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第五章 溶解

インタビューが終わったのを見計らったように雨は止み、義史は心配そうに帰っていった。 「ほんとに原チャでいいの? まためっちゃ降ってくるかも知れないよ」 タクシーに乗り込みながらも、晴れ男を自称する彼は曇った表情のまま、何度も理久に訊ねていた。 「平気です。あとは鍵閉めて帰るだけで」 「うーん……じゃあ、ごめんね。お先に」 また何か言いたげだった所を押し留めたのは、彼なりに理久を尊重しての判断だったのだろう。 義史の乗り込んだタクシーを見送り、工房の施錠をして、帰路に着く頃には、理久は自分の中にある感情に気付いていた。得体の知れぬ熱のような、それでいてはっきりとした存在感と、痛みに似た重さが胸につかえていた。 彼の眼を見、香りを嗅ぎ、声を聞く事が、自身の言動をおかしくさせると、自覚せざるを得なかったのである。 初めて会った時に、雷に打たれたような衝撃が走ったかと聞かれればそうではない。ただ、これまでに出会った事のない相手だと感じた。その意識が、明確な感情となって胸の内に鎮座するようになっていた。 中学を卒業する際、一学年下の女子生徒から想いを告げられるまで、そしてその交際を断って以降、自身には無縁として来たものだ。 今日の昼、工房の廊下に現れた義史を見た時、ぎゅっと胸が締め付けられる感覚を覚えた。喉が渇き、咄嗟に声が出せなかった。それは理久にとって初めてと言っていい、強い感情であった。 高校へ進学した当時の同級生らがどういった青春を過ごしているのかも、理久は詳しく知らない。何名かが中退したという話が、人の口を伝って漏れ聞こえてくる程度だ。 道路脇には、進学を勧められた高校の卒業生に向けて、同窓会を広報する横断幕が貼られている。いつも何気なく通っている道で、今朝もそこにあったはずだが、意識の外にあったようだ。 自然に、喜屋武(きゃん)直晴(なおはる)の顔が浮かぶ。小学一年生からの幼馴染で、進路を分かつまではまるで兄弟のように育ってきた。理久にとっては親友と呼んでもいい。 話せるとすれば、彼しかいない。そんな思いで、理久は明日を待つ事にした。 夕方五時を回って家に近付く頃、また雨が降り始めた。思い出したように襲う夕立だ。 大城硝子から、理久が母と暮らす家までは、時速六十キロメートルの二輪車で二十分の距離にある。県道三号線を挟むように広がった住宅地の一角だ。 先に行けば直晴の家があり、さらに海を目指すと、リゾートホテルや民宿が増え、観光客が遊泳を、地元住民がバーベキューをするようなビーチに出る。それは晋一の運転するトラックが走るコースでもあった。 割れたアスファルトの窪みに出来た水溜まりを跳ねさせ、濡れるのも気にせずハンドルを握っていた。どの道、帰ればすぐに風呂に入るのが習慣だ。夏の雨は(ぬる)く、じっとりと服を濡らし、靴下にまで染み込んだ。 ヘルメットの中にも汗をかき、濡れ鼠のようになって家に帰る。玄関の照明は消えていた。引き戸を開けて入り、三和土から上がる前に靴下を脱ぐ。 理久が誕生した時は、両親と父方の祖父母、五人で暮らしていた一軒家だが、現在は母と二人暮らしだ。しかし、玄関には男物の、理久の物より大きな靴があった。 すぐ左側には二階へ続く階段、右側に伸びる廊下には脱衣所を兼ねた洗面所がある。洗面所のガラス戸の中では白っぽい明かりが点いており、玄関の照明がなくとも足元が見えるほどだった。 「あいりーくー? 帰ったのー?」 磨りガラス越しに籠った声が聞こえ、樹里(じゅり)の肌色が見えた。 理久は慌てて背を向け、 「いっ、今……」 やや詰まりながら応じた。 働くようになってからと言うもの、理久は母・樹里との会話を避けるようになった。思春期特有の症状と言ってしまえばそれまでであり、理久自身、どうにも抑えられない苛立ちを、工房での作業に没頭する事で発散しようとしていた。 大城硝子で働くのは父・(おさむ)の弟にあたる靖からの提案であったが、最終的には理久自身で決めた事だ。