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思い出の味

 宝生大病院の屋上の扉を開けると、那生は紫煙を纏う背中をしばらく眺めていた。  高校のときから、あの、頼れる背中に触れたいと思っていた。  晃平たちも交えて時折り、戯れた延長で触ったことはあったけれど、邪な気持ちが曝け出しそうになるのを押さえながら、那生はゆっくりと愛しい背中に近付いて行った。 「講義、終わったんだ」  那生が声をかけると、携帯灰皿に吸いかけの煙草をねじ込む神宮と目が合う。  煙草は苦手だけれど、神宮は別だった。  些細な仕草さえ秀逸で、薄暮の空に映える輪郭が相変わらず美しい。  完璧な相好の親友に、那生は数秒だけ見惚れてしまった。 「ああ。那生は?」  白衣をはためかせながら歩み寄ると、那生は珈琲のカップを手持ち無沙汰になった神宮の手に渡した。 「外来なら終わったよ」と、付け加えて。  さんきゅ、と最高の笑顔をくれる。  不意打ちの笑顔は反則技に値する。再開してから、それを何度食らったことか。 「今か? もう四時だぞ。で、これから昼飯で、また菓子パンか……」  仕方なのないやつ——なんて声が聞こえてきそうな顔で言われた。  白衣のポケットからはみ出しているメロンパンを見て言ったのだろうけれど、これは思い出深い食べ物だ。  神宮はもう、覚えてないんだろうけれど。  高校の時、バスケ部の練習でへとへとになった帰り道、バイト三昧の神宮と偶然出会してもらったパン。その後も、買ったけど甘いから食わないとか、家にあったから食ってくれとか。何度かメロンパンをもらった、大切な思い出だった。   「美味いよ、安定の味」と、かじりかけの遅メシを、神宮に差し出してみる。 「甘いのは苦手だ。忘れたのか」  問われても、苦笑するしかなかった。  明るく、覚えてるぞ──なんて言えたら楽なのに。    ——忘れるわけない。甘いのが苦手なことも、猫舌なのも。環のことなら何でも覚えている……。  パンを頬張る那生の横に座った神宮が、渡した珈琲を口にしている。  あの唇が、ここに……。思い出して、那生は自分の唇にそっと触れた。  あの日、神宮が何を考えてあんなことをしてきたのかわからない。こうやって二人でいるのに、怖くてその理由を聞くことができない。   「珈琲、ちょうどいい温度だな」  ひと言呟いて、神宮がまたカップに唇を触れさせる。その口元は緩やかに微笑んでいるように見えた。 ——もう、こんなことだけで十分だな。  顔を空に向けて、ゴールのないグラデーションを見やった。  日の入りが演出する、青からオレンジ、そして夜を誘う薄紫が扇状に描かれて美しい。  広大な空を見ていると、自分の気持ちは本当にちっぽけだ。  あの日、神宮にされたことは、きっと色々あって彼も神経が昂っていたのだ。冷静に振る舞って見えても、恩師のことを気にしていたのだ——うん、そう思っている方がいい。  緩徐に移り変わる景色に肌寒さを感じながら、やりきれない気持ちを珈琲と一緒に飲み込んだ。 「そう言えば、あの刑事から連絡きたけど、那生んとこにもきたか?」 「ああ。着信あって折り返したよ、さっき」 「あの赤いワンピースの人の身元判ったみたいだな」  口元まで運んだパンを寸での所で止めると、口の中に残るかけらを無理やり飲み込んだ。水分のない異物が喉元を通り、珈琲でふやかすと那生は言葉を選んで吐き出した。  「聞いた……。その人も四聖病院の患者さんだったんだよな」 「ああ。それに栞里さんと同じくらいの妊娠周期だったんだってな」 「そう、みたい……だな」  屋上から遠くに見えるビル群に翳が広がっていくのを見ると、言いようのない悲しみが心に沁みてくる。  身勝手な犯人の手によって、まだこの世界を知らない小さな命まで奪うなんて、人間のすることじゃない。 