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岐路
私に人の心というものが、僅かにでも分かったならば。
自分を愛してくれる者から平穏を奪う事は無く、ましてや路頭に迷わせ、その手を汚させることすらなかったでしょう。
少なくとも。二人の未来は変わり、この結末では無い終わりを迎えていた筈でしょう。
過ぎた事を後悔したところで、今更どうしようもないのは分かっている。けれども願わずにはいられないのです。
高山一帯を包む霊気により、季節を問わず沢山の見事な梅の花を咲かせている仙拠を、古くより親しみを込めて匂涼点と人々は呼んだ。
屋敷の中庭には一際大きな梅の木が根を張っており、白い花を咲かせては花弁を散らしている。其処に一人の男が立っていた。男の足元は赤黒い液体で染まり、鼻を覆いたくなる臭いが辺りを漂う。
数ある種類の中でもとりわけ悍ましい魔物を見るような目をして、群れる蟻のように襲い掛かって来た門派の者達を、容赦なく次々に斬り捨てていった事で現れた血の海が広がっていた。
朝起きて整えた髪は乱れてしまい、紺色だった衣も返り血で汚れてしまった。
それなりに気に入っていた衣だったから、惜しいことをしたな。
と、この状況の中で呑気な思考を巡らせながら、辺りに転がっている死体の数々を眺める。
荒げた息をゆっくり整えながらも、剣を握るその目は血走っていた。
周囲をぐるりと見渡し、他に誰かまだ、息の根が残っている者がいないか確かめていく。血の海を歩いている中、ぐにゃりと柔らかい感触がする何かを踏み付けている事に気づき、彼は視線を下に向けてみる。
まだ豆の一つ出来ていない白く小さな手。八つばかりの幼い男の子が、玩具を手に持ったまま事切れていた。
苦痛に歪んだ顔を目にした途端、これまでずっと耳元で聞こえていた、殺せ!殺せ!と喚き散らす心魔の声がパタリと止み、押し殺されていた自分の理性が叫び出す。
湧き上がる怒りから心魔ごときに身を任せ、結果として取り返しのつかない罪を、私は犯してしまった!
かつて師と仰いだ人を。師兄と自分を慕ってくれた弟弟子を。何かと競い合った学友を。門派の長老達を。
誰も彼も全て。この手で殺めてしまった。故意で無かったにしろ、正派の修士が人を殺めてしまったのだ。返り血を浴びた時より、私と言う男は魔道に堕ちたも同然だろう。
一方、これで良かった。ああ、これで良かったのだと安堵している自分が居るのもまた事実。
仕方がなかった事なのだ。愛する人らを守るには、他者の命を奪う手段しか残されていなかったのだから。
「古郭 」
不意に自分の名を呼ぶ声が背後から聞こえ、剣を構えた状態で男は振り返る。
視界に飛び込んできた人物は、いつも寝食を共にしている青年だった。幼さ残る顔の割に口数が少なく、自分より歳が五つほど離れた最愛の道侶。
夜駱茱 だ。
「古郭、もう良い。もうやめにしよう。」
名を霜古郭 と呼ばれたこの男は、修真界では名の知れた門派の一つである、叭花に属する手練れの修士だった。
非常に整った容姿をしているが、見た目にそぐわず心優しい性格をしているので、門派を問わず人々から慕われていた。
夜駱茱とは元々幼馴染みの仲にあり、教えを乞う師は違えど、師兄と師弟の関係でもあった。この仲が進展し、道侶としての契りを結んだのがおよそ三年前。
周囲が呆れるほど、または羨むほど、二人は常に互いを想い合っていた。
夜になれば修為を高める目的で、互いの肌を重ね、昂る欲をぶつけ合う。夜駱茱から放たれた熱が霜古郭の金丹に注がれ、実を結ぶのにそう時間は掛からなかった。
愛し合う夫婦がいつしか子を成すように、男の身体でありながら、霜古郭は夫である夜雪の子を宿した。