理が病死して母子家庭になったのも、母が細腕一本で自分を養うようになったのも、子供の手を伸ばせる範囲の外側で起こった出来事であり、どうにも対処できるものではなかった。 だが当時はまだ、今のような距離を感じる事はなかったはずだ。 高校進学を望んだ樹里の反対を押し切って以来、少なくとも理久は、顔を合わせづらくなってしまったように思うのである。 「おれの、タオルだけよこして」 壁に張り付くようにして、洗面所の中を見ずに続ける。母親に対し、自分のことを〈僕〉と呼ぶのが気恥ずかしくなったのがいつだったかは、正確には憶えていない。 「ちょっと待ちなさい」 樹里が短く言い聞かせてくる。 すぐにガラス戸が少しだけ開き、だー、という声と共にバスタオルが差し出された。軍手以外の部分がよく日焼けした理久の腕とは違い、細く、しなやかな白い腕だった。 小さなスナックで働いていた樹里は、客として来た理と出会い、当時のママや常連客に半ば冷やかされながら結婚した。 大城家は、この糸満で代々漁猟を生業とする家系であった。生まれつき体の弱かった理が海人になると息巻き、丈夫な靖はガラス職人になる事を決め、早くから糸満を離れたと言う。 やがて理久が生まれ、大城家も安泰と思われた。 しかし、ママの引退に伴って樹里が店を譲り受けた頃、理の病気が発覚した。祖父母は他界した後だった。医療費のため漁船を手放したのは、理久が八歳の時の話だ。 くだんのスナック〈ちむむちむん〉だが、今や店舗の規模は半分ほどになっている。土地を切り売りし、看板とカラオケ機はそのままに、ごく小規模な居酒屋へと改装された。三十代でママとなり、また母となった樹里が店を一人で切り盛りするにあたって下した判断だ。女性として観光客の相手をするママではなく、酒と手料理を地元の常連客に振る舞う小料理屋の女将となったのである。 理久は工房での自分の姿を、樹里に見せた事が無い。朝から夕方まで工房で働く理久と、早くても昼を過ぎてから起き出し、深夜まで働く樹里とでは生活習慣の差もあり、同じ屋根の下に暮らしながら一度も顔を見ない日もあるほどだった。 受け取ったバスタオルで頭を拭きながら、玄関の方へと引き返し、階段へ向かう。今は片足すら抜けないのが分かっているが、幼ない当時は、蹴込板の無い段の隙間から落ちてしまうのではないかと恐れていたのを、理久はいつも思い出す。 湿り気の残る足で昇ろうとすると、上から物音がした。理久よりも大柄な、男の足音だ。 「えー、帰ってきたか。よっしーはどーだったねー?」 声を聞き、坊主頭が見える前に、それが靖だというのは分かっていた。三和土にあった靴を、理久はよく知っている。 〈よっしー〉が貝原義史を指していると気付くと同時に、どくんと心臓が跳ねた。つい先程まで一緒に、二人きりで居た事を意識するだけで、また胸が締め付けられる。 「……ちゃー写真撮ってた」 理久は階段に足を掛けたまま、バスタオルの前を合わせ、片手で掴んで答えた。薄暗い中で、表情をよく見えないようにしたのだ。 「何ね、話さんかった?」 思い出の中の父と似た声がする。 靖と理は紛れもなく兄弟だったが、大柄で無骨な印象の靖に対し、理は線が細く、眼鏡を掛けた優男で、背も高い方ではなかった。それでいて、二人の声だけはよく似ていた。 「話したよ。おじさんのこと聞かれたからさー」 「でーじ、変なこと言ってねーな?」 のしのしと降りてくる靖が、からかうように確認する。 理久は顔を伏せ、壁に体を寄せるようにして、進路を譲った。その間、こっそりと息を止めていた。靖の臭いが好きではなかった。 「……おれ、あんにーに苦手。かしましい」 入れ違いに階段を昇りながら伝えると、靖がいきなり語気を強めてきた。 「何言ってるば、ゆんたーなお客さんど!」 理久の父は、どちらかと言えば寡黙で、声を荒らげるような事はしない人物であった。 頑固な職人というより、頼りになる親方。義史が口にした印象は、工房主として振る舞う姿を見れば、あながち間違っていないだろう。だが、そればかりではないと理久は知っている。 「しにまさい」 言い捨て、逃げるように階段を昇った。ドンドンドンと音が響く。水滴が落ち、木製の段が濡れて滑りそうになるのも気にしなかった。 