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92 ※微
俺はユンファさんとのセックスでは必ずスキンを着用してきた。ともなれば当然、俺は彼の膣内に射精したことも一度もない。
しかし、それはユンファさんが思っているような理由があるからではない。俺は少しも彼の体を汚らしいとは思っていないし、ましてや夫が間男に寝取られて喜ぶような趣味もない。
しかし俺は、ユンファさんがしているその「勘違い」に気がついていなかった。
……それこそつい最近までそのことを知らずにいた俺は――あの日、ともすれば、彼のその「勘違い」を「確信」へと変えてしまったのかもしれないのである。
――ほとんど毎日のように間男とセックスをしているユンファさんが珍しいことに、関係がある男らのその誰とも臥所 を共にしない日があった。
……その日、夕方の十八時ごろ仕事を終えた俺がリビングに行くと、ユンファさんは一人でソファに座ってテレビを観ていた。夕方のニュース番組である。
この日の俺は機嫌が良かった。
この日はやけに仕事のほうも調子が良く、普段より捗 った。――嫉妬をしなかったからだ。
要するにこの日の俺の機嫌が良かったのは、ユンファさんが朝から誰とも寝なかったためである。
――実はこの日の朝、俺はユンファさんが間男と通話している姿を目撃していた。
言うまでもないことだが、その電話の用件とはおよそいつも通り「今日会おう(セックスしよう)」という誘いで間違いなかったろう。
彼が誘ったのか男のほうが誘ったのか、朝の時点での俺にそれは定かではなかったものの(しかしこの日彼は間男と寝なかったので、男のほうからの誘いであったのだろう)、男が我が家へ来てもよいかという旨 か、あるいは家の外で会おうという旨の電話に違いなかった。
それだからてっきり朝までの俺は、いつも通り我が家のインターフォンが鳴るか、あるいは彼が『出かけてくる』と男のもとへ出かけるものとばかり思っていたが、しかし、この日はそのいずれの展開にもならなかったのである。
……実をいえばこの時点で俺は少し訝 しくも思ってはいたが、少なくともこの日のユンファさんの体には誰も触れていない、誰も彼の美しい白いしなやかな裸体を目にしていないという事実は、俺の気持ちを面白くさせた。
俺はソファに座ってテレビを観ているらしいユンファさんの黒い後ろ頭を見つめながら、そろそろと忍び足で彼の背後に近づいた。彼をちょっと驚かせようという少年のような悪戯心 が、自然と俺を無邪気に微笑ませていた。
そうしてソファ越し、うしろから彼の両肩をポンと持ち、『ユンファさん』とにこやかに声をかけた俺に、彼は『わっ』と俺の期待通りに驚いてくれた。
そのすぐあとにユンファさんは『あ、…』と顔を真上、俺のほうへその顔を仰向 かせ、俺と目が合うなりはにかんだように笑った。
『…はは…お疲れ様、ソンジュ』
『……、…』
俺は目を瞠 り、とっさには何も言えなかった。
――それはなぜか?
……なぜかこの日のユンファさんは、いつもより綺麗に見えたからである。
その涼やかな美貌、気の強そうな切れ長の両目、たとえば高い鼻や、やや面長よりの輪郭、端整な黒眉と、線は細いながら剣のように硬質な繊細な鋭さのある顔立ちにもまして、いつもならば取り澄ました表情ばかりである彼が――今日は何かやけに花びらのように瑞々 しくて柔らかい、花が、月下美人の無垢な白い花びらが綻 んだような、そうした可憐で、あまりにも綺麗な微笑みをその美貌に浮かべているからだろうか?
