部屋に戻ったウツロは、悶々(もんもん)とする心を静めようと、いつものように書を取り出して思索(しさく)に耽(ふけ)ろうと思ったが、なんだか珍しく気分が乗らないので、音楽を聴こうと思った。 　パーカーのポケットから端末を取り出して、耳に無線イヤホンを装着し、アプリを起動する。 　選曲して再生をタップ、楽曲が流れ出す。 　グスタフ・マーラーの交響曲第６番、通称「悲劇的」―― 　その第４楽章だ。 　破滅に向かって突き進む人類のための行進曲、特にウツロはこの楽章が好きだ。 　真田虎太郎(さなだ　こたろう)にすすめられる形で、生まれてはじめて聴いた音楽がマーラーであったから、彼にとっては特別な作曲家になっている。 　英雄は打たれ、嘲笑(ちょうしょう)され、それでも果敢(かかん)に前へと進んでいく。 　英雄とはすなわち、作曲者マーラー自身のことなのであるが、ウツロはここに、自分自身の人生を投影していた。 　苦難の中に光明(こうみょう)を見出(みいだ)そうとするその人生を。 　止まっているよりは這(は)いつづけたい。 　彼は確かにそう、胸に誓(ちか)った。 　それでもときどき折れそうになる。 　父や兄を差し置いて、自分だけがのうのうと生きていていいのか？ 　生きていれば喜びもあるが、苦しみのほうがむしろ多い。 　喜びとは苦しみから見出すべきものではないのか？ 　俺にそれができるのか？ 　毒虫(どくむし)のウツロか。 　そうだ、俺は毒虫だ。 　だが、それの何が悪い？ 　俺は這ってやる、這いつづけてやる。 　這って、這って、這い続けて…… 　そしていつか、『人間』になるんだ…… 　そんなことをぐるぐると頭の中でめぐらせているうちに、三十分もある音楽は、あっという間(ま)に終わってしまった。 「……」 　ウツロは涙していた。 　自分のことをわかってくれる偉大な先達(せんだつ)の存在に。 　あなたこそ救済者だ。 　そんなことを考えながら、体を少し丸くして、静かに眠りについた。 （『第３２話　朝稽古(あさげいこ)』へ続く）