「犯人も、亡くなった人も、俺達も、人間はみんな同じように、母親のお腹の中で育まれてこの世に生まれる。その瞬間は、きっと産んでくれる人も、生まれて来ようとしてる側も、苦しくて必死なんだ。それを覚えていれば、人の命を奪うことなんてできない……。俺はそう……思う」  言いながら、泣きそうになった。それが伝わったのか、神宮の手が那生の頭に触れた。  この優しさが、更にこの胸を苦しくさせているのに、やめて欲しいとは言えない、そんな自分はなんて弱いんだろう。 「……友弥が調べたって言ってた二件の殺人は、四聖は関係ないよな」  髪の先に残っていた神宮の指先が離れると、真顔で聞かれた。 「南條さんに聞いたら、みんな住んでた場所も、通ってた病院も違うって」 「埼玉と千葉だっけ? 年齢もみんなバラバラだけど、妊娠周期だけが近い——ってこと……か」  神宮のそのひと言にゾッとした。  まるで、節足(せっそく)動物が背中を這ってるような感覚に襲われる。 「南條さんが猟奇殺人とか言ってたな」  珈琲のカップを両手で覆い、那生は無意識に足を踏ん張っていた。そうしておかないと、全身が震えてしまいそうだった。 「ああ。でもあの南條って刑事、あの時は俺らに喋りすぎたって、悲壮な顔をしてたのに、今はベラベラ喋ってくるんだな」 「ほんとだな」  自然と笑顔が溢れて、笑ったことを自覚した那生は奈良崎の顔を思いだし、すぐに緩めた筋肉を引き締めた。 「問題はもう一つあるんだよな」 「周君——」 「ああ。あいつに伊織とやらには彼女らしい人がいる——いや、いたってことをどこまで話すかだな」 「ショックだろうな……赤ちゃんまでいたってなると」  目の前に広がる景色が、次第に宵闇へと移り変わるのを眺めながら、二人は沈む夕日と同じように気持ちも沈鬱させていた。 『伊織』を探し、ようやく本人かもしれない人物を見つけた。  伊織を見て涙を溢し、再会を喜んでいた周。  だからこそ、伊織本人だと前提で全てを話すべきなんだろうなと、那生は自身に言い聞かせた。  なるべく周が傷つかないようにしてあげたい。黙ったまま横にいる神宮も、きっと同じことを考えていると思う。 「久しぶりに晃平のとこに飲みに行かないか」  沈黙に口火を切ったのは神宮だった。  風になびく髪をかき上げながら、淀む空気を払拭してくれる男に見惚れ、那生は返事を返すことを忘れてしまった。 「那生。どうーする? 行かないのか」    目の前で手のひらをチラつかせられ、惚けていた頭を軽く振った。 「あ、いや、何でもない。晃平の店だろ、行くよ」 「じゃ、お前のマンションの駐車場に車止めてから行くか」 「え、ウチ?」 「都合悪いことでもあるのか?」  涼しい笑顔で威圧され、有無も言わさない空気を作る。これも高校の頃と変わらない、那生が翻弄されてしまうほど、好きなところだった。 「いや、何でもない。いいよ、車は来客用に止められるから」 「じゃ、決まりだな。その日は泊まるから。仕事終わったら連絡くれよな」 「えっ! と、泊まるのか! うちに?」 「飲むから運転出来ないだろ」  泊まる? 家に! 冗談じゃない、また睡眠不足になってしまう。焦った那生は「じゃあ電車にすれば」と、抵抗してみた。 「それは面倒だ。別にいいだろ。はい、決まりな」 「ちょ、ちょっと。もう勝手な奴だなー」  精一杯の反抗をして見せるも、神宮には何の効果もない。それは充分過ぎるほど知っている。鼓動が堰を切ったように激しく震えだすのも自分だけ。  邪な感情を暴かれないように「わかった」と、那生が折れるしかなかった。  神宮からの誘いを、拒絶することはできないから……

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