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その後俺はユンファさんの拘束の一切を解いてあげた。――もちろん、彼の華を包み込んで固く守っている包装紙以外は。
『あぁ、ベッドシーツ替 えなきゃ…面倒だな…』
とユンファさんはベッドに背をあずけたまま呟いた。
彼はふっくらとした白い枕に後ろ頭をしずめ、やや横へ顔を向けながら、ぼんやりと目を伏せている。
『それくらい俺が替えてあげるよ』
俺はユンファさんのわき腹のあたりにあぐらをかいて座っている。彼はその伏し目でも俺を見ない。
しかし、だからといってもやはりユンファさんは、俺から逃げようとはしなかった。
今のユンファさんにはそういった余力が残されていないだけなのか、あるいは理由が何であれ、そもそも彼は俺から逃げようなどとは考えていないのか。
とまれかくまれ――昨晩から自分を苦しめてきた拘束具のすべてを俺に解かれてもなお、ぐったりとしてゆるやかに膝を立てたまま、ユンファさんはベッドから起き上がろうともしない。
『……ねえソンジュ、とりあえず水…水飲ませて…』
彼の薄紫色の瞳がやや斜め下にいる俺をおぼろげに見上げ、彼は息もたえだえに喉のかわきを訴えてくる。
『…もちろんだよ…お水、飲ませてあげるね』
俺は彼のその要求を予測していた。
いや、あるいはユンファさんも俺に水を飲ませてもらえることをわかった上でそう言ったのかもしれない。ベッドの上に拘束されていた彼のもとへ歩み寄っていった俺の片手には、隠すことなくミネラルウォーターのペットボトルが持たれていた。
俺はベッドのうえ、ユンファさんのぐったりとして絶えず小さく震えているその背中をやさしく抱きおこし、俺の胸に彼の力ない上体をもたれさせる。
そしてサイドテーブルに置いていたペットボトルを取る。俺は端からこうするつもりだった。ゆるいキャップは親指の腹で回せばすぐに開いた。
――俺はそれからひと口ぶんの水を口にふくみ、彼にペットボトルを持たせて、その人の顎をつかんで上げ、その赤いふくよかな唇に唇を重ねあわせる。
『……ん…、……』
するとユンファさんはふるふると震えている肉厚の柔らかい唇を開く。ペコ、と彼の持つペットボトルが小さい音を立てる。やがて自分の口内に流れこんでくる水を、こくん、こくんと少しずつ嚥下 する彼は、おどろいたことに、俺に口移しで水を飲まされるに完全に委 せている。しかし口移しの予兆はあったろう。だというのに彼は事前にも、また今にも拒絶の意思を俺に示さなかった。
……俺が唇を離したなり、ユンファさんはそっと薄目を開けた。彼のとろんとした群青色の瞳が俺を見上げ、彼は掠れた声でこう言う。
『……もっと、飲みたい……』
『……、それは…今みたいに、俺の口移しでいいの…?』
俺はユンファさんを見下ろしながら目を見はった。いよいよ表情にでるまで驚いた俺のこれは、実に野暮 な質問であったろう。
しかし俺は、こうして俺に甘えてくれているようなユンファさんの、その要求の筋を読み間違えていやしないかと思わず慎重になってしまった。
彼はついぞ俺にこのように甘えることはしなかった。
俺が年下というのもあろうか、ユンファさんの自恃 、よっぽどのことでもない限り誰かに頼らない、甘えない確固たる自立心が故であろうか、とにかく彼は、夫である俺に対してもあまり甘えるや弱味を見せるやを普段しない人であった。
いつも間男との事のあと俺にさせるあのマッサージは甘えているのではない。あれは甘えているというより、それによって俺を誘惑していたのである。
ユンファさんは間男を含め、男を好 い気にさせる絶妙な塩梅の我儘や、その美貌をより甘美に見せて男を誘引する媚態は得意であった。しかし真の意味で、人間的な意味で、誰かに頼るということばかりは苦手な人であった。これで不器用なところのある人である。
俺は初めてユンファさんの弱いところを見たような、そして、いま弱っているからこそ俺に甘えてくれたような気がした。驚いた。それで俺はつい『口移しでいいの』と彼に確かめてしまったのである。
するとユンファさんは目を伏せて煩 らわしげな顔をした。
『……、別に…どっちでもいいよ…』
