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羽琉の家
短い秋が駆け足で去っていくと、一気に冬将軍が大手を振って歩く。そんな初冬の冷たい空気が張り詰める、深夜一時。真里也はパジャマの上に半纏 を羽織って玄関の鍵を開けた。
五分ほど前、今からそっちに行っていいかと羽琉から連絡があり、直ぐに来いと、理由も聞かず真里也は即答した。
冷え切った玄関で気が気じゃない気持ちを抱えたまま、羽琉が来るのを待っていた。
羽琉の家は、真里也の家から数えて三軒隣だから、ダッシュすれば二分もかけずに到着する。なのに、今日はもう、五分——いや、正確には六分と三十秒も経っているのにまだ姿を現さない。
心配になって三和土に降り立ち、引き戸に手をかけた瞬間、外からそっと開かれた。
「羽琉……」
「……悪い、こんな時間に」
パーカーを頭に被った薄着の格好で、羽琉がやっと来た。寒いから早く入れと、腕を持って引き入れようとした時、真里也はあっと声をあげてしまった。
羽琉の顔に殴られた後を見つけたからだ。 またか……と心の中で呟いた。
「——あいつ、めちゃくちゃ酔っ払ってっからさ。加減しないっつーか。まあ、いつものことだけど」
口の端は赤く腫れ、血も滲んでいるからどれだけの打撃を受けたのか想像できる。
高校生で、おまけに背も高いし、そこそこ腕力もあるけれど、羽琉は決して父親に逆らわない。
理由はわかっている。羽琉は自分が殴られている間は、母親が無事だった習慣が抜けてないのだ。
「取り敢えず手当しないとな。俺の部屋に行こう。こたつも温まってるから」
「わりぃ……」
しおらしい羽琉はらしくない。
早くいつもの羽琉に戻って欲しいから、真里也は絶対に暗い顔をしない。わざとらしくてもいいから、普段通りに振る舞うことを常に心掛けている。
羽琉の腕を掴んだまま、博を起さないよう静かに廊下を進んで真里也の部屋に入った。
パーカーのポケットに手を突っ込んで、立ち竦んだままの羽琉を無理やりこたつに座らせ、着ていた半纏を脱ぐと羽琉の肩にかけてやった。
「救急箱取ってくるから。ちゃんとこたつに入れよ」
そっとドアを閉めると、真里也は居間へ向かい、そのまま台所へ行って牛乳を入れた鍋を火にかけた。その間に戸棚から救急箱を取り出し、羽琉専用のマグカップを用意すると、鍋にココアの粉を入れて熱々をカップに注いだ。
両手でそれぞれを持ち、空いている指だけで器用にドアを開けると、背中を丸めてこたつ布団に顔を埋めている羽琉の後ろ姿があった。
「羽琉、お待たせ。ココア作ってきたけど飲む?」
顔半分、布団に埋めたままの羽琉が上目遣いで見てくる。
口元を隠しているのは、何も話したくないしるし。こんな時、真里也はただひたすら待つ。羽琉が話したくなるまで、真里也はいつも黙ったままだ。ただ、羽琉の側から離れることはしない。羽琉が聞いて欲しいって思うまで、寄り添うことに徹する。
自分ならそうして欲しいし、きっと羽琉も同じだと思ったから。
羽琉が怪我をして、真里也の家に駆け込むことはこれまでに何度もある。
彼を傷つけているのは、実の父親だ。
多分、いや、絶対に。
この町に来て羽琉と仲良くなってすぐ、真里也は羽琉の異変に気付いた。それは彼の体の至る所に、打撲したような痕があったことだ。
理由を聞いても転んだとか、階段から落ちたとかしか言わない。そんなに頻繁に怪我なんてするものかと、真里也が問い詰めても、羽琉は笑って誤魔化すだけだった。
小さな頃は理由を追求することもなく、意外とドジなんだなぁって笑っていたけれど、自分が母親に誘拐されて経験したことで、ようやく理解した。
羽琉は両親か、若しくは片方から暴力を受けているのだと。
中学生になる前、父と一緒にふかまち珈琲へ行った時、その予想が確信に変わった。
父達の会話から、羽琉が父親から酷い暴力を受けていると知ったからだ。
