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162 胡蝶の夢に耽溺す

                 ユンファ様はまた泉に足を入れ、浅いその泉の中へと何歩か進み――顔を真上に上げて、月を見上げた。  その横顔は、まるで月の神のようにとても神々しく、とても美しい。――俺はざぶざぶと彼のもとへと歩いてゆき、気高き俺の胡蝶と向かい合っては、その人の手を取る。   「では、参りましょう。――二人どこまでも、幸せに暮らせるどこかへと……」   「…うん、ソンジュ……」    俺のことを見たユンファ様は、幸せそうに微笑む。  彼の肘にかかった白い布がふわふわと宙にはためいて、それはまるで、胡蝶の羽――泉に足を浸した俺たちの周り、静かなこの森の中でふよふよと、祝福しているかのごとき蛍が舞っている。   「…………」   「…………」    まだ夜は明けぬ。  しかし、あるいはもう気が付かれているやもしれぬ。  俺たちを追い掛ける追っ手はもう、今ごろ動き始めているか。…逃げ切れるか。――逃げ切った先で、俺たちは平穏に、幸せに暮らしてゆけるのか。    ユンファ様と、ユンファ様の腹に宿った子と、俺と。  ――慎ましくもなんとか、なんとかこれよりは、ただ幸せに暮らしてゆきたいものよ。      しかし…――この国は、広い。     「…ソンジュ…、生まれ変わっても、どうかまた僕のことを見つけておくれ……」    俺の瞳に映った不安が、その淡い紫色の瞳に移る。  …俺は誓うように、そのふっくらとした赤い唇に接吻をした。――そして胸の前でユンファ様の、そのひんやりと凍えた両手をあたためるよう包み込み、握る。   「もちろんでございます。――貴方様は、永久に俺のつがいなのだから……」   「…うん。…僕らはもう、魂でつがいあった…――永久に離れぬ、永恋のつがいだ。」   「…ええ、ユンファ…俺は何度でも、何度でも貴方を見つけ、どの世においても必ず――必ずや貴方様に、貴方様のその瞳に恋をすると、ここに誓いまする。」   「…はは…、ソンジュ……」    すると嬉しそうにほころんだその美貌、俺のまぶたを撫でる、そのひんやりとか弱そうな白い指先は――自分も必ず、俺のこの青い目にまた必ずや恋をすると、誓う胡蝶の羽。   「…愛している、ユンファ…、……」   「…うん、僕も……、……」    俺は穏やかに、眠るような心持ちでそっとまぶたを伏せ、下弦の月の下、ユンファの赤い唇にまた口付けた。        朝よ来るな。来るな。もう二度と来るな。      誓おう。      俺はどの世においても、必ずやまたこのユンファを見つけてみせると。      夢よ覚めるな。覚めるな。もう二度と覚めるな。      誓おう。      俺は、どの世においても――必ずやこのユンファに恋をし、永恋を証明して、遂げてみせると。      俺はユンファ様を抱き締め――固く目を瞑る。     「…必ずや、次の世でも、…どの世においても、俺たちはつがいとなって、何度でも結ばれましょう。」   「…もちろんだよ、ソンジュ……」    俺を抱き締め返すユンファの腕は、力強い。  …こんなに力強いというのに、あまりにも儚く、愛おしい――我が胡蝶よ。   「……必ずお迎えにあがります。必ずやまたお逢いしましょう、ユンファ。」   「…ああ。月が綺麗な秋の夜…また何度でもお逢いいたしましょう、ソンジュ…――ソンジュ…、…」        月の光に照らされて微笑む、美しき我が胡蝶よ。        もうゆくな。…もうはらりと、ゆくな。――もう、はらはらとゆくなよ。        貴方のことを、俺は何度だって救ってみせる。        美しい人よ――美しい我が胡蝶よ。  何故(なにゆえ)人は、美しさの虜となるのか。        誰よりも、何よりも清らかである胡蝶よ。  …もう飛べぬと嘆くな。――俺の肩に留まれ。      そのうちに、ほら、俺が貴方を――籠の外へと連れ出した。        今もなお穢れぬままに、自由に舞う我が胡蝶よ。        貴方の桃の香りに俺は、その羽の美しいはためきに(いざな)われるまま、俺は――貴方の夢に、耽溺す。        あの一夜の夢よ、もう一度――いいや。        何度でも、何度でも、何度でも。        何度でも俺に、胡蝶の夢を、見させておくれ――。        永恋(えいれん)のつがいは、魂でつがい合う。        お前の()を見られたら、僕はお前とわかるだろう。        我らは永久なる永恋(えいれん)のつがい、月が美しい秋の日に…胡蝶の夢で、お逢いしましょう――。           「…さあゆこうか、我が胡蝶よ…。我ら、永久なる胡蝶の夢で、…そして次の世でも必ず、我ら再び相見えましょう…――。」   「……ああ…、ソンジュ……」        二人でうっとり見上げた月は――胡蝶の夢をたっぷりと甘く滴らせ、まだ青く光っている。             胡蝶の夢に耽溺す  了        

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