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第6話

 聖斗との出会いは鮮烈だった。  大学の購買部で買い物をしていた時に話しかけられたのだが、初対面でいきなり告白されたのだ。 「俺は工学部一年の柚原聖斗。あんたに惚れた! 俺と付き合ってくれ!」  何を言われたのか一瞬、理解できなかった。  が、頭の中で反芻して飲み込むと、こんな周囲に人がいる状況で突然、何を言い出すのかと腹が立った。  案の定、周りから視線が集まっている。 「くだらない冗談はやめろ」  険しい顔で一刀のもとに切り伏せて、瑠生はその場を後にした。  一年生と言っていたから入学したばかりか。  だから自分のことをよく知らないのだろう。  瑠生が入学した直後は知らない女子学生から告白されることはよくあった。全員、瑠生の容姿に惹かれたらしい。  だが、瑠生が同級生とさえ会話をしない人嫌いだとわかると、徐々にそういう相手は減っていき、最終的には誰も瑠生に近づかなくなった。そういう意味では、瑠生はある種の有名人だった。  あの一年生もその話を誰かに聞けば勝手に諦めるだろうと瑠生は思っていた。  ところが、聖斗はその後も瑠生を追いかけてきた。どれだけ邪険に扱っても一向に諦める気配がない。  自分の近くに誰かがいると落ち着かない瑠生は、最初はそれをひどく鬱陶しく思っていた。  だが、人とは恐ろしく柔軟な生き物だ。何十回と顔を合わせるうちに聖斗の存在に慣れていき、やがてそれが普通のことになった。  聖斗が側にいることに何も感じなくなり、むしろ会いに来ないと何かあったのかと思うようになったのだ。  すっかり絆されてしまったな、と自覚した一年後、瑠生は聖斗に「まずはお試しで」という条件で交際を了承した。聖斗はガッツポーズまでして喜んでいた。  女性とも付き合った経験のない瑠生だ。  何故、聖斗と付き合おうと思ったのか、自分でも戸惑っていた。  ただ、聖斗はいつも瑠生の気持ちを一番に優先してくれたから、居心地の良さは感じていたと思う。  お試し交際が始まったあと、聖斗は時々、瑠生の部屋に遊びに来るようになった。  ごくプライベートな部分にまで入り込んできて落ち着かない気分だったが、不思議と嫌だとは思わなかった。  初めてキスした時のことはよく覚えている。  聖斗も瑠生もバイトがなかった日の夜、テレビで何年か前に話題になったアクション映画の放送があったのだ。  それを二人で見始めた。  アクション映画にもラブシーンは付きものだ。その映画にも、ヒーローとヒロインの濃厚なキスシーンがあった。  すると、ふと視線を感じた。  横を見ると、聖斗がじいっと瑠生を見つめていた。  瑠生の口から「お前もしたいのか?」という言葉がぽろりと零れ落ちた。  聖斗がひどく真剣な顔で「したい」と言ったので、瑠生は少しだけ考えて「いいぜ」と答えた。  目を閉じると、触れるだけのキスをされた。  ほんの少し乾いた唇の感触が残って、瑠生は途端に恥ずかしくて堪らなくなった。  すぐにテレビ画面に視線を戻したが、そのあとのストーリーは全く頭に入ってこなかった。  その夜、瑠生は考えた。  自分から『キスしたいのか?』と尋ねて、それに許可を出したのだ。自分の気持ちも聖斗に向かっていると認めざるを得なかった。  わかったら、瑠生はじたばたと身悶えするような羞恥心に襲われた。  誰かを好きになるとは、こんなにも恥ずかしいものなのか。これから聖斗にどう接すればいいのだろう。  瑠生は居たたまれない気持ちで一杯だったが、だから聖斗から離れようという考えは一片も湧いてこなかった。  聖斗の真っすぐで一途な想いは少しずつ瑠生の心に降り積もり、いつしか瑠生の中を温かく満たしていたのだ。  気づいたら、聖斗のことがどうしようもなく愛しく感じた。  生まれて初めての感情だった。  次の日、瑠生は自分から聖斗に会いに行った。そして、「お試しは今日で終わりだ」と告げた。  聖斗はそれを別れ話だと思ったらしい。  悲しげに歪んだ顔を見て、慌てた瑠生は聖斗の頬にキスをした。恥ずかしくて唇にはできなかった。  それから、「これからもよろしくな」と言うと、聖斗にきつく抱きしめられた。  そうして、二人は正式に交際することになったのだ。  愛の形は様々だ。  家族、友人、恋人。  家族には家族への、友人には友人への親愛や慈しみ、情がある。  徹也に対しても特別な思いがあったが、それは憧れによく似たもので、一緒にいる時はただただ楽しかった。  だが、瑠生が聖斗と付き合い始めて感じたのは、そのどれとも違っていた。  