とても奇妙な事に彼の金丹が子宮の代わりを果たしていたのである。金丹が元嬰と呼ばれる子供の姿をとる事例は古くよりあったが、女子の器官として機能するなど前代未聞だった。
霜古郭の妊娠を知った叭花の者達は、祝福の言葉こそ贈ってくれたが、それは上部だけであり、大半が信じられないとばかりの視線を彼に向けた。
けれど、これまで多くの経験を積んできた霜古郭にとって、自分が妊娠したという事実は特別驚くべきことでも無く、夫である夜駱茱も同じ考えを持っていた。
純粋にこの新しい命を喜び、共に育んでいこう。ささやかな幸せで溢れた家庭を築いていく夢を彼らは抱いた。
だが、それはつい数刻前までの話。たった数刻の間のうちに、事は最悪の方向へと進んでしまったのである。
事の発端は霜古郭が昼餉を軽く済ませたあと、掌門を含む門派の上に立つ者らに罪記堂へ呼び出されたのがきっかけだった。
罪記とは読んで字の如く、犯した罪を記すという意味が込められている。規範を破った者が罰を受ける場所として使われており、門弟達からは恐れられていた。
少々やんちゃだった幼い頃はともかく、ここ最近の自分は規範を破った覚えは無いと首を捻りながら、仮眠をとっている夜駱茱を残し、霜古郭は一人で罪記堂に向かったのだ。
さっさと用を済ませ、道侶が待つ部屋に戻ろうと思いながら扉を開いた直後。前触れなく掌門から投げ付けられた言葉は、霜古郭の心を固まらせるには充分だった。
立派な顎髭を伸ばしている我が叭花の掌門は、いつから冗談が上手くなったのだろう?
男の身体でありながら子を宿したのはそもそも、私が人では無いから?
生まれも育ちもこの叭花である筈の私が、実は人では無く、何処からか師が拾って来た霊獣であると?
霊獣が人の子を宿すのは災いが起きる予兆であるから、即刻この場で腹を裂いて金丹の中に眠る赤ん坊を差し出せ?
鈍器で殴られた訳でもないのに、酷く頭が痛い。幻聴ではなく、自分の声ですらもない、やけにはっきりとした口調で誰かの声が囁いてくる。
人と番う事を選んだ愚かな霜古郭よ。「私」の声が聞こえているか?今この瞬間をもって。お前の目の前に立ちはだかる者どもは全て、まだ生まれてもいない小さな我が子を殺めようとしている。片親が霊獣という理由だけで、何の罪も犯していない筈なのに。
お前が我が子を心から愛し、守りたいと願っているのなら「私」の手を取るがいい。
「私」はお前の後悔が作った存在。修士である者なら、何であるか言わずと分かるだろう。
「全て冗談ですよね?ああ、掌門。お願
いですから、嘘だと言ってください。」
抑揚の消えた声と共に、ガチャリと重い音が場の空気を切り裂いた。
腹を裂いて子を取り出そうなど、愚かな行為に彼が走る訳がなかった。
霜古郭にそんなつもりは微塵もなかったが、ふと自分の片手が鞘から剣を抜いている事に気がつく。
そこからあとは、ご覧の通り。
元は自分が何の霊獣であったのかを知る前に、霜古郭は自分を修士として育ててくれた門派に、恩を仇で返す親不孝な魔物となりかけていた。
或いはもう既に牙を剥いて唸る魔犬にでも、彼はなってしまったと言うべきか。
けれどそんな事。例えこの惨状を前にした所で、霜古郭にはどうでも良かった。あの心魔の声が聞こえた時点で、もはや全てが遅かったのかもしれない。
「一体何を?何を止めろって言うんです?」
「……これだけの事をしておいて、まだ分からないのか?」
いつもなら鈴のようだと謳われる夜雪の声も、この時ばかりは闘いからくる疲労からなのか、掠れ声しか出ない。
「もう斬るべき相手は残っていない。俺と、アンタを除いて。」
それからもう一人、其処にいる赤ん坊を加えて。道侶が呟いた言葉が平らな腹を指す。
彼が何を言いたいのか、霜古郭には考えずとも直ぐ分かった。
恐らくこう言いