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第二話:承

「……金谷さん、なんか最近雰囲気変わった?」    ある日の放課後、泉は委員会の当番で、金谷と共に図書室にいた。   「うん。コンタクトにしてみたの。どうかな」 「金谷さんは金谷さんだけど……前と同じように見えるのか?」 「うん、ばっちり。むしろ前よりいい感じだよ」    金谷の変化は、眼鏡をコンタクトに変えただけではない。地味なおさげ髪から、快活そうなポニーテールに髪型を変え、泉は気付いていないが、唇には色付きのリップクリームを塗り、睫毛も上を向いている。   「泉くん、透くんから何も聞いてない?」 「何の話だ?」 「あっ、えっと……私から言っていいのかな。あのね、」    透が金谷と付き合い始めたらしい。泉にとっては寝耳に水だ。というのも、透とは普段から会話らしい会話が何もない。   「……でもあいつ、確か彼女がいなかったか?」 「その子とは、だいぶ前に別れたんだって。泉くん、ホントに何も聞いてないのね」    透は、泉を避けるようになってから、女遊びを覚えてしまった。告白されたらすぐ付き合い、飽きたら別れ、興味を持った相手にはどんどんアプローチして、飽きたら別れ、そんなことを繰り返すようになった。泉は詳しく知らないし、知りたくもないが、透はおそらく初体験も済ませている。中二の時に付き合っていた先輩のうちの誰かがお相手だろう。  高校に入学してからも、透はすぐに彼女を作った。泉や透と同じ中学に通っていて、三年の時には泉と同じクラスだった、あまり目立たないタイプの女子だ。同じ中学出身ならば、透の女癖の悪さは周知の事実だろうに、よくも付き合う気になれるものだと、泉は呆れたものである。  そして、今また、泉の知らないうちに、透は別の女に乗り換えて、よろしくやっているというわけだ。こちらもこちらで、よく飽きないものだ。透の女好きには舌を巻く。   「透くん、次の土曜日にバスケ部の助っ人で試合に出るんだって。私、お弁当作ってくって約束しちゃったの。料理なんかしたことないから、今特訓中なんだ。下手っぴでよかったら、泉くんの分も持っていこうか? そうそう、せっかくだから新しい服も買いたいなって思ってて。泉くん、透くんの好みとか分かる? やっぱりワンピースがいいのかな」    楽しそうに話す金谷とは対照的に、泉の心は沈んでいく。透がバスケ部の助っ人で試合に出るなんて、泉は今初めて知った。  いつもそうだ。泉は透の近況についていつも人伝に知らされる。透がいつどこで何の部活でどんな活躍をしたのか、泉は透の口から聞かされたことはない。透がスポーツで活躍する姿を、泉は学校でしか見ることができない。南校舎四階端の窓辺から、半分開いた体育館の扉の陰から、何も言わずに見ていることしかできないのだ。  もしも泉が女だったなら、こんなことにはなっていなかったのだろうか。兄弟だからいけないのだろうか。姉か妹だったなら、透は泉を誘ってくれただろうか。今度バスケの試合があるから弁当作って見に来いよ、と言ってくれたのだろうか。そうしたら、泉は普段よりもおめかしして、気合を入れて料理して、焦げたおかずをピンクの弁当箱に詰め込んだりしたのだろうか。   「やだ、外真っ暗じゃない? 一雨来そう」    透は傘を持っているだろうか。女癖だけでなく、透は生活全般がだらしない。朝傘を持って出かけても、帰りに晴れていれば置き忘れるし、天気予報で午後から雨だと言われても、折り畳み傘なんて絶対に持って歩かない。小学校の頃からしばしばそういった忘れ物があって、いつも泉が透をフォローしていた。   「金谷さん、これ」    泉はカバンから折り畳み傘を取り出した。   「あいつと帰るなら、渡しておいてくれ」 「傘なら私持ってるけど」 「あいつはたぶん忘れてるから」 「泉くんが濡れちゃうんじゃない?」 「いいんだ。二本あるから」 「自分で渡した方がいいんじゃ……?」 「……ごめん。おれ、今日はもう帰る」    これ以上、こんな気持ちで彼女のそばにはいられなかった。もしも自分が女だったなら、なんてくだらない妄想に取り憑かれ、分不相応な嫉妬と羨望に身を焦がすくらいなら、いっそのこと消えてしまいたい。そんなことを考える自分自身が、何よりも気持ち悪かった。  いつからこんなにも臆病になったのだろう。目に見えないものに怯え、尻尾を巻いて逃げ出して、それでも心に囚われたままで、これ以上どこへも進むことはできない。どこへ行っても行き止まりで、逃げられなくて、息もできない。  土砂降りの中、泉は傘も差さずに帰った。風呂も入らず、夕食も抜いて、朝まで眠った。    *   「37.5℃ね。大事取って、早退した方がいいわね」    土砂降りの中を傘も差さずに歩いたのが悪かった。