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46 己の牙を抜きたい

               俺は思わず、ユンファ殿をガバリと抱いた。  …ひく、と彼はやや驚いたようだが、――俺こそが泣くのを堪え、それでも俺は、その人の硬い背中を何度も撫でさする。   「……っ、…っ」    いや、そりゃあそうだ。  俺だって薄々、本当はわかっていたろう。  なぜわざわざユンファ殿が、ジャスル様のお部屋付きの浴室で、ご入浴なさったのか。  そう考えれば、いやに信憑性しかないほどだろう。    ジャスル様が怖い…――死にたい、だったのだ。  …俺と接吻ができぬなら死んでやる――そのような言葉の裏、それの奥底に隠れていたのはきっと――「いっそ死んでしまいたい」であったのだろう。    一夜の夢が見たい…――辛い現実を、今宵だけは忘れたい。     「……、…、…」    俺は、なんてことを、言ってしまったのだ。  わかっていたろう、わかっていただろうが、――いくらユンファ殿のためを思い、突き放そうと言った言葉であろうとも、――そりゃあ、…怖いだろう。  まさか嘘なわけもなく、甘えているわけでもない、…先ほどユンファ殿は――無理やりその身の純潔を、ジャスル様に奪われたのだから。    先だって乱暴に犯された人が、その悲しみにまぶたを閉ざすことさえ怖いと思うのは、どこまでも当然のことだろう。――目を瞑ればたちまち、そのまぶたの裏に、先ほどの辛い現実が浮かび上がってくるものだ。  しかしそうであっても、それほどの辱めに合っていたというのに、ユンファ殿は――俺に、ただ側にいてほしい、と。    話をしてくれなくとも構わない。  触れてくれずとも構わない。  ただ、側にいてほしい――。    どれほど悲しかったか、どれほど辛かったか、どれほど悔しかったかわからぬユンファ殿は――それでもたった、たったそれだけのことしか、俺に求めなかったのだ。  それこそ恥ずかしくてとても言えなかったのだろう、彼は何度も俺の「なぜ怖い?」に口ごもっていた。――ましてやユンファ殿は、俺に、その辱めのことを告発したってよかったのだ。    いくら英雄ジャスル・ヌン・モンスであっても、法を破ったということには違いない。そう思って然るべきであり、その人に酷いことをされたのだと、この縁談は破談だ、とまで、俺に、国に告発したってよかったはずだ。    それでいてユンファ殿は――ただ、側にいてほしいと。  甘ったれているどころかユンファ殿は、誰よりもこの婚姻に対して、固く覚悟をしているのだ。…だから、今ひと時の恐怖が紛れればそれで、それだけでいいと…――それだけ、たったそれだけのことを、切に願っていたのだろう。    それほどの辱めのあとに、俺のささやかな気遣い――たった一個の赤い林檎、それから愛想笑いの笑顔、…それだけのことでも、そりゃあその目が潤むわけだ。    それどころか彼は、せめて、初めての接吻だけは俺としたかった。――それができたら、もう思い残すことはないと。…自分の純潔を、汚辱の形で奪った男に、あの俺とのちょっとした接吻の一つで彼は、あのジャスルに、これで自分のすべてを捧げられる、というのだ。      ――何ということだ。      正式にメオトとなった後のことなら、まだ彼も覚悟して挑めたろうか――いや、しかしおそらくは、だからこそあの男は、遅かれ早かれだ、などと言って――嫌がっているユンファ殿を無理やり暴き、それこそ本当に、犯したのだ。…それも、人の目の前で、その者どもはただ見ているだけで助けもせず、止めもしない。    そんな絶望の中、無理やり犯されたあとでもなお――ユンファ殿は、あの林檎に微笑んでくれたのだ。     「……っ、…〜〜っ!」      俺は確実に、先ほど言ってはならぬことを、ユンファ殿へ言ってしまった、――。          

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