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第3話

『アイドルっぽいから』  そう言われて、ひどく落ち込んだ伊織だったが、一晩寝て起きたら既に気持ちは切り替わっていた。  生来、負けず嫌いの性格だ。  アイドルのように見えているなら、それを覆してしまえばいい。  〈解放〉を完璧に歌いこなして、ルオンの評価をひっくり返してやる。絶対にルオンを見返してやる。  伊織はそんな固い決意を胸に、自身のレコーディングに向かった。  昨日は別の仕事で現場にいなかった覚と慎也も今日は同行している。  実は少しでもルオンといい雰囲気になれたらと思っていた伊織は、敢えて二人に違う仕事を頼んで遠ざけていたのだ。  だが、こうなってみると昨日、二人がいなくて本当に良かったと思う。いたらルオンの言動に二人ともブチ切れていただろう。  それでなくても進行は遅れ気味で、揉めごとはできるだけ避けたいのが本音だ。  「おはようございまーす」と間延びした挨拶に同じ言葉を返し、伊織はラウンジのソファに座った。  今日は終日、このスタジオを貸し切っているので、どれだけ時間がかかってもいいという安心感がある。  プリプロで使った楽譜を見ながら、伊織はディレクターとパートごとにどんな風に歌うかを再確認した。  プリプロとはプリプロダクションの略で、本番前の準備のことを言う。仮録音をしてアレンジの確認や本番のシミュレーションを行うものだ。  軽い打ち合わせをしたあと、いよいよ歌録りに入る。  ところが、最初に何度か通しで歌うのだが、それが上手くいかなかったのだ。  何度も音を外したり、ピッチがずれたり、練習していた時のように歌うことができない。  これには当の伊織本人が一番ショックを受けてしまった。  一旦、休憩にしようということになり、録音ブースから出ると、周りから「リラックスしましょう」とか「肩の力を抜いて」などの言葉がかかる。  伊織もそれはわかっていた。  上手く歌おうと気合いを入れるあまり、かえって声の出が悪く、そのせいで力んでしまって音程やピッチを外してしまうのだ。  しかも、サビ前の部分はシャウト気味に歌わなければならない。これがまた難しい。  プリプロではできたことができず、頑張ってもそこで調子が狂って、立て直すことができなかった。  今まで自分の歌唱力に自信を持っていたが、実はそれが得意分野に限ってのことだったと思い知らされて伊織は打ちのめされた。  休憩を終えて、再度チャレンジしたが結果は同じ。プリプロではきちんと歌えていたのに、いざ本番となると、どうしても思った通りに歌えない。  ディレクターも他のスタッフたちもどうしていいかと困った様子で、伊織は居たたまれなくなって録音ブースを出た。  アーティストルームへ入ってドアを閉め、大きく溜息をつく。  ついてきた覚と慎也も何と声をかけていいかわからず、ドアの外で心配そうに待つだけだ。  昨日、ここでルオンと話したことを思い出して、伊織は人知れず自嘲の笑みを浮かべた。  ルオンの言う通り、自分はその辺のアイドルと何も変わらない。ファンが喜ぶように愛想笑いを振りまいて、有名になって、CDが売れているのだからそれでいいと満足していた。  けれど、歌手としてはデビューしてから何もレベルアップできず、何も成長していなかったのだ。これでは馬鹿にされて当然だ。  ルオンはそんな自分を見抜いていたのだろうと伊織は思った。  ──何が見返してやる、だ。  このままでは見返すどころか、曲の発売自体が危ういだろう。  今はレコーディングもデジタル化が進んで、音程もピッチも簡単に直すことはできる。  だが、散々手を加えて切り貼りしたものを売り物にするのは伊織のプライドが許さなかった。そうするくらいなら制作を中止して負債を抱える方がマシだとさえ思う。  伊織の口から再び大きな溜息が零れた。  貴弘にあんな大口を叩いて、結局、上手く歌えないから中止しました、なんて余りにも情けないし恥ずかしい。  何とか歌を形にして、レコーディングを成功させなければ。けれど今の自分にはそれができない。  どうしたらいい?  一体どうすれば歌える?  思い悩む伊織の脳裏に、不意にルオンの声が蘇った。 