33 / 52

「何してたんだっ。約束の時間が過ぎてるじゃないか!」  宵闇の四聖病院の駐車場で、伊織は瑞季の怒号を静かに受け止めていた。 「俺はお前みたいに暇じゃないんだ! 早く運転しろ」  後部座席に踏ん反り変えるように座り、伊織の背もたれを蹴ってくる。これまでに何度もされているから、シートの裏側は布が破れてボロボロだ。 「はい。ごめんなさい」  萎縮しながらエンジンをかけると、伊織は急いで車を走らせた。 「専属モデルでの初めてのステージなんだ。今日と本番前の二回しか練習がないんだぞ。お前も分かってんだろ」 「はい……」  ルームミラー越しに瑞季と目が合い、伊織は慌てて目を逸らす。 「その目が余計にイラつかせる。こっち見るな!」  罵倒と同時にまたシートを蹴られ、これ以上、瑞季を刺激しないよう、伊織は運転に集中した。 「おい、今度の『羊』は大丈夫なんだろうな」  瑞季お気に入りのペンデレツキの曲が車内に流れる中、低い声で問われた。 「あ、うん。だい……じょうぶ……です」 「この前は時間なくて、外人に手ぇ出したけどさ。あれ、親父に怒られただろ?」 「……でも兄さんの事は言ってないから」  前を向いたまま伊織が言うと、「さすが、俺の弟だ」と言って、頭を撫でられた。たまに見せる瑞季からの薄っぺらな優しさに、いつしか伊織は嫌悪感を抱くようになっていた。  今触れている手がいつ豹変するかわからない。瑞季の怒りが発露するタイミングを、今だに掴めていない伊織は、大人しく彼の言う通りにしていればいいと、ずっと自分に言い聞かせてきた  タイヤをゆっくり停止させると、伊織は目的地に到着した事を瑞季に告げた。 「じゃ、夜八時にここへ迎えに来い。『羊』もだぞ」 「うん、分かったよ。行ってらっしゃい、兄さん」  車を降りて建物の方へ向かう瑞季の後ろ姿が見えなくなると、伊織は全身の力を脱力させながら大きな溜息をついた。 「……行かなきゃ」  口にしたもののアクセルを踏もうとする足は鉛のように重く、それでもグッと足裏に力を入れようとした時、ふと周の事を思い出した。  あの後、周の言っていたナウパカの意味を調べてみると、彼の言った通りのことが書いてあった。けれど、その花がどうして自分の部屋にあるのかがわからない。気づいた時には側にあり、必然的に世話をするようになっただけで、伊織には身に覚えがなかった。  花の話をした時の微笑んだ周を思い出し、伊織の口元が自然と綻ぶ。  太陽の光が似合う、無邪気で明るい彼と一緒にいる自分を想像してみた。だがそれはすぐに愚かなことと気付き、伊織は現実と妄想の周をかき消した。  自分をここから救い出してくれる人なんていない。気づいた時には、『伊織』と言う人間で生きてきた。  今更、誰かを愛することも、愛されることもないのだから。 「今日はお越しいただいてありがとうございました」  よそ行きの声で、伊織は彼女に離席を促した。 「とんでもない! 大好きな瑞季を間近で見れて、しかもリハに招待してもらえるなんて最高に幸せです!」  挑発的な色をのせた唇で喜びを語る女性に、伊織は瑞季の楽屋へと案内を申し出た。 「瑞季がいつも応援してもらっているお礼を、直接伝えたいと言ってます」  伊織の言葉に浮かれる女性は、扉が開かれて推しの姿が現れる寸前まで、身なりを整え興奮を隠せずにいる。 「本当、抽選に当たってラッキーだわ。本番も特等席で見れるのよね」 「はい、是非当日もお楽しみ下さいね」  貼り付けた笑顔で伊織は返事をした。いつものお決まりのセリフを。 