2 / 10

第二章 調合

大城硝子の敷地は、さほど広くない。元は別の用途に使われていたコンクリート造りの小規模な本館を改装し、そこへガラス工房として必要な作業場を増設した形である。 駐車場は通りから脇道を入った先にあり、従業員も使用する。来客はタクシーを乗り付けるか、レンタカーを停めてからぐるりと建物を回り込む形で、正面玄関に入る。 正面玄関のガラス戸と大きな窓に囲まれた受付が、商品としての作品の展示スペースも担う。 樽のような丸みを帯びたタルグラス、背の低いロックグラス、背が高く口の広がったビアグラス、大きな平たい皿、小さく深い器……様々な色の透き通ったガラス製品が、真っ白なテーブルクロスを掛けた長机に並べられている。いずれもこの大城硝子で製作された物で、底の裏にはそれを証明する四角形のシールが貼られていた。自立式の小さなプレートに書かれた値段は、機械化の波に負けず、ひとつひとつが職人のこだわった手作りであるからこその設定である。 他に、とんぼ玉を使ったアクセサリーも少しだけ取り扱っている。作業場の大きな窯ではなく、隅にあるガスバーナーでカレットを溶かして作ったガラス玉に、ヘアゴムやネックレスの鎖を通した物だ。時間帯によって外から射し込む陽光にきらきらと輝いて、来客も通行人も一度は足を止めてその様に見入った。 そんな受付と作業場以外に、来客の立ち入る場所はない。 受付の奥の廊下を左に曲がれば、すぐに従業員の休憩室を兼ねる事務所がある。その奥に完成した作品の保管部屋、反対側にはトイレやシャワールームといった水周り、そして突き当たりは裏口に繋がり、狭い敷地にごみ捨て場と倉庫、小さなプレハブ小屋があるばかりだ。 理久は設備や内装について、必要最低限の説明をするのみだった。 「ここが、お客さんの出来上がりを置いておく部屋です。僕らの……売り物と一緒ならないように」 部屋のアルミ戸の前に立ち、後ろをついて来る義史の顔を見上げる。細身から中肉中背といった印象だが、成長期真っ只中の理久に比べると、背は五センチばかり高かった。 「なるほど。他の人が気に入って買っちゃったら大変だもんね。めちゃくちゃセンスが良いお客さんがいたりしてさ」 義史は常に冗談交じりに話し続けており、それに対して理久は、 「はあ」 と曖昧に返す事しかできなかった。軽妙な話しぶりは、返答を求めているのか否かが曖昧であった。 「…………」 不意に沈黙すると、後ろに立ったまま、理久の次の動きを待つ義史が聞き返す。 「ん?」 この工房を訪れてから、彼が口を閉じたのは初めてと言っても過言ではなかった。口角の上がった口元には短く整えられた髭があり、顎の下では喉仏が一つ動く。 理久はそこから視線を逸らし、短く訊ねる。 「中、見ますか?」 「いいの? 是非」 その言葉を求めていたと言わんばかりに答えた声は、理久のものよりやや低かった。 工房の体験教室では最も一般的なグラスのほか、花瓶や器を受注する事もあった。歪みが出ないよう、摂氏六百度の徐冷窯の中で丸一日かけて熱を取られた作品は、水洗いされた後、この部屋に集められ、梱包や発送などの手続きを待つ。 狭い部屋には木製の棚が二台とテーブルが二脚置かれ、間隔をあけて作品が並んでいる。展示目的ではないため陳列の仕方は雑多だが、色とりどりのガラスは高い窓からの光を取り込み、溢れそうな輝きを放っていた。テーブルに落ちた影にすら、薄らと色がついている。 「うわあ、やっぱ良いなあ!」 義史のそれが素直さを絵に書いたような声色に変わる。さらに、よく色味を確認するよう眼鏡を押し上げ、作品に顔を近付けた。 「超きれいじゃん。でもプロが作ったんじゃないって分かる。