翌日の体育の授業で、泉は倒れた。保健室に連れていかれ、体温を測った結果がこれだ。   「すぐ帰る? もう少し寝ていてもいいですよ」 「帰ります」 「荷物は、お友達に頼んで持ってきてもらっても」 「大丈夫です。自分で……」    泉が、寝かされていたベッドから起き上がろうとした時だ。ガタガタッ、と激しい音を立てて、保健室の扉が開いた。   「泉……!」    ひどく焦ったような声だ。透が駆け込んできた。   「こら、保健室では静かに」    保健医の声も耳に入らない様子で、透は泉の寝ていたベッドのカーテンを開けた。久方ぶりに、泉は透と目を合わせた。お互いに口を噤んでしまい、カーテンに区切られた白い空間には、しばしの沈黙が流れた。   「……体育の授業中に倒れたって、クラスの奴に聞いたから……」    沈黙を破ったのは透だった。   「保健室に運ばれたって聞いて、その……心配で」 「……」    泉はゆっくりと口を開いた。唇が渇いていて、うまく声が出なかった。   「大したことねぇよ。大袈裟だな」 「……」    強張っていた透の表情が和らぐ。   「よかった……」 「……」    透は安堵の息を漏らし、泉の手をそっと握った。その手を払い除けることもできたのに、泉は透から目を背けることしかできなかった。   「俺も一緒に帰るよ」    透が言った。   「荷物取ってくるから、泉はここで待ってて」 「一人で帰れる。お前はまだ授業があるだろ」 「いいのいいの。出席日数は足りてるし」 「サボりはよくねぇ……」 「サボりじゃねぇよ。倒れた兄貴を家に送っていくんだから、十分正当な理由でしょ」 「でも、おれなんかのためにお前が……」 「はいはい、そーいうのなしね。兄弟なんだから、お互い助け合うのは当然だろ? 大体、泉がこうなったのも、俺が原因なんじゃねぇの?」 「……」    昨日、泉が渡した折り畳み傘を、金谷は透に渡してくれただろうか。泉が体調を崩したのは、透のために一本しかない傘を置いてきたからだ。胸の奥に燻る行き場のない思いを洗い流したくて、冷たい雨に打たれるのも厭わず、ずぶ濡れになって帰ったからだ。透はどこまで知っているのだろう。  透も泉と共に早退することになった。駅までの道のりを、透は泉の歩幅に合わせて歩いた。気を遣われているようで、腹が立った。  平日昼間の電車は、どの車両も空いている。透は、泉をロングシートの一番端に座らせて、自分もその隣に腰を下ろした。やがてドアが閉まり、電車はゆっくりと動き出す。  ガタン、ゴトン、と線路の継ぎ目に躓きながら、巨体を揺らして列車が走る。まるで巨大な獣の胃袋に閉じ込められているようだった。不規則な揺れと、車両の軋みが耳につく。車輪が擦れて、レールが金切り声を上げる。ブレーキがかかると大きく体を揺さぶられ、内臓ごと引っ張られる感覚を覚えた。胃液がちゃぷちゃぷと波打っている。   「……大丈夫か? 顔色悪いぞ」    泉の隣にぴったりとくっついて座っていた透は、泉の顔を覗き込んで言った。泉は必死に目を瞑り、それを意識の外へと追いやっていたが、透に指摘されると尚更、そこに意識が集中してしまう。   「……吐きそう」 「マジか。ちょっと待って。もうちょいがんばって」    顔面蒼白の泉を前に、透は何を考えたのか、自身のカバンを引っくり返した。筆箱や弁当箱が床に転げ落ちる。乗客は疎らではあるがゼロではない。どこの誰とも知らない他人の視線が気になった。   「ほら、これなら安心だろ」    透は泉の前に空のカバンを広げた。泉は口を押さえて顔を背ける。   「バカ、なにを……」 「大丈夫だから。後で洗えばいいし」 「っ……」    意識が白く霞んでいく。遠くに響く透の声だけが力強かった。  どうして、いつもいつも、透は泉を助けてくれるのだろう。そこまでしてもらえるほどの価値が自分にあるとは思えなかった。  体育の授業中や運動会の練習中、泉が貧血で倒れたことは一度や二度ではない。保健室に運ばれて目を開けると、泣きそうに顔を歪めた透が視界に飛び込んでくる。これも、一度や二度ではない。  痴漢から守ってもらったこともある。厳密に言えば、あれが本当に痴漢だったのかどうか、泉には判断できない。混雑ゆえにたまたま手が当たっていたのか、カバンの角が当たっていたのか、何かが尻に触れていたのは事実だが、それを確認するよりも早く、透が狭い場所へと割り込んできて、痴漢と思しき人物を遠ざけたからだ。   「偶然。泉も同じ電車だったんだ。悪りぃな。あっちすげぇ混んでてさ」    その度に、透は白々しい演技をして、泉のそばを離れなかった。  泉が妙な輩に絡まれた時も、透は颯爽と現れた。拳を突き付けて真っ向から立ち向かうのではない、もっと賢いやり方で、さりげなく泉を助けてくれた。  一つ一つ数え出したらキリがない。