「あのね、今日のこと一緒に申し込んだ友達にも言ってないの。旦那にもよ」 「どうして内緒にしたんですか」  楽屋に到着し、扉の前で伊織は女性に尋ねてみた。 「だって私今、妊娠してんのよ。けどリハを見に行くって旦那に話したら、絶対に止められてたもの。だから内緒なの」  女性が高揚させた頬を拗ねたように膨らませると、「なせダメなの?」の声と同時に楽屋の扉が開き、瑞季が女性に質問を投げかけた。 「キャー! み、瑞季! びっくりした」 「今日は来てくれてありがとう。で、妊婦さんはどうしてダメなの?」  瑞季が楽屋に誘導しながら、女性に再度尋ねた。 「だ、だってね。安定期って言っても妊娠中にもし転んだりでもしたら、赤ちゃんダメになっちゃうかもだし。それにこの間から妊婦さんばかり殺されてるでしょう? あれを旦那が心配してんのよね。だから話してたら、絶対に止められてたと思うわ」 「ああ、あの連続殺人。怖いですよね、あれ、まだ犯人捕まってないんだ」  瑞季が女性に楽屋の中を案内しながら、極上の微笑みを纏わせていた。  終始興奮状態の女性と瑞季が談笑しているのを見て伊織は二人に近づき、「瑞季さん、そろそろ時間です」と、耳打ちした。 「ごめん、次の仕事に行かなくっちゃ。でも妊婦さんが心配だから車で送るよ。その伊織と一緒に外で待ってて」 「えー! マジで? いえ、本当ですか? やったー、もう私死んでもいい」 「フフ、死んでもいいなんて大袈裟だよ」  抱き付かんばかりに喜ぶ女性の耳に瑞季が囁くと、彼女の顔は蕩けそうになってる。  二人のやり取りを一瞥した伊織は、唇を左右にギュッと引き締めると、彼女を駐車場まで連れて行った。  駐車場につくまでの間も、熱を帯びた目で瑞季への熱い想いを綴っていた。そんな彼女が不意に伊織をジッと見つめてきた。 「伊織さんでしたっけ? 今日って他のスタッフさんもいないのに、私みたいなファンが来ててよかったんですか?」  瑞季と伊織の姿しかないことを不思議に思ったのか、彼女が問いかけてきた。  その質問にも、伊織は満面の笑みで用意していた言葉を口にした。 「今日はもう他のスタッフは帰ったんですよ。関係者が大勢いるとファンの人が気を遣うと思った瑞季の特別な配慮なんです」  伊織の『特別』と言う言葉が嬉しかったのか、女性が腹部に手を添えながら、「あなたのお名前も『瑞季』にしようかしら」と、少し膨らんだ腹を撫でている。  浮かれる彼女を見ていると、ポケットの中で呼び出し音が聞こえた。  スマホの画面を確認すると、伊織は手早く返信をする。 「お待たせしました」  駐車場で待つこと数分、建物からラフな服装の瑞季が現れ、小走りで近寄ると女性に声をかけた。 「わぁ。普段着の瑞季も素敵!」 「ありがとう。じゃ、行きましょうか。伊織、運転頼む」  瑞季の合図で伊織は後部座席のドアを開け、二人が乗ったことを確認するとエンジンをかけた。  後ろでは推しの彼との密着を堪能している女性が、甲高い声を車内に埋め尽くし、それに瑞季が笑顔で相槌を打っている。  伊織にとってはよく見る、光景だった。 「あら、駅は反対方向じゃなかったっけ? これからどこに行くの?」  交通量の少ない時間帯に伊織達の車だけが走っている場所は、とても殺風景な工場地帯だった。  道路の両脇からは住宅や商業施設が消えると、辺りは寝静まったコンクリートの塊だけになる。 「今から絶景の場所に連れて行ってあげるよ。そこで写真撮ってさ、SNSにあげようと思って」 「え! マジですか? 私もあげていい?」 