じゃあ職人さんがどれだけすごいんだって話だ」 カメラをぶつけてしまわないようミンサー織りのベルトを押さえ、レンズにはキャップを被せたまま、誰に向けるともない感想と称賛を述べ続ける。 「…………」 一方、理久は黙ってアルミ戸に背中を預け、その様子を見ていた。 もはや見慣れた空間であった。置かれる品物が度々変わるだけで、執着を示せる物や理由はここに無い。片足の踵を上げ、後ろ手に指を組んだ。 琉球ガラスは、明治中期からおよそ百年の歴史を持つ伝統工芸品だ。 当時から、ガラスは人々にとって生活必需品にも関わらず、本州や九州より輸入するものであった。 脆い性質のガラスは、船の輸送で破損してしまう事も珍しくなかった。そこで、大阪や長崎から職人を招致し、那覇市の小さな工房でガラスを製造し始めたのが、琉球ガラスの始まりと言われる。 昭和中期、第二次世界大戦でガラス工房は壊滅的な被害を受けてしまう。沖縄はアメリカの統治下に置かれ、中部地区の読谷村を初めとした至る場所に、米軍の駐屯地が作られた。 終戦後、ガラス職人たちは、駐屯兵とその家族から、ガラス製作の依頼を受けるようになる。 物資が不足する中で復興を目指す彼らが見つけたのは、駐屯兵の基地から廃棄される空き瓶だった。回収したジュースやビールの空き瓶、破損したグラス、ガラスの器、窓ガラスを砕いて溶かし、材料として再利用する事を思い付いたのだ。 なけなしの廃材は茶、緑、薄い青などに色分けこそできたものの、ラベルなどの不純物が混じってしまい、完成したガラスの中に小さな気泡を作った。厚みも均等ではなく、本州であれば、製品ではないと却下されてしまうような仕上がりだった。 しかも不純物の多い素地は、冷めるのが早い。純正のものであれば冷めるまでに二分かかるのに対し、琉球ガラス職人に与えられる時間はわずか二十秒だ。 だが、そんな独自の環境と製法が生み出した色合いと気泡こそ、今となっては琉球ガラスの特徴となっている。素朴でありつつ美しい、個性的な商品として駐屯兵の帰国時の土産にもなり、やがて本州にも輸出され、人気を博した。 現代では重曹以外にも、カレー粉や黒糖を調合時に放り込む技術も開発されている。洗浄した瓶を砕いて作ったカレットにわざと不純物を混ぜ、オリジナルの風合いを出すようにまでなった。実際の色よりも白っぽく見えるのは、気泡が取り込んだ光を乱反射させるためだ。 透き通った青色と、その中に閉じ込められた気泡が沖縄の海を思わせ、まさしく伝統工芸の名に相応しいと言えるだろう。 「──そんで、一九九八年には、沖縄の伝統工芸品として登録されたと」 「……よく知ってますね」 理久は思わず押し出すように言った。義史の口から語られる琉球ガラスの歴史に舌を巻いたのだ。 「勉強したからさ。ちょっとだけ」 インターネットや書籍、知人からの聞き取りで知っただけだと言うが、理久の目には博識に映っていた。 工房に来て三年になるが、ガラス製作に打ち込んでいるつもりはなかった。今日のように客の案内をするために、必要最低限の知識を暗記しているに過ぎない。 理久は再来月で十八になる。一九九八年が自身の生まれ年である事にも、必然性や運命めいた縁は感じられなかった。 と、作品を見ていた義史が理久の方を向き、ひょいと片手を挙げる。 「はい、理久先生。質問があります」 真面目な表情と、〈先生〉とおどけて呼ぶ口調は何ともちぐはぐであったが、理久はその事について上手く反応できなかった。 「赤は、あんまり人気ないのかな? 今、たまたま少ないだけ?」 眼鏡を掛け直した義史と共に、棚に並ぶ作品へと視線を移す。青、緑、茶をはじめ、水色やオレンジなど、鮮やかに着色されたガラスは目移りするほど見栄えが良いが、こうして見ると確かに、赤色が使われた物は少ない。 「選ぶ人はいつも少ないですね。値段も、ちょっと高いし」 理久は包み隠さず答えた。