどあたたかい灯火であったためである。
要するに、それはそれでユンファさんの嘘 で は な か っ た のだ。そして、だからこそ彼は『あまりのめり込まないようにしないと』と、「自分の目」を戒めてしまったのである。無下にしたくはない優しい俺に付き合う程度にしよう、と。
――だが、そ れ だ け の 動 機 ではいけない。
まあ今のユンファさんにとって、その「自分の本当の気持ち」という「真実」は、ともすれば、何よりも残酷なものであったのかもしれない。
俺もそのことはよくわかっている。「真実」は強大な力を持っている、その性質が故に「真実」とは、時に「嘘」より残酷なものにもなり得るのだ――たとえば法廷であっても、なんの役にも立たない「嘘」は被疑者を守りきれず、むしろその「嘘」が「嘘」だと露見すればいよいよ、よりその者の罪は重く課されることになる。法廷においてはこと「嘘」とは罪悪であり、「真実」こそが否応無しの正義なのである。
そして、残酷なほど突き付けられる「真実」ばかりが被疑者を酷薄にも裁き、「真実」をもとにその者の罪は厳しく定められ、そして「真実」こそが、被疑者が受けるべき罰をも冷酷に定める。
……その罰というのは――時に、「死」であることもあるだろう。
それでも俺は、ユンファさんに気が付いてほしかった。
俺という他人を理由にしてというだけ、それだけでは駄目なんだ――貴方が心から「あの場所」に喜んでくださらなかったら、何の意味も無いのだから。
つまり俺はいわば、ユンファさんへその「真実」を突き付けるそのためだけに、今カ マ を か け た のである。――心の奥底では切望をするほどに見たい「あの場所」へ行けるものと思っていた彼に、「やっぱりやめましょう」と唐突なキャンセルを俺が叩き付けたことによって、ユンファさんは今「失望をした自分」に気が付いた。
更に、自分がなぜ今それによって「失望」をしたか――そのことにも今ユンファさんは、にわかに気が付いてくれたのである。
そうしてユンファさんは今、真正面から「自分の真実」――俺など関係無しにも、本当は誰よりも自分が「あの場所」に行きたいのだ、という本心――にしかと目を開き、それを直視している。……俺の目を見ている格好ではあるが、実際は「自分の真実」を直視している彼の群青色の瞳は、くらくらとその「真実」にショックを受けて揺れている。
「……、…、…」
「…貴方は…どうしたいのですか…? 俺は勿論貴方に従います…、貴方ご自身の、その意思にね……」
急かさないようにと俺は、ゆっくりと優しくそう問い掛けてみた。……しかしユンファさんはにわかに、「いえ…」と諦観に濃い紺となった瞳を伏せて、震えている口角を無理に少し上げる。
「…どうって……どうっ、て、…あの、あの別に、――貴方がそう仰られるなら、僕はそれで……」
「……、…」
ユンファさんはまた目を背けてしまった。
――『だから、何だよ……本当は僕が行きたかったから、何だ……むしろ、だったら尚のこと駄目だ、なら尚のこと許されるはずがない…』
「貴 方 は こ の 場 所 に お い て な ら 尚 、そ の 目 を 背 け て は な ら な い 。」
俺は目を伏せ、ユンファさんをこう低く咎めた。
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