簡単にいえば俺は驚いた反面、あらためてユンファさんのその美貌に見惚 れてしまったのである。
しかしそれだけではなかった。俺は彼のその美しさに見惚れながら、にわかに欲情していたのである。
……邪 な考えかもしれなかった。
ある意味ではなんの変哲もない愛おしさや嬉しさといったものがユンファさんを抱きたい、それもけっして優しくはない愛欲に変貌し、かえってこのときの俺は、彼の肉体をいつもより手荒に抱きしめて離したくないとさえ感じたので、何より俺自身が自分のその凄 まじい欲望に少し困惑した。
『…ソンジュ?』
『……あ、あぁ…、……』
これはもしかすると、俺が日ごろから抑圧しつづけきた嫉妬の裏に張り付いている蛹 のような欲望かもしれない。だが、知らぬ間俺の嫉妬を栄養にして育っていたらしいそれを羽化 させてはならない。
俺はまずいと思ったが、…それはあるいはこのときの彼の服装のせいかもしれなかった。
ユンファさんはこの日、黒いもこもことしたジップアップパーカ(ジッパーで前が開閉可能なパーカ)を着ていたのだが――そのジッパーがなんと胸板の中央ほどまでしか閉じられておらず、しかも一見にして、どうも彼はそのパーカの下には何も着ていないのではと思われたのである。
つまり彼の長めの気品ある首元から綺麗な鎖骨、胸板も上部はほとんど、その白いなめらかな肌が見えていたのである。――上から見ればなお危うかった。もう少しでその人の胸板についた薄桃色の乳首が見えそうだった。
……俺は妄想した。そのパーカの隙間に手を差し込み、ユンファさんの乳首を愛撫する妄想である。『ぁ…♡』と俺の脳内で彼は感じ、俺を見上げるその切れ長の目を陶然 と細めた。
ちなみに彼は、下にはそのパーカとセットアップだろう黒い長ズボンをはいていた。こちらももこもことしている。なおこのズボンはジャストサイズという感じで、彼の下半身のその豊かなお尻とつながる長細い脚の、そのしなやかな流線が官能的であった。
ましてユンファさんは青白いというほど肌が白いため、白の補色(反対色)である黒のそれら衣服は、彼のその白皙 をより艶 めかしく引き立てて見せていた。
またその黒は、ユンファさんの涼やかな鋭さのある美貌をより引き締めて、まるでぼんやりとしたタッチの油彩の絵に黒い輪郭線を与えたかのように、その美貌をより美しくより鮮烈に際立たせて見せていた。
簡単にいえば、ユンファさんのセクシーな着こなし方にもまして、その黒パーカとズボンのセットアップは色白の彼に実によく似合っていた。
……しかし俺は、だからこそ俄 に嫉妬もした。俺の前では色気のないジャージ姿だとか、Tシャツにハーフパンツだとか、そうした刺激のない服装ばかりである彼でも、間男たちの前でならばいつもこうしたセクシーな格好をしていることを思い出したのである。
『…今日、これから出掛けるの…?』
それで俺はつい、ユンファさんのこれは、まさか自分に焦点を絞られて放たれている色気ではないだろう、とそうユンファさんに聞いてしまった。
つい先ほどまで夏休みの子どものように浮かれていた俺は、すっかりと浮き世を知る大人に戻っていた。
『…はは、別に? 今日はもう出掛けないよ』
しかし、ユンファさんはにこっと愛らしい笑みを浮かべてそう言ったあとにすぐ、俺の「これから出かけるのか」という質問が、自分の今の服装に起因しているのだと察したのだろう。『あぁこれね』と彼は自分の胸元を見下ろし、何か機嫌よさげな明るい声でこう言う。
『…この前買ったんだよ、安くなってて』
『あぁ、そうだったんですね』
ところが俺は更なる嫉妬のあまり、ユンファさんに素直に『似合っているよ』とは言えなかった。
買った?
この間とはいつ? どこで? 誰と? 誰の金で?
俺の脳内では悪い空想が蜘蛛 の巣のようにすばやく張りめぐらされていた。
間男に呼び出されたユンファさんが、ホテルか男の家かでさんざん男に抱かれつくしたあと、その男とのデートの最中に寄った服屋で、このセットアップを男にねだる。――男はユンファさんにこの服を買い与えた。そして男は『今度泊まりのときにはそれ着てきてよ』などと彼に言い、彼は『そのために欲しかったんだよ』なんて妖艶に微笑む。
『うん、そうそう。』
とユンファさんは、黒いパーカの下腹部あたりについているポケットを指でつまんで引っぱり、そのあたりを見下ろしながら、
『ねえ――どう? 結構似合って…』
『いいんじゃないですか。』