体験教室では客の希望する作品のイメージを聞き、色と形を選ばせて作業をする。形状は元より色によっても値段に差があり、赤色のガラスは他と比べてやや高く設定されている。 「そうなんだ。材料の違い?」 義史はあくまで軽い調子だが、その着眼点は鋭かった。 「そーですね。内地の人が観光で行かれたら、ほとんど青とか水色、選ぶと思います」 そう伝えると、何とも残念そうな表情を横顔に浮かべる。 「おじさん、赤好きなんだよねえ……」 それは独り言のようにも聞こえた。 しかし気付いた理久が、あ、と彼の服を指差すと、義史は嬉しそうに歯を見せて笑い、裾を引っ張って見せる。 「そう! いっぱい持ってるけど、これ特にお気に入りなの」 そのかりゆしウェアは、人目を引くような派手な赤ではなく、上品な濃い赤色で、大きなヤシの葉柄が白く染め抜かれていた。涼しげだがしっかりとした生地で、色味、デザイン共に明るい彼の性格によく調和している。 途端に理久は、自分の格好が恥ずかしくなった。黒いTシャツは汚れこそ目立たないが、洗練されているとも言い難い気がしたのだ。ひとまず、捲り上げていた袖を下ろして伸ばし、首に掛けたままにしていたタオルを取って、尻ポケットに捩じ込んだ。 そうしながら、ガラスの色について話を戻す。 「色とか、材料の詳しい事は、シン爺に聞いてください。僕はあんまり……」 熱を加える事でガラスの素地となるバッチの調合には、専門的な知識と緻密な計算が求められる。使用した原料の割合が、耐熱性や耐衝撃性といったガラスの特性、そして工芸ガラスに重要な色をも左右するからだ。 大城硝子では、調合士の比屋根(ひやね)晋一(しんいち)に一任されている。工房主の靖とは工房を立ち上げる前からの旧知の仲で、唯一の六十代のベテランとして、シンさん、シン爺の呼び名で慕われる人物だ。 「シン爺?」 義史が繰り返した。 「さっきいた、白髪のお爺さん分かりますか?」 理久は作業場の方向を指して確認する。 「調合士っていうのがあって。ガラスの(もと)を作る時に材料ば入れるの、調整する人がいて、うちのはその人がやってます」 晋一が調合を行なうのは、倉庫の脇にある小さなプレハブ小屋だ。大城硝子では〈調合小屋〉と呼んでおり、グラム単位で計量した原料を混ぜ合わせ、撹拌するバッチ作りまでがそこで、彼の手で行われる。そのバッチを運び出して溶解窯に入れるのだ。 「調合士のシンさんね、分かった。ありがと」 義史は取り出したスマートフォンに何やら入力すると、素早く尻ポケットにしまって、また作品に目を落とした。 「勉強と修行の両立なんて大変でしょ」 唐突に、話題がこれまでの琉球ガラスから理久自身に変わる。理久は慌てて背筋を伸ばした。 「えっと……高校には行ってません。中学を卒業してすぐ、叔父さんがここに来るように言ってくれて」 「へえ、そうなんだ! すごいねえ!」 職人や芸の世界では、技術を身に付けるなら若いほど良い。様々な芸術の世界に触れる義史はそんなことを言った。 「うち、母子家庭で、あんまり余裕ないんです」 理久が事情を話すが、 「ふーん」 返ってきたのはあまり気のない返事だった。薄く色の付いた眼鏡を再び額に上げ、中腰になり、棚に並んだ作品を見ながらの態度に変わりはない。 それから義史は首をひねり、理久の方を向くと、 「この辺の暮らしは地元の人から見てどう? 楽しい?」 先程までとはまた違った、人懐っこい笑みを見せて訊ねた。 「普通です」 十七歳の理久にとっては、今ある生活と、これまで過ごしてきた時間がすべてだ。高校がどんな場所なのかも詳しくは知らず、まして他の地域に住んだ経験もない。 だが義史は、羨ましいなあ、と言って姿勢を上げ、棚に沿ってゆっくりと部屋の奥へ歩き出した。 