どうしてここまでしてくれるのだろう。泉には透の気持ちが分からなかった。昔、出会ったばかりの頃は、言葉なんて交わさなくても、何だって分かり合えていたのに、今は、いくら言葉を尽くしても、何一つ分からない。  透は泉を嫌っているのではなかったか。だからずっと泉を避けているのではなかったか。家でも学校でも、泉を目の敵にしているのではなかったか。なのに、どうして、泉が一番苦しい時には、寄り添っていてくれるのだろう。   「……おとうさん……?」    大きな背中に父を感じて、泉は呟いた。透は苦笑いをする。   「親父じゃねぇよ。俺」 「……悪い……」 「いいってことよ」 「……もう、歩けるから」 「いいって。家までもうすぐだし」 「でも……重いだろ」 「ぜーんぜん。泉、チビだし。女の子より軽いわ」 「……ばかにすんな」    泉は透にしっかりとしがみついた。父と見紛うほどの、逞しい背中。昔は同じくらいの背丈だったはずなのに、中学に入った頃から透はぐんぐん背が伸びて、今ではもう埋められないほどに差が開いてしまった。  泉が透の母親代わりになると、あの日約束したはずなのに、いつの間にか立場が逆転してしまった。弟に負ぶわれて帰るなんて、恥ずかしいことのはずなのに、透のしっかりとした足取りも、温かい背中も、全てが泉を安心させた。もう少しだけ、透の背に揺られていたくて、泉はそっと目を瞑った。    *    ドアをノックする音で目が覚めた。見慣れた天井、温かいベッド、カーテンの向こうは夜が迫っている。家に帰り、少し眠るだけのつもりが、すっかり熟睡していたらしい。   「泉、起きてる?」    ドアを開けて、透は部屋の電気をつけた。お盆にコップとスポーツドリンクが載っている。   「どうだよ、具合は?」 「だいぶいい。薬が効いてる」 「そ。よかったな」    帰宅してすぐ、透が救急箱から解熱剤を見つけて飲ませてくれた。氷枕も作ってくれた。だからこそ、泉はぐっすり眠ることができたのだ。   「飯食えそう? ってお母さんが」 「ううん……」 「ゼリーだけでもいいから、なんか食べた方がいいって」 「うん……」 「お粥でも雑炊でも、一応何でも作れるっぽいけど、これが食いてぇってのはねぇの?」 「……うどん……」    透は一階へと戻っていき、少ししてから、熱々の鍋焼きうどんを持って戻ってきた。   「悪いな」 「まぁ。ていうか、俺はただ運んでるだけだし。作ったのはお母さんだから、味は安心していいぜ」    透はお盆を机に置くと、自身もそこへ腰を下ろした。お玉で鍋を掻き混ぜて、お椀へよそってくれる。ついでに箸も渡してくれる。   「熱いからな。冷まして食えよ。何なら、俺がふーふーしてやろうか」 「……あとは自分でできるから、お前もう出てけ」 「なんで。別に邪魔しねぇよ?」 「そうじゃなくて……風邪が移ったらどうすんだ」 「なんだ、そんなことかよ」 「そんなことって何だよ。大事なことだろ」 「バカは風邪引かねぇから、大丈夫なの。遠慮しないで、世話になっとけ」 「んなこと言われても……」 「俺がしたくてしてるだけなんだから、好きにやらせてくれりゃいいの」 「……」    嬉しいのか、悔しいのか、恥ずかしいのか、泉の胸の内は複雑だった。黙って俯いて、うどんをすする。よく煮えたうどんは柔らかくて、ちょっぴり甘くて、体がぽかぽかと温まった。   「二杯目いく? よそってやるよ」    泉は黙ってお椀を差し出す。弟に手取り足取り世話をされて、こういう時、どんな顔をしたらいいのか分からない。分からないのに、なぜか頬の筋肉は緩んでしまう。  ふと、視線を上げると目が合った。透が泉を見つめていた。物言わぬ純粋無垢な眼差しが、真っ直ぐに泉を捉えていた。その瞳に見つめられると、どうしようもなく胸が苦しく、張り裂けてしまいそうになる。泉は堪らなくなって目を伏せた。   「……あんまり、見るな」 「ごめん。やだった?」 「いや、じゃ……」    嫌なのか、嫌じゃないのか、それすらもよく分からない。ただ、そんな目で見ないでくれと思う。隠し通さねばならないものが暴かれてしまうような気がして、どうしようもなく胸が騒ぐ。   「悪い。やっぱ、俺がいちゃ落ち着けないよな」    透は席を立った。   「食い終わった頃に、食器取りに来るからさ。あと、お母さんが桃剥いてくれるって。それも後で持ってくる」    ドアを開けると、廊下に光が漏れた。   「じゃ。なんかあったらまた呼んで」 「っ……」    遠ざかる背中を追いかけることもできないで、泉は一人うなだれた。  泉には、透の気持ちが分からない。それだけでなく、自分自身のことさえも、何一つ分からなくなってしまった。
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