俺は褒めてほしそうにしている彼に、つい冷たい言葉を上から浴びせてしまった。俺の嫉妬という蜘蛛の巣はベタベタとしつこい。なかなか振り払えない、振り払ったところでくっついて取れない。
するとユンファさんは『…そう…』と落ち込んだようなかすかな声で言うと、うんうんと顔を伏せたまま頷きながら腕を組み、強いて声を明るませる。
『そっか、…はは、いや、実はこれただのパジャマなんだけどな、――別に似合ってるとかそういうのどうでもいいんだよ、だって所詮寝るだけの服だし、安くなってたから買っただけ、…ほら、寝るときの服がヨレヨレになってきてたから、…』
『ふぅん…まあ確かに、泊まり込みのときにヨレヨレでは格好がつきませんものね…――じゃあ近いうちに数日開けるの…?』
『…いや…、今の、ところは、…そういう予定はないよ…』
『…そうなんだ。』
今に思えば――ユンファさんが強がってしまう、すなわち彼が夫の俺の前でさえ素直になれない要因の一つには、こうした俺の態度もあったのであろう。
俺はユンファさんの「俺への好意」と取れるような言動を、ほとんどの場合疑ってかかってしまった。
……たとえばこのように「どうせ他の男のためなんだろう」だとか、「だとしても俺に好かれようというんじゃないだろう」だとか、「他の男のついでに俺にしてくれている(見せてくれている)だけだろう」だとか、俺はユンファさんの俺への好意を真っ向から受け取らなかったのである。
それは俺の、ユンファさんという人に対するこうした思い込みのせいだった。
――彼はプライドが高くて我儘 で、狡猾 なほど賢くドライで自立していて、俺を含めた誰か他人に対してはどこかいつも見下しているような人だ。
それから何でも自分だけでやってのける強い人で、自分の利益のために甘えてくるような狡 い人で、自分の利益のためならば誰に甘い媚態 をさらすのもなんら厭 わないような人だが、別に彼自身は誰かを必要とはしていない。
彼が誰かに縋 るだとか何だとかなんてまずあり得ない、もはや誰かに頼る、甘えるというの自体彼にはその必要がない、彼は本当は一人でも生きてゆける人だが、彼の妖艶な美貌が多くの人を(特に男を)惹き付けるので、その生まれもった美貌が彼を一人にはさせない。
また恋だとか愛だとか、そういった情緒的な感情は、それをもたない彼にとっては少々「可愛すぎる」と侮蔑 されがちな、悪い意味でな よ や か なものだ。
だから俺の「愛しているから」という言葉は彼にとって綺麗事にしか聞こえない。また彼は俺に「可愛い」と言われることを嫌っている。例え言っている俺にはそのつもりがなくとも、彼にとってその「可愛い」というのは、俺に自分が下に見られているようだと感じる表現だからだ。
彼は肉体がどうしようもなく快感を求めるから俺や男らとセックスをしていて、もちろん肌を合わせるその行為に愛だとかそういった湿っぽいものは求めていやしないし、エキサイティングな喜びさえ得られればどのような形の行為でも良く、かえって相手に自分の肌の体温に惚れられてはむしろ面倒だと考えているような人だ。
彼は俺との交際はもとより、俺に利用価値があるから俺と結婚までしてくれた。
俺が名の売れた作家で金持ちのアルファであるから、俺が交際中から金に糸目をつけず自分に貢いでくれるから、自分のプライドを快く満たすように俺が都度「綺麗だ」なんだと自分を褒めてくれるから、俺が自分にぞっこんだから、俺は自分よりも下のポジションで自分を見上げ、自分に従順で尽くしてくれるから、ついでに俺の肉体も気に入っているから。
俺は恐らくユンファさんには愛されていない。
だが、それでも一目惚れをした美しい彼が俺と結婚までしてくれたのは、言うまでもなく奇跡というほど嬉しい、有り難いことである。大切にしなければならない。
俺ばかりが交際前から今に至るまでユンファさんのことを追いかけ続けていて、俺ばかりが彼を深く愛していて、一方の彼は俺に追いかけられる自分に満足していて、愛さない男に愛され続けている自分に快感を覚えていて、だから彼のほうからは決して俺にはすり寄らない、彼が俺に媚びるはずがない、彼が俺に好かれようという努力をするはずがない――そうする必要などない。自分がそうせずとも俺は絶対に離れない。我儘でもありのままの自分を俺は愛していると、彼は確固たる自信をもっているから――故に、ユンファさんにそうした「可愛いところ」なんてあるはずがない。
――結論、これは俺の酷い思い込みであった。
またこうした俺の思い込みには更に、日ごろから抑圧されている行き場のない俺の嫉妬までもがしばしば混ざった。