「おじさんね、いずれ沖縄に住みたいと思ってるんだ」 沖縄に来るのは今回で七度目だと言う。将来的にはフリーランスライターとして独立し、沖縄に移住するのが目標らしい。 「何も無い所ですよね」 「そんな事ないよ。素敵な物で溢れてるじゃない。時間の流れもゆっくりだし、ウチナータイムっていうの?」 義史は眼鏡を掛け直すと、空気を感じるように腕を広げた。部屋の空調に流れるのは、南国の香りなどではなく、建材に用いられるセメントの乾いたにおいだ。 「ご飯も酒も美味いし、皆いい人だよね。のんびりしてて」 毎回仕事ついでに観光するのがお決まりのコースであり、土産を沢山買って帰るのだと語り続ける。 「神奈川の──横浜にも、沖縄地区って呼ばれる所があってね。家の軒先にシーサーがあったり、ハイビスカスが咲いてる。沖縄の名産品を扱う店も」 「はあ」 理久はただ相槌を打った。 「沖縄だけじゃなく、ブラジルとか、南米系の人も暮らしてて、なんかカオスな所だよ。ちょっとした旅行気分。どうしても食べたいものがある時に行っちゃう」 振り返った義史は歯を見せて笑う。 「でも、本場には敵わない」 眼鏡の奥に、楽しげに笑う目があった。奥二重の上瞼と、下瞼にある涙袋に挟まれた、はっきりと存在感のある目だった。 「住んでる人にはあんまり分からないかな? それはそれで、ちょっと惜しい」 「かも、知れません……」 否定はせず、やはり曖昧に返事をした。 すると義史は、ふと何かに気付いたように笑みを消した。冷たさはなく、ただ真剣な表情で理久を見つめる。 「理久くんて、あんまり沖縄の人っぽくないよね。いや、それが悪いとかじゃなくて」 「本当に? なんででしょうか」 理久が聞き返すと、義史は考えるように顎に手を遣った。歩み寄り、芸術的価値のある作品を見るようにまじまじと、顔を覗き込んでくる。 「んー、なんだろ。顔立ちもくっきりしてるし、日焼けしててかっこいいんだけど。イントネーションも、たまにそれっぽいんだけど」 いきなり距離を詰められ、理久は戸惑ってしまった。扉に背中を押し付けるように姿勢を伸ばし、顔を背ける。 「……何にも話せませんよ」 「何で? いいじゃない! おじさん、若い子の話いっぱい聞きたいんだ! ワンはイッペー聞きたいサー!」 義史は胸の前で両手を拳に握り、強請ってきた。 「そんな話し方……友達のおばーくらいです」 少し頬を緩めると、義史の顔にも笑みが戻った。 「やだよね。浮かれてる東京(もん)はさ」 白い歯を見せ、眉根を寄せて笑う顔を見た時、理久は胸の奥が絞られるのを覚えた。 狭い部屋の中で、初めて会った相手とたった二人で向き合っている。その事が、ひどく後ろめたい気がした。乾いた空気の中にあっても、背中に汗をかいているのが気になった。 「…………」 理久は何も答えず、すぐ足元に視線を逸らした。汚れた運動靴を履いた足と、島草履を履いた足が向き合っている。剥き出しになった足の指には、まばらに毛が生えていた。 「僕は……東京に行ってみたいです」 その姿勢のまま、理久はおもむろに言った。 「そうなの?」 突然の告白に、義史は少し驚き、そして興味深そうに聞き返してくる。 「それはまたどうして?」 「学校も、仕事も……何でもあるから。そんな東京の人が、暮らしを捨てて来る所じゃないですよ」 視線を感じ、顔を上げる事ができなくなってしまった理久は下を向いたまま続けた。 床に落ちた義史の影が動く。 「そうかなあ。俺は、ここには東京に無いものがあるって思うけど」 「……台風も来るし」 「それは厄介らしいね、聞いてるよ。でもそれも含めて、土地柄だ」 彼はあくまでも、沖縄への移住を前向きに検討しているようだった。
ロード中
ロード中

ともだちにシェアしよう!