『今のアンタは窮屈そうだ』  窮屈そう──そう見えたから〈解放〉しろということだったのか?  その瞬間、伊織の瞳からその視界を曇らせていたものがぽろりと剥がれ落ちた。  上手く歌おうとするあまり小手先のテクニックに囚われて、もっと大切なことがあると忘れていた。  それは『伝える』ということだ。  初めて〈解放〉を聴いた時に感じた衝撃、自分らしく生きろというメッセージに沸き上がった感情、今の自分の全てを出し切って表現したいと思った情熱──そういう自分の中に生まれたもの全てが、自分が歌に込めるべきものだ。  それはテクニックだけに頼っていてはきっと伝えられない。  心の殻を打ち砕いて、本当の自分──飾らない、偽らない、繕わない、あるがままの自分をさらけ出さなければ。  ルオンが〈解放〉で言いたかったのは、そういうことだったのではないだろうか。  そう思ったら、伊織の中に言葉では言い表せない想いが夏雲のように湧き上がった。  熱く激しく、それでいて優しさを内包したような不思議な想いだ。  この想いを今すぐ伝えたい──。  伊織はすぐさま部屋を出た。  勢いよく録音ブースに入り、驚くスタッフたちに曲を流すよう促す。  超高速8ビートのイントロを聴きながら、伊織は頭の中を空っぽにした。  もう上手く歌おうとは思わない。  テクニックは二の次だ。  ただ、今この胸の中にあるものを伝えたい。  伊織は歌った。  想いを込めた歌は力強く、それでいて伸びやかに、深くまで伝わっていく。  歌い終わった伊織がコントロールルームの方を見ると、そこにいる全員が弾けるような笑顔だった。  伊織が録音ブースを出ると覚と慎也が勢いよく抱きついてくる。 「伊織、最高だったぞ!!」 「伊織さぁん、最高っしたよぉー!!」  感極まっている二人の向こうで、ディレクターが勢いよくグッドサインを出していた。  その後、レコーディングは順調に進んだ。  伊織は予定通り何度か通しで歌い、上手くいかなかったと感じた部分だけを短いフレーズで録り直していく。  だが、ディレクターも伊織自身も歌い直しで差し替える部分はほとんどないだろうと感じていた。それくらい、あのテイクが一番良かったからだ。  無事にレコーディングが終わったら、あとはエンジニアに任せるだけだ。  伊織は清々しい気分でレコーディングスタジオを後にした。  今後、伊織がすべきことの一つはミュージックビデオの制作だ。だが、それについてはもうアイディアは固まっている。  問題なのはプロモーション、つまりは宣伝活動の方だ。  伊織のシングル曲はこれまで、ほとんどがCMなどとのタイアップだった。  CD発売前にテレビなどで曲が流れるため、コストを抑えて効果的に宣伝できるのがタイアップの利点だ。  だが、今回はそういった前提のない楽曲コラボだ。いかにプロモーションを成功させるかが重要になってくる。  当然、伊織も色々なことを計画しているが、本音を言えばやはりタイアップが欲しい。それも伊織のファンとは違う層が耳にするような場所でのタイアップだ。  だが、伊織自身の伝手(つて)ではそれは難しいことだった。テレビ局や広告代理店には大勢の知り合いがいるが、〈解放〉のような曲がぴったりとハマるようなドラマやCMは滅多にない。  そして、ありきたりなプロモーションでは曲の良さが伝わりにくいかもしれないと伊織は危惧していた。  〈解放〉は超がつくほどの硬質なロックだ。そういう曲を好んで聴くリスナーには、歌っているのが自分というだけで敬遠されるのではないかという不安を感じるのだ。  ルオンがはっきり言っていたように、伊織にはアイドル的に見られている側面がある。世の中にはそういう(くく)りに入っているというだけで『気取っている』『チャラチャラしている』と毛嫌いする人たちが少なからずいるからだ。  しかも、アウトバーストはデビューしたばかりでまだ一般的な知名度は低い。矢神がコラボを持ちかけてきたのも、その知名度を一気に上げるためだろう。  この二つのハードルを越えて、より沢山の人に曲を聴いてもらうのは容易ではない。  先延ばしになっていた新シングルの制作に関する打ち合わせを行いながらも、伊織の頭の中には〈解放〉のプロモーションについての苦悩がずっと渦巻いていた。  そんな時だ。  伊織の元に思いも寄らない救いの神が現れたのだ。  打ち合わせをしている会議室のドアがノックされ、レコード会社の男性社員が顔を出す。 「お話し中、すみません。iOさんにお会いしたいという方がいらしてるんですが」 「今、打ち合わせ中だぞ」  プロデューサーが顔を顰める。 「そう申し上げたんですけど、どうしても今すぐと仰って……」  そこまで言うと社員は誰かに押されたようで、よろめきながら部屋に入ってくる。  その後ろから現れたのはダークブロンドに染めた髪を無造作に伸ばした、どこか胡散くさげな男だった。 「矢神さん!」  プロデューサーが驚きの声を上げる。  伊織はその声で初めて、目の前にいる人物が矢神なのだと知った。 「どうして⋯⋯」  呆然と呟くプロデューサーを無視して、矢神は伊織に歩み寄った。  伊織と、同席していた覚と慎也が慌てて立ち上がる。 「よお、iO。俺が矢神だ。初めましてだな、よろしく」 「初めまして。こちらこそよろしくお願いします」  差し出された手を握ると、ぎゅっと握り返された。 「この前はウチのルオンが世話になったな。アイツ生意気だろ? 嫌な思いをさせたんじゃないか?」 「いえ、そんなことは⋯⋯」 「そうか? 遠慮なくはっきり言ってくれていいんだぞ」 「いえ、本当に。耳に痛いことは言われましたけど」 「ははっ、言いたいこと言う奴だからな。悪かったな」 「とんでもないです。お陰で大事なことに気づかされました」 「そうか⋯⋯」  伊織の言葉に矢神はどこか嬉しそうに目を細めた。 「あの、それで今日はどういった用件で⋯?」  二人の間に割って入るようにプロデューサーがおずおずと尋ねてきた。  同じ音楽プロデューサーといっても、そこにはやはり格の違いがあるらしい。 「そうそう。今日は君にいい話を持ってきたんだ。ちょっと彼、借りるよ」  矢神は最後の一言をプロデューサーに向かって言うと、伊織を部屋から連れ出そうとした。  覚と慎也が後に続こうとすると、矢神が手でそれを制する。二人だけで話したいということだ。 「矢神さん! 困ります!」 「ほんの五分だから」  会議室から出ると「ホントに五分だけですよ!?」というプロデューサーの声が追いかけてくる。伊織は何が何だかわからず、目を白黒させるだけだ。  そのまま伊織は空いている会議室に連れていかれた。 「急に悪かったな」 「いえ⋯⋯」 「実は一週間くらい前、彰弘とちょっと電話で話したんだ」 「アキ兄と!?」 「ああ。〈解放〉のこと聞いたよ。セルフプロデュースしてるんだって?」 「⋯⋯はい」 「もしかして、コラボを反対されたからなんじゃないかって思ってさ」 「そういう訳じゃないです。確かに反対はされましたけど、セルフプロデュースは自分がそうしたいと思ったからです」  伊織は真っ直ぐに矢神の目を見て答えた。 「そうか⋯⋯ありがとう」 「そんな、礼なんて必要ないです」 「いや、それくらい、あの曲を気に入ってくれたってことだろ? プロデューサー冥利に尽きるよ」  矢神はそう言って相好を崩すと、着ている革ジャンのポケットから一枚のメモ用紙を取り出した。  それを伊織に渡す。  書かれているのは誰かの電話番号のようだ。 「これは?」 「オレの知り合いの連絡先だ。あの曲だとタイアップはなかなか難しいだろうと思ってな。それで興味を持ってくれそうな奴を当たってみたんだ」 「矢神さんが自分で?」 「大したことじゃないさ。君はルオンの才能を買ってくれた。こんなことくらいじゃ礼にもならない」 「礼なんて必要ないですよ!」 「そういう訳にはいかない。もう話はついてるから、あとは君の方からも連絡してみてくれ」 「⋯ありがとうございます⋯!」  伊織は矢神の気遣いに感激するばかりだ。 「じゃあ、オレは行くよ」  矢神が部屋を出ようとしたところで伊織はハッと気がついた。タイアップの相手のことを何も聞いていない。 「すいません、ちょっと待ってください!」 「ん?」 「このお知り合いって、何をされてる方なんですか?」 「おっと、大事なことを言い忘れたな。ソイツは──」  矢神の口から出たのは、伊織も驚愕するような相手だった。
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