もっと温度が高くて、大きな波紋で心を揺らし、時にエゴイスティックで、盲目的ですらあった。  そこには綺麗なものと汚いものが混じり合っていて、瑠生は始めひどく狼狽したものだ。  恋をしたことのなかった瑠生は、恋愛とはもっと楽しいものだと思っていた。余所で目にする恋人たちがそう見えていたから。  けれど、聖斗への気持ちは時折、瑠生に鋭い痛みをもたらした。一言で表すならば、つまりは嫉妬だ。  聖斗が他の誰かといるだけでモヤモヤと嫌な気分になって、瑠生は自分がおかしくなったのかと思った。  だが、聖斗自身にそれを指摘され、瑠生は盛大に赤面すると同時に、自分にも人間らしい感情があったのだと驚いた。  人との関係を断絶していた瑠生は、ずっと自分には欠陥があると思っていた。人としての情緒に欠けたところがあると。  だから、自分は一生、誰も愛することができないのだろうと思っていた。  けれど、そうではないと聖斗と出会って気づくことができたのだ。  それは瑠生にこれまでにないほどの自己肯定感をもたらしてくれた。  そして、聖斗から惜しみなく捧げられた愛はそれを更に大きくしてくれた。  家族ではない相手からの愛は特別だ。  家族愛や友情と違い、恋愛感情は相手の心と体を求める。丸ごとの自分を求められる――それはとても特別なことで、時にその人の在り方さえも変えてしまう。  だから、いつの時代にも恋愛は普遍的なテーマとして扱われるのだろう。  家族を亡くし、敬愛する徹也を失ってから常に瑠生につきまとっていた孤独感と疎外感。自分は生きていていいのかという疑問や不安は聖斗といることで少しずつ薄らいでいった。  自分を愛せない者は他者を愛せないというのは一つの真理だろう。だが、その裏側で、他者を愛することで自分を愛することができるようになることも確かだ。  聖斗への恋で芽生えた瑠生の自尊心は、聖斗からの愛で大きく育まれていった。  仕事で壁にぶつかった時も、職場の人間関係で悩んだ時も、聖斗の支えで乗り越えてきた。  だからこそ、その愛を失った時の喪失は計り知れない。  光を断たれた瑠生の『自分を大切に思う心』はあっという間に(しお)れ、枯れてしまった。  瑠生の心は今また、生と死の狭間に立たされている。後ろから死神の足音がひたひたと近づいてくるのを感じていた。  失恋くらいで、と世の中の人は思うかもしれない。  けれど瑠生にとって、それほど聖斗の存在は大きかったのだ。  徹也のこともそうだ。  聖斗がいるという安心感が瑠生の心を安定させていたからこそ、思い出せるようになったのだろう。もしかしたら夢も見ていたかもしれない。  別れを告げられてから気づいても、もう手遅れだ。  辛くとも徹也のことを最初から話しておけばよかった。そうすれば無用な誤解を生むこともなかったはずだ。  瑠生の後悔は止まることなく溢れ出し、その精神を侵食していった。  今からでも、もう一度。  そう思っても、あの日の聖斗と美波の姿が瑠生の足を押し留めた。  今更、言い訳をしたところで聖斗は帰ってこない。自分はもう捨てられたのだ。  これから聖斗は普通に女性と恋愛して結婚し、子供を授かり家庭を築いていく。相手は美波ではないかもしれないが、それが正しい道だ。  瑠生は現実を受け止めようと思った。  結局、自分はどうやっても欠陥品で、聖斗と釣り合う人間ではなかったのだ。  瑠生の生活は再び荒んだ。  何日もろくに眠れず、食事もほとんど口にしなかった。  だが、毎日は容赦なくやってくる。  その日、瑠生は薬を飲んでも眠れず、眠りたいという欲求のままに、もう一日分の薬を飲んでしまった。  薬というものは睡眠薬に限らず、規定量を越えて摂取すれば副作用が起こる。  朝方、少しだけ眠ってから目を覚ました瑠生は頭がぼんやりとしていた。熟睡感はなく、強い眠気だけが残っていて、体に力が入らない。  だが、瑠生は仕事を休もうとは考えなかった。というより、考えられなかった。  いつも通りに顔を洗って着替え、ゼリー飲料を一つだけ飲んで、家を出た。  すれ違う人たちが瑠生を怪訝そうな目で見ていた。瑠生本人は気づいていなかったが、足がふらついていたのだ。  そして、交差点に差しかかったところで瑠生は信号を見落とした。信号だけでなく、前後左右にも意識が向かなかった。  ふらふらと横断歩道を渡り始めたら、後ろから女性の悲鳴が聞こえた。  次の瞬間、瑠生は強い衝撃で体を弾き飛ばされたのだった。
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