商店街の大人達はみんな、大なり小なり玉垣家の内情を知っている。
酒飲みで、酔うと暴力を振るう、典型的な酒乱の父親は有名だったから。
地元人だった羽琉の母親は、若かりし頃美人で有名だったらしい。そんな彼女をどこから流れ着いたのかわからない、羽琉の父親に惚れて結婚したらしい。
噂では暴力団から逃げて来たとか、ムショ帰りだとか。子どもの——羽琉の耳に入れたくないようなことばかりを、周りが勝手に囃し立てていた。
大人の暇つぶしのネタにされていても、羽琉は泣くどころか、至って普通でいつも笑っていた。真里也にとって羽琉はいつでも強くて、頼れる存在だったのだ。そんな羽琉が殴られて痛々しい姿を真里也に晒してくれるのが、本当に嬉しい。一人で部屋で耐えていることをせず、真里也を尋ねてくれることが安心できる。
誘拐されて家に戻ってきた真里也がトラウマを患わせていた時も、自分が酷い目に合っていることは何も言わず、真里也のことだけを考えて労ってくれた。
遠巻きにしか見てこない人間からの、飾りみたいな優しさじゃなく、もう十分だよと、言いたくなるくらい、真里也が余るほどの温もりをくれた。
自分も辛いのに、いつも笑顔で励まし、笑わせてくれた羽琉。だからここを、真里也の家を、自分の側を、避難場所にして欲しいと思い、今夜みたいに尋ねてくれることに安堵と喜びを感じるのだ。
「……あのさ、今日って——」
「もう、羽琉の布団は出してある。あとでシーツだけ取ってくるからな。ほら、手当するからこっち見て」
全部言わなくてもわかる。羽琉にとって一番近い人間は、自分だ。
暴力を振るう父親でもなく、羽琉を助けることもせず、ひとりで逃げ出した母親でもない。大切な幼馴染で親友は、自分が守る。
今夜もきっと、殴られた原因は酒のせいか、それともギャンブルか……。
身勝手な振る舞いで、羽琉を傷付けるのはやめてくれと叫びたくなる。
「痛 って」
「あ、ごめん。消毒薬が染みるよな。でもちょっとだけ我慢しろ、バイ菌でも入ったらイケメンがだいなしだからな」
真面目にそう思ったのに、真里也が笑わせようとしていると捉えたらしく、笑えねぇよと、苦笑された。
羽琉専用の布団に寝かせてやると、こたつに入っていた時と同じように、顔半分を布団に埋めている。電気を消すぞと、声をかけると、黙ったま頷いていた。
羽琉が怪我をしていてもそうじゃなくても、うちに泊まる時は別々じゃなく、真里也のベッドで一緒に寝た。怪我をした日は、手も繋いで眠った。
さすがに中学校になれば、手を繋ぐことはなくなったけれど、幼い頃はお互いがお互いの温もりを求めて寄り添って眠っていた。
高校生にもなれば、一緒の布団で眠るわけにはいかないしな……。
ただ、この年になっても変わらないことはある。羽琉がちゃんと眠っているのか。怖い夢でも見ていないかと、不安が拭えないことだ。
だから、ちゃんと羽琉が眠るまでいつも真里也はずっと起きていた。
あ、やっと眠ったか……。
畳の上に敷いた布団から寝息が聞こえてくると、真里也はこのタイミングでようやく目を閉じる。
たまに、羽琉より先に寝てしまうこともあるけれど、大抵は起きて羽琉の寝顔を見てからホッとして眠る。
朝も先に起きないと、羽琉は優しいから、真里也を起こさないようにそっと家に帰ってしまう。それは、真里也が一番して欲しくないことだ。
だって、起きたらいないなんて、寂しすぎるし。
傷だらけの羽琉に自分ができること、それは側で一緒に眠り、朝起きたら美味しい朝食を作ってあげることだ。
これっぽっちのことで、羽琉が自分にしてくれたことのお返しの足しにもならないけれど、羽琉のためならなんでもしてあげたい。
真里也はスマホのアラームをいつもより三十分早めて設定すると、朝食のメニューを考えながら眠りについた。
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