彼はそう言うなりベッドに片手を着き、俺に抱えられている自分の上体をゆっくりと気だるそうに起こした。――俺は遅れて確信した。
ユンファさんはあえて自分では起き上がらなかったのだ。あえて俺の口移しを受け入れていたのだ。彼自身の意思が俺から逃げない選択をしたのだ。
『…いや、やっぱり自分で飲むからいい…』
しかしユンファさんはそう言いながら、自分が手にもったままの水の入ったペットボトルを見下ろした。俺は彼のその返答に焦った。
『…ユンファさん…ねえ、たまには俺に甘えてもいいんだよ…。俺は確かに貴方より年下だけれど、だとしても俺は、間違いなく貴方の夫……』
『違う。僕は君に甘えたかったんじゃない』
断ずるような低い声でそう言ったユンファさんは、伏し目のまま不機嫌そうに眉間をこわばらせると、手に持っているペットボトルの口を自分の口元へ持ちあげてゆく。俺はその手をつかんで止め、彼の手からそのペットボトルを奪った。
『…駄目。今日は俺が飲ませてあげる。――』
――結局俺たちは、600ミリリットルのペットボトル一本をすべて唇と唇のやりとりだけで空にした。
あるいは先ほどの「約束」があるからだろうか。
一度は「自分で飲むからいい」と俺を突っぱねたユンファさんだったが、結局彼ははじめのそれ以降「もういい」とも言わず、また自分で飲もうという素振りも俺に見せなかった。
それどころかユンファさんは、俺が水を口に含む様子をじっと眺めているとき、すでにその赤い唇をうすく開けていた。物欲しそうな顔というにはその切れ長の両目は冷静すぎたが、少なくとも口移しの心づもりというべきか、次なる水を受け入れる準備をしていたのであろう。――そして俺が彼の唇に口付けようと顔を傾けるなり、彼は必ずそっと目をつむった。彼、いつも目をつむるタイミングが少しだけ早いのだ。それは俺とキスをするときの彼の癖だった。
ユンファさんは俺の口付けを黙って受け入れつづけた。――それこそ昨晩は訳もわからず俺に全身を拘束され、虐待とも暴行ともいえるようなプレイを不同意のまま強行された彼は、よほど普段なんでもないことで俺を責めたてるときより、今こそ俺に文句なり暴言なり憤りながら言うべきであった。
ところが喉をカラカラに乾かせているはずの彼は、俺のペースで、俺の口づけで、それも少量ずつ与えられる権限のない水に、その唇を開きつづけるだけだった。彼は俺にその唇の自由を委 ね、その体の自由を委ね、そして精神の自由を委ねている。
彼が俺に委ねているのはその肉体のみならず、その精神をさえ今は俺に掌握させている。やけに大人しく従順になったユンファさんに俺は思い上がり、誇張してそう思うようであった。
……なお、俺は水を飲ませるという目的から逸れる口づけはしなかった。つまりユンファさんの唇を食んだり、彼の口内に舌を入れたりするようなキスはしなかった。唇同士が触れるだけ、口内の水を彼の口内へ流し込むだけ、そのような「口移し」の目的から逸れることのない俺の律儀すぎるほどの真面目なキスは、ともすればユンファさんをしてもどかしくさせたのかもしれない。
『……ねえ、ソンジュ…』
とユンファさんはペットボトルが空になってから、ベッドの上に立てた膝を抱えてすわり、うつむいてそう切り出した。
『…何…?』
『……、…』
しかしユンファさんは伏し目がちにうつむいたまま、すこし口角をあげてふる、と首を横に振った。
『…いや、何でもない…』
『どうしたの。言葉を呑み込まないで、何でも…』
『シャワー浴びたい…』
『……、わかった』
恐らく今ユンファさんが言おうとしていたこととはそれではなかった。
しかし俺はこれ以上問いただすようなことはしない。ただちょっとした出来心に、ベッドから下りた俺は、ユンファさんを横抱きにして抱えあげた。簡単だった。彼は膝を立てて座っていたので、その膝の下には俺が手を差し込めるだけの十分な余白があったのである。
『…ぅわっ…』
当然おどろいた彼は丸くなった目で俺を見上げる。
『…はは、一緒にお風呂入ろうか』
『…………』
しかし俺がそう笑いかけても、ふと虚ろな表情となったユンファさんは目を伏せ、その無感動的な赤い唇を閉ざすだけであった。
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