二階に上がってすぐの、樹里の部屋の前を通る拍子に、扉が開いているのに気付く。理が亡くなった十年前までは両親の寝室で、今は樹里ひとりの寝室となっている。理久が自分の部屋を持つようになってからは、立ち入る用事の無い空間だった。 階下では樹里と靖の話し声が聞こえていたが、やがて引き戸が開き、靖の帰っていく音が続いた。 母子家庭になって以来、理久にとって最も大きな変化は、このように叔父の靖が頻繁に訪ねてくるようになった事だ。 大城硝子より内陸のマンションに独り暮らしているという靖が、理亡き後、この家に頻繁に出入りするようになった。理久は違和感こそ覚えていたが、それを口にするのは許されない気もしていた。元はと言えば、靖の生家でもあるのだから。 大城硝子の従業員や近隣住民、店に来る客までもが家族同然に扱い、世話を焼き、理久が中学校を卒業するに至ったのだ。親戚同士が家を行き来するのを不自然に感じる理由も、それを打ち明ける相手も、見当たらなかった。 学年が上がるにつれ、母子家庭の生徒は増えた。しかし多くの場合、彼らの父親は家庭内暴力や不貞行為、逮捕といった要因で姿を消しており、理久とは明らかに事情が異なる。 樹里の寝室から漂う空気が、自分の手の届く範囲の外にあると気付いて以降、理久は誰にも言えない秘密を抱えているような心持ちで過ごしてきた。 『たまに、うちに来ます』 先程、そう答えた事を思い出す。たまに、というのは理久なりの方便である。その事実を他人に話してしまって良いものか、兄亡き後に、弟がその妻の元へ頻繁に通うのは自然な事であるのか、測りかねたからだ。 『俺の手握っていいよ』 またしても、義史の顔が浮かぶ。まるで興味のある作品にそうするように、話している相手をじっと見つめる、色付き眼鏡越しのあの眼だ。 〈ゆんたー〉の言葉通り、よく話す口元の短い髭や、理久のそれより目立つ喉仏、ヘアゴムを着けた腕や指の毛、半ズボンから出た脛、島草履を履いた足など、どの部分を切り取っても、彼が男性である事を否定する材料にはなり得ない。触れた服の下の筋肉の硬さ、一見すると細身の腕の力強さは、暗闇でも感じられた。 樹里と理、または靖、あるいは店や工房に来る客を見て育った理久に、この感覚はまだ受け入れ難い。これまで出会った誰とも違う相手に抱いてしまったこの感情もまた不自然で、敬遠されても仕方の無いものであると、何より理久自身が思っている。 ここに来て、理久は二つの感情を、胸の内に抱える形になってしまった。ガラスの素地のように光りはしない、水飴のように重くどろどろとした熱の塊が、胸を伝い落ち、暗い腹の底に溜まっていくようだった。 階段から最も遠い自室に入り、扉を閉めると、身に着けていたものをすべて脱ぎ捨ててベッドに身を投げた。雨は下着まで沁みていた。 十五になってからようやく生えて来た下腹の毛が、布団に擦れて絡む。 「…………」 理久はおもむろに枕から顔を上げ、学習机の方を見た。机の上に、学習に使った物はもう何も無い。この大きな机と、大きくなった体に合わなくなった椅子を処分してしまえば、部屋はもっと広く使えるだろう。だが、それがなかなか実行に移せずにいる。 父と祖父母の形見と呼べる品はいくつもあったが、理久にとっては、小学校入学と同時に与えられた学習机ですらその一つだ。 机には小さな写真立てが置かれ、その中では生まれたばかりの理久らしき赤ん坊を抱えた理が歯を見せて笑っている。その隣では、ショートヘアだった当時の樹里が、優しい笑みを浮かべている。 この写真は、わざわざ理久が選んで飾ったのではない。いつからかここに置いてあるのだ。 理久は突然、身の内に溜まった熱が噴き出してくるのを感じた。 「うーっ!」 唸りながら、写真に向かって枕を投げ付けた。枕は写真立てに当たり、反動であらぬ方へ飛んでから落ちた。弾かれた写真立ては、ぱたりと机の上に倒れた。 「見んなよや、勝手に死んだくせして……」 思春期を抜けられない心を蝕んでいたのは、上手く言葉にする事のできない怒りだった。
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