そして俺のそのドドメ色の色眼鏡で見たユンファさんの「俺への好意」は、決して俺の目に好ましいものとは映らなくなってしまっていた。
俺は本当ならば嬉しいはずの彼の好意的な言動に対し、ともすれば冷ややかな、「はいはい、またどうせ他の男のためでしょう」というような、拗 ねているような呆れているような、俺は嫉妬と虚しさからそういった穿 った見方をしてしまっていたのである。
『でも、珍しいね…?』
俺はとりあえずソファに座ろうとそれの周りを歩きながら、こうして『珍しいね』とまでつい言ってしまった。なかばは嫉妬から嫌味を言ったのだが、しかしもうなかばというのは、実際訝しく思ってのことであった。
……もちろん俺の言う「珍しい」というのは、「今日は珍しく誰ともセックスしていないんだね」という意味である。
しかしこのときのユンファさんは、そうは捉 えなかった。
『珍しいって? あぁ、この格好?』
彼は目を丸くしたが、歩いている俺へ顔を向けてにこっと笑う。彼は珍しく何か浮かれているようですらあったし、やはり彼自身にもその服装が「珍しい」という自覚はあるらしかった。しかし俺は『いや』と言った。
『今日は誰とも会わなかったんだね。朝から体調でも悪いの…大丈夫?』
俺はユンファさんの隣に腰かけながらそう尋ねた。ただし、次なる俺のこれは単なる心配だった。
というのも、俺はすべきではない嫉妬からユンファさんに冷たくしてしまった自責の念から、心を改めて彼への心配に切り替えたつもりであったのである。もちろん独善的な、偽善的な心配といってよいのだが。
『……、…』
ユンファさんは隣の俺を見ながら強ばった笑顔を凍りつかせた。彼は一瞬その笑顔を笑顔のまま曇らせ、刹那 だけ傷ついたような顔をしたが、すぐにうつむいて目を伏せ、『はは…』と無理な笑いをこぼす。
『うん…いや、別に体調が悪いわけではないんだが、ちょっと、…疲れたというか、いや昨日の人がすごい激しかったんだよ、だから腰が痛くて…。はは、だから今日は休肝日 、ならぬ…』
『はは、やめてくださいよもう。』
と俺は笑った。
しかし内心は焦っていた。
――ユンファさんが珍しく、一瞬であろうとも傷ついたような顔をしたからである。
まあ客観的な目で俺たち夫々 を見れば、人はおよそ「彼に傷つく権利はない」というかもしれない。俺がユンファさんを傷つけたようで、実際彼は好きで他の男と毎日寝ているばかりに、俺の「今日は珍しく誰とも寝ていないんだ」という言葉自体、彼の耳には痛かろうがそう言われても仕方ないではないかと、そう思われるだろうからである。
だがそれは、俺たち夫々の「外側」をしか見ていないからこその言葉といえるだろう。
――包装紙に包まれている二本の薔薇、外側からは見えないその薔薇の茎には、その実どちらにも棘 があるものである。
俺はソファから立ち上がった。
少なくともユンファさんを傷つけた自覚のあった俺は、罪滅ぼしのご機嫌取りではないが、久しぶりに夫々水入らずの時間を楽しもうという意欲が湧いてきたのだ。
そして俺はユンファさんがまだソファに座っているものと思ってそちらへ顔を下げたが、彼は俺に続いて立ち上がっていたらしく、
『…どうします? 夕食、折角 だから久しぶりに外で……』
俺のこの言葉の途中で、ユンファさんが俺に抱きついてきた。
『……? ユンファさん…?』
『……、…』
俺はもちろんユンファさんを抱きしめ返したが、彼はしばらく何も言わなかった。
やはり何かあったんじゃないだろうか…そういえば間男の誘いを断ってまで、それこそ誰とも予定がつかなかったのならまだしも、向こうからの誘いを断ってまで誰とも寝ていないというのは、やはり彼に何かあったんじゃないか。…と、俺はユンファさんの異変を感じ取り、彼のもこもことしたパーカの背を優しくゆっくりと上下に撫でさする。
……いまだヘタれた様子もなく、縺 れもないやわらかい手ざわりからして、これはどうも新品であるらしかった。
『…大丈夫ですか…? 何かあったんじゃ…』
『…………』
やはり彼は何も言わなかった。
『……もしかして、何かトラブルでもありました…? それこそ昨日激しくされたと言っていたけれど、よっぽど酷いことをされてしまったとか…』
『別に何も…そうじゃない…。本当に、疲れているだけだよ…』
俺は耳元で囁かれたユンファさんの、その悲しそうな声にドキッとした。何か漠然とそう感じられなくもないというようではあったのだが、その憂いた声にはなぜか色っぽいもの、儚げな色香、俺を誘っているような甘い芳香がほのかに漂っている気がしたのである。