「もちろん」  快諾する瑞季に興奮し、女性は到着を心待ちするように化粧直しをしている。 「着きました」  ファッションショーのリハーサルをした会場から、一時間ほど走らせた静かな場所に着くと伊織は車を停めた。 「ここ……は?」 「ここにね、写真を撮るのに最高の秘密の場所があるんだ」  車を降りた瑞季が、女性の手を取り外へエスコートする。 「誰もいないんですね、とても静かな場所。あ、でも最近工場夜景って流行ってますもんね。それですよね?」  興味津々で辺りを見渡す彼女の肩を抱き、瑞季が薄暗いビルの螺旋階段に登るよう誘った。「暗いから足もと気をつけてね」と甘い言葉も添えて。  優しく振る舞う仕草や声とは裏腹に、瑞季の表情は血に飢えた肉食獣のように眼を光らせている。彼女から見えないよう、豹変していく瑞季から視線を逸らした伊織は、車に戻って身体を震わせていた。  甘い言葉を囁く人間から獣へと変貌する瑞季に、誰も疑わず気付かない。  これまで幾度となく繰り返されてきた一連の流れに慣れることなどなく、時が過ぎるのを待つことしか出来ない。  逃げ出す事も出来ず、五分、十分が永遠にも思える。  声を張り上げて助けを乞いたくても、鉛を飲み込んだように、気道が狭窄していく苦しさで言葉が出てこない。  遠くから喉を絞るような悲鳴が微かに聞こえる。それなのに伊織は耳を塞ぐことしかできない。  助けて。助けたい。誰か、助けてあげて……。  心で叫ぶ声は闇に溶け込み、縋り付くあてもなく頭を抱えて怯えるだけ。  そびえ立つ幾つもの黒いビル群の中、絶望的な現実に繋がる道路の先には地獄しかない。  暗闇の中、体を小さく折って震えていると、明るく笑う周の顔が浮かんだ。なぜ今思い出したのか伊織にもわからない。  ただ、懐かしい香りのする周に、手を差し伸べて助けを求めたくなっていた。そんな自分に驚き、でもそれは叶わないことだと思い知らされた。  聞こえてくるのは、冥界の住人のような笑い声だけで、優しく名前を呼んでくれる彼はここにいない。  螺旋階段を降りてくる足音が聞こえると、体中に脈打つ音が反響し、皮膚のすぐ下に熱い血が勢いよく流れるのを実感する。  瑞季が怖い。瑞季を支配する人間達が憎い。それなのに、自分は何も……できない。 「伊織、終わったから。さっさと処理してきて」  車まで戻ってきた瑞季が後部座席に座ると、黒い皮の手袋を脱ぎ捨て酷薄な笑いを浮かべていた。その非情冷酷な顔がミラー越しに見え、心臓が引き裂かれそうに痛い。 「はぁー、疲れた。あの羊、煩くて汚くて最悪だった。香水臭せーし。ま、でも気取ったあいつらには分かんないよな、入れ物のクオリティなんてさ」  「に、兄さんお水……です」  震える手で差し出すと、ペットボトルを受け取りながら、瑞季がペンデレツキの曲をかけるように指示してくる。  恐怖を奏る曲を、まるで子守唄でも聴くように目を閉じている。安らかな顔で聞き入る瑞季の姿に、いつも以上に脅威を感じた。 「でも今回はある意味楽だったな。家族に黙ってきてくれるなんて、どうぞ私をお好きに、とでも言ってるようなもんだろ」  ケタケタ笑う瑞季の姿に固まっていると、 「おい、早く行ってこいよ! 帰れないだろっ。こっちは疲れてんだ!」  また背もたれを蹴り上げられ、伊織は恫喝を浴びる。 「今、行って来ます……」  震える手でトランクからクーラーボックスを取り出すと、瑞季が降りてきた螺旋階段を上った。  終わりのない闇夜を見上げながら、伊織は一段一段、階段を上って行った。

ともだちにシェアしよう!