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74 幸福になる権利

                   寝台に腰掛け直したユンファ様の、その横顔は微笑みながらも寂しげであり、やや伏せ気味のその横顔は…無理だ、と。――諦観に、微睡んでいる。   「…此処から逃げたら、ソンジュとメオトになれる…? ソンジュと、幸せに暮らせるんだろうか…――いや、きっと死ぬまで、ソンジュだけのものになれるんだね……」   「…ええ…」    俺はまたその場にしゃがみ込み、片膝を立て――ユンファ様を、見上げた。…彼はふっと俺に振り返った。  ユンファ様は、その切れ長の目をたっぷりと潤ませて俺を見るなり、泣きそうな顔をして、俺に笑いかけた。   「そう…。そんな…凄く幸せだ、それは…、…僕、ソンジュだけのものになりたいな……」   「……いえ。ユンファ様は、もう俺だけの…」  俺が言い切る前に、ユンファ様はきゅっと顔を顰めてうなだれた。   「…なんと言えばよいかもわからないほど、…わからないほどだ、…っ」    ユンファ様は固く目を瞑った。…は、と涙の吐息を小さく吐き、彼は下腹部を片手で押さえる。   「…だけど僕、行けない、…っ」   「…………」   「逃げられるほど脚が強くないし、…走れない、とても僕の脚じゃ走れないから、…とても憧れるけど、ごめんね、本当に、…本当に嬉しかったんだけど、……」    ユンファ様は泣きながらそう言う。――俺もまた、昂ぶった感情に声を張り上げ。   「っならば俺が担ぎます、そして俺の馬に乗れば、…」   「っそれで逃げられたとしても、…」    しかし、ユンファ様も声を張り上げた。  それからはまた萎んだ彼の声は、小さく。   「父上が大切にしてきた五蝶の国が、…僕のせいで……」    目を瞑ったままのユンファ様はポタリと涙を、その高い鼻先から落とし――じわりと、白い浴衣に染みを作る。 「…罪もない子どもたちまで、僕のせいで辛い目に合うかもしれない…――僕みたいに、…多くの蝶が犯されてしまうかもしれないだろう、…っ今更だとはわかっているけど、やっぱり…そんなの、たとえ逃げ切れたとしても……」   「…………」    そして彼は、俺に再度「ごめんね、ソンジュ…」と謝ると、ふっと目を開けて俺に振り返り――泣きながら笑った顔を、ふるりと一度、横に振った。   「…誰かを不幸にした僕が、僕だけが幸せになるなんて…そんな権利、ないから…、許されないよ、そんなの……」   「…………」    俺は――浅はかであった。  しかし、このユンファ様は、無垢なあまりに愚か者だ。    誰かを不幸にした者が、幸せになる権利などない。  それはそれこそ、あの五蝶の奴らにこそ言ってやるべきセリフである。――このユンファ様お一人を犠牲にして国民全員が救われる、こんな歪な婚姻を身勝手に結ばせて、辛くもこのノージェスで死ねといっているあいつらにこそ、そう言ってやるべきだ。    しかし、そんな奴らが不幸になってしまえ、とも思えぬこの人の――なんと悲しきことか。   「…では、貴方様が犠牲になり、不幸になることで、幸せになろうとしている五蝶の民はよいのですか。」   「……、…、…」    ユンファ様はその瞳を揺らし、唇をそっと閉ざした。  俺は言っておくべきだ。――この浮世の誰よりも心根の美しい人に、まるで聖人のように清いユンファ様に。  いや、正直にいって、当てつけのような思いもどこかにはあるが。   「…その者たちにこそ、貴方様のそのお言葉を投げかけてやるべきかと。…ましてや…ユンファ様、明日の“婚礼の儀”ですが…――いつもそのようであります。…貴方様は明日、多くの男の目の前で、ジャスル様に何度も暴かれ、手ひどく犯されることでしょう。」   「………、…」    ユンファ様は顔と共に涙目を伏せ気味、黙っている。  俺は真剣な気持ちを、低い声で形にする。   「…陵辱というに相応しい格好であります。しかも、夫となったジャスル様以外にも秘所を晒され、その男どもに体中を舐められ、触れられ…あまたの男の精をその身に浴びせかけられるという、汚辱の憂き目が明日に迫っております。――お嫌でしょう、逃げるのならば……」   「どうして逃げられる?」   「………、…」    静かにそう答えたユンファ様は、涙目で俺に振り返り、ニコッと笑った。   「……どうして、誰かが不幸になるとわかっているのに、逃げられる…? 誰かが不幸になる選択は、間違った選択に違いない。――そんなの、本当は嫌だよ…、でも僕は、もういいんだ」   「…っ何が、よいというのだ…」      俺が絶望と怒りに低い声を出そうとも、ユンファ様はただ眉をひしゃげ、笑っていた。        

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