『…何が、おかしい…?』
とユンファさんは俺の耳に唇を寄せて言う。ぞく…と俺のうなじあたりが心地よくざわめき、なめらかな平坦な俺の鼓動がそこの粟だった肌とともに嬉しがってざわざわと響 めく。
『…ぉ…夫に抱き着くことの…何がおかしいの、ソンジュ…? ふふ…』
『……ぁ、いや…確かに、…言わ、れてみればそうか…、何もおかしいことはないですよね……』
が――少なくとも今ここにいるのは普段通りのユンファさんではない、とこのときに悟った俺のこの予感は、確かに当たっていたのである。
……彼は俺の胸板にその胸板を押しつけながら、さらにこう俺の耳に囁いてくる。
『夕飯はもう出来てるから――すぐに、食べる…?』
『……、…』
俺の耳元でやけに色っぽくそう聞いてきたユンファさんが、何か俺には「いや」と俺が答えることを期待しているような感じがした。『すぐに食べる…?』という言葉の余韻に、どうも明言されない『それとも…』というもう一つの選択肢がふくまれているような――要するに、『その前に』と俺が彼を寝室へ連れ去ることを彼は期待しているような、俺は漠然とそんな気がしたのである。
『……あぁ…でも、まだちょっと早いかな…? どうしよう、かな……』
俺は決めあぐねて目を伏せた。
まあ十八時という時間帯は、世間一般でいえば夕食をとって何も早すぎるということはなかったが、しかし早くて十九時か、遅ければ二十一時ごろ夕食をとることの多い俺にとってはいささかまだ早いか――というのもあれ、何よりユンファさんが求めている俺の返答は、実直なダイニングテーブルでの『頂きます』ではないような、そんな気がしていたので、俺はああして曖昧にしか答えられなかったのである。
するりと少しだけはなれ、ユンファさんが俺に顔を見せた。俺が目をつと上げると、彼は俺の目をじっと切ない瞳で見つめてくる。
『…………』
『…………』
その薄紫色の瞳には火照 った妖しい艶があった。
ゆっくりとしたまばたきの度 、黒い瞳孔の奥のほうから魅惑的な匂いをはなつ蜜を小出しにしてその透きとおった瞳の表面にまとわせ、そうしてもっとその貴石のような美しい瞳を美しくみせて俺を誘っているような、俺の瞳をその欲情の蜜で絡めとって巻き込もうとしているような、俺の唇に飢えた凶暴性をもたせようとしているような、そういったある種危険性のある蠱惑 的な瞳だった。
ユンファさんの火照った薄紫色の瞳を見つめている俺の瞳は否応なしに呼応し、情欲の熱が絡みついてその蜜に潤んだ。――俺のまぶたもうっとりとゆるみ、彼の腰にかけた俺の手は、するりと彼のあばらのほうへ上がる。
『…ソンジュ…』
と俺の目を見つめながら俺の名を呼ぶユンファさんの声には、もう体温の高い儚い吐息が含まれている。
――するとやけに鮮明に、俺の耳の奥に、この目の奥に、俺の背に、俺の肌によみがえる――全身にまとわりつく湿気た熱気、俺の汗に濡れた熱い背にしがみついていたユンファさんの、艶 やかな『ソンジュ、…ソンジュ…』
寝室に灯されていた照明はベッドサイドランプだけだった。その左横からの橙色のうす明かりが差した彼の白い首筋はほのかな薄桃色にそまり、桃の果汁にたっぷりと濡れて照っている。
その首筋にむしゃぶりつく俺の後ろ髪を掻 き集めるような握りしめるような彼の指の動きは、ぐうっと力むこともあれば、途端にふわりと力が抜けて儚げに震えていることもあった。
彼は泣いているような上ずった声で『はぁ、…ソンジュ、ソンジュ…ねえ、なかに出して…』と言いながら、差し迫った俺の動きに腰の裏を浮かせ――その背から喉まで仰け反らせながら、俺の後ろ頭を、俺の背を強く抱き寄せた。
『僕のなかに…っ出して、ソンジュ……――っ!』
――俺は射精した。
スキンの中にである。
『――……、…』
俺はそこではたと空想から目が覚めた。
いや空想というよりか、これはついこの間の寝室での記憶であった。
しかし、俺がハッとしたときにはもう遅かったのだ。
俺がキスもせずただ目を見つめてくるだけ、それも途中から空想に浸っていたばかりに、およそ据わった目で彼の目を見つめていただろう俺に、ユンファさんはやがて寂しそうに笑いながら目を伏せた。
『……、…ソンジュ、お腹空 いただろ。…すぐ食べようか。僕もお腹空いたしね…――』
ユンファさんは言いざまキッチンへと歩いて行った。――
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