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約束の花
今日こそ会えますように……。
周は祈るように、今日も四聖病院の夜間出入口を注視していた。
時間があれば四聖病院に足を運んでいた周は、これまでは怪しまれないよう患者のフリをし、ロビーや中庭を行ったり来たりを繰り返していた。けれど欠片も伊織の姿を見ることができず、ただ時間がすぎるだけだった。
今は作戦を変え、夜間出入口だけに的を搾り、こうやって一箇所だけを見つめている。
伊織に会ってもう一度話をしたい。その思いだけが支えで、周は今日もめげずに四聖病院を訪れていた。
一歩間違えればストーカーと見做され、またあの屈強なスーツの男達に捕まって警察に通報され兼ねない。
そんな危険を犯してでも、周は伊織に会いたかった。
夜間出入口は病院の正面入り口を起点に、建物を半周ほど歩いたところに設けられているため、両方を一度に監視することはできない。
初めは敷地内に入らず、入り口の前にあるロータリーの側に植栽されている木の陰から覗き見ていた。数日同じ場所にいてわかったことは、正面入り口は患者のためだけだと言うこと。
従業員らしい人達はみんな、夜間出入口から出入りしていた。
なら、きっと伊織もここから出入りするはず。そう思い、ここ最近はずっと中庭と職員専用駐車場の境目にある、物置スペースのような場所から様子を伺っている。
ここには花壇に使用していたと思われる、肥料や壊れた植木鉢などが無造作に置かれていた。
人は滅多にこない、見張るのに格好の場所だった。
もう何日も空振りで終わっていたけれど、いざ夜間出入口から出て来たとしても、スーツの男が一緒だと、声もかけることはできない。
──腹減ったな……。
昼飯を食べることを諦め、講義が終わると一目散で病院に張り付いた。おまけに今朝は寝坊して朝食も抜いたとなれば、食べ盛りの学生の胃袋はかなり脆弱している。でもここを離れると、その間に伊織を見失ってしまうかもしれない。その事の方が周にとっては辛い。
持参していたペットボトルのお茶で胃袋を騙しつつ、視線は外さないように、夜間出入口を直視していた。
木漏れ日が周の頬を刺激すると、遠い故郷の日差しと波の音を思い出す。
瞼を閉じれば蘇る光景は今もまだ鮮明で、でも同時に切ない感情も連れて来る。
ふと手のひらに視線を落とすと、はぐれないように周の手を握り返す、自分より少し小さい手の温もりが蘇ってきた。
声が掠れるくらい、何度も読んだ名前が木霊のように頭を掠める。
懐かしい思い出の中の伊織を思い浮かべ、周は遠い空を見上げた。
白くて小さな手に、芽吹き始めたばかりの苗を手渡した。
あの花を、伊織はまだ持っているだろうか……。
『これ……何の花?』
『この花は半分しか花びらが咲かないんだ……。一つの花が離れ離れになったんだ』
『離れ離れ……』
『うん……。むかし神さまに引き離された恋人の生まれ変わりなんだって』
『え! 引き離された……』
『でもな、二つの花を一緒にすると半分の花びらが一つの花になるんだ。だから伊織、これをオレだと思って持ってて』
受け取ろうとした白い手は、伸ばした指先を躊躇させた。
『……東京なんて行きたくない。周とずっとここにいたい』
日に焼けて赤く染まった白い頬に、雫が一筋流れて砂の中へ染み込んでいった。喉をつまらせながら、周は我慢していた言葉を口にした途端、雫は止めどなく溢れだす。
『離れても、また会えるよ。オレたちは二人で一つだから、この花みたいに』
目の前にいる、俯いたままの頬を撫でると、シャツの襟から覗く儚げな白い首に、群青色のしるしがチラリと見えた。
そっとそこへ触れると、肌はピクリと震え、怯えた目を潤ませていた。
『泣くなよ、伊織。絶対に会いに行くから待ってて』
『きっとだよ、ぼく待ってるから……この花と一緒に』
世界の隅っこで誓った、大切な約束を周は思い出していた。
同じ空でも故郷の空には敵わない。周は思いを馳せるように空の果てを見上げた。
真っ白なシャツから覗く細い首。白くて滑らかなうなじにあった痣まで鮮明に覚えている。
島で過ごす最後の日に見た伊織の涙。また会えると信じて、託した花を嬉しそうに受け取ってくれた笑顔。
周は全て覚えている。都会に行って伊織が忘れてしまっても、絶対に思い出させる自信はあった。
けれど現実は無情で、顔や名前どころか、存在すら忘れられていた。
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