17 / 32
第17話 負い目と罪悪感
横山との一件があってから、以前にもまして一之宮が保健室に入り浸るようになった。早朝も休み時間も放課後も、彼は欠かさずやって来る。
おかげで俺は一人にならずに済んでいる。
正直ありがたい。あの日横山にされたことは、その場ではたいしたことではないように思えたのに、時間がたつほどに身体の表面に張り付いた恐怖や不安が浮き上がってくるようだった。あれから横山が接触してくる気配はないが、校内で横山の姿をみると身体が一瞬強張ってしまう。そんなときに感じる一之宮の存在は心強かった。
だけど同時に、息が詰まっていくような感覚もある。
「……先生」
保健室から他の生徒が出て行きふたりきりになると、一之宮は俺の手を取り、そのまま部屋の奥へと引っ張っていく。
行き先は一番奥のベッドだ。一之宮はベッド周りのカーテンをぐるりと一周閉める。そして小さな頼りない密室の中に俺を引き込み、ぎゅうと抱きしめるのだ。
一之宮は何も言わない。ただ静かに呼吸を繰り返し、俺の存在を確かめるように、時々腕の力を強める。
俺はそんな一之宮を拒否することができなかった。彼がずっと何かに怯えているように見えてしょうがないのだ。以前彼の背中についていたやけどの痕が頭をよぎったが、何も聞くことは出来ない。
俺と一之宮は、シーソーの両端に乗っているようなものだからだ。今は奇跡的にバランスを保ち、揺れは収まっている。でももし彼に抱擁の意味を聞いてその答えがシーソーに乗ってしまったら、重みでバランスは崩れ、俺か一之宮のどちらか、あるいは両方が地面にたたきつけられるだろう。
それがわかっているからこそ、俺は一之宮に何も聞かない。一之宮も同じように、俺に何も言わない。
大丈夫だ、まだ線ははみ出していない。大丈夫。
苦しい言い訳を心の中で唱え、俺は今日も一之宮の腕の中で目を閉じる。
土屋がめずらしく保健室にやってきたのは、勤務時間もおわり身支度を整えているときだった。
「よう」
気軽なあいさつとともに入ってきた土屋に、「ああ」と返しながら、俺はさりげなく視線を逸らした。
前に京介さんの講演会で『一之宮はお前のことを好きなんじゃないのか』と指摘されてから、俺たちのあいだには微妙な雰囲気が流れていた。
生徒を好きになってしまったという負い目と罪悪感があって、土屋の目を正面から見られないのだ。
聡い土屋は、そんな俺の態度の変化に当然気が付いているだろう。だが何も気が付かないふりで接してくれている。ふと会話が途切れたときに何か言いたげな顔をしていることがあるが、俺が視線をそらすと土屋は結局口を噤む。
それに俺がさらに罪悪感を募らせる。どうしようもない悪循環だ。
土屋は俺の前まで歩いてくると、数十分前まで一之宮が座っていた丸椅子にどかんと座り、顔を顰めた。
「あ~疲れた。この時間まで保護者対応だぜ」
あまり愚痴を言わない土屋にしてはめずらしく荒れている。ぐるぐると肩をまわしながら、はあと大きな息をつく。
「お前もう上がりだろ? これから久しぶりに呑みにいかねえか?」
「あ――、今日はちょっと野暮用があってさ」
「え? そうなの? たまには付き合えよ」
「今日はほんと無理なんだって。わりいな」
「……ふーん。ほんとに?」
土屋は首を傾げる。探るような目でじっと見られ、咄嗟に視線を逸らしてしまった。これでは嘘だと言っているようなものだ。
「お前ずっと俺のこと避けてるよな」
「避けてる? まさか」
ははっと笑ったが、土屋は笑わなかった。
「いいや、避けてる。あん時からだよな。堂島さんの講演会」
時計の秒針が動く音がやけに大きく聞こえた。
この話がどこへ向かっているのかわかってしまえば、俺は床を見つめて静かに息をすることしか出来なかった。
「ほんとは呑みに行ってじっくり話聞こうと思ってたけど、しょうがねえわな。なあ、千草。これからこの学校のカウンセラーとしてじゃなくて、ただのお前の友人として聞く。正直に答えて欲しい」
「……うん」
「一之宮のこと、好きなのか?」
ついに来たと思った。でも心構えが出来たのであまり動揺もない。土屋は静かな声で続ける。
「この前の堂本さんの講演会、あん時のお前見てたらなんとなくそうなんじゃないかとは思ってたんだけどさ、最近一之宮ずっとここに入り浸ってんだろ。アイツと付き合ってんのか?」
土屋は真剣な顔で俺を見ている。もう誤魔化すのも嘘をつくのもできないと思った。土屋は十年来の親友だ。彼が心底俺を心配して言ってくれていることはわかる。
「付き合ってねえ。そんな関係じゃないんだ。……でも俺は、アイツのこと好きだ」
土屋が静かに、二度、三度とゆっくり瞬きをする。
「自分の立場はちゃんとわかってる。道は踏み外さない。お前にも迷惑はかけねえ」
「千草、俺はそんなことを言ってるんじゃなくて――」
「大丈夫だ」
俺は微笑んで、土屋の言葉を遮った。
「それにお前は一之宮が俺のこと好きとか言ってたけど、アイツの方は好きとかそういう感情じゃねーよ。ただ卵から孵ったヒナが初めて見た顔を親だと誤解するみたいなもんで、年上に対する憧れとか興味とか……きっとそんなもんだろ」
俺の言葉に土屋は眉を寄せる。
「それ本気で思ってる?」
「俺は……俺は」
自分の顔がだんだん歪んでいくのが分かった。
一之宮が俺にむける気持ちはそんな軽いものではないと本当はわかっていた。だけど俺がそれを認めてしまったら、自分が跡形もなく崩れてしまいそうで怖かった。
唇を噛んで黙り込む俺に、土屋が細く長く息を吐き出した。
「悪い。お前を非難するつもりはなかった」
「……いや。謝んのはこっちのほうだ。心配かけて悪かった」
土屋に笑いかけようとしたが頬が引きあがらなかった。だんだん繕えなくなってきている自分に愕然としてしまう。
「俺は賛成できねえよ」
「うん」
そうだろうと思っていたが、言葉にされるときつかった。それでも土屋は容赦しない。
「俺たちみたいな人間は、一回道から外れたらアウトだ。助けてくれる身内もいねえ、職もねえんじゃ真っ逆さまだよ。そうなったやつ末路はお前もよく知ってんだろ? お前だけのために言ってんじゃない、一之宮のためにもだ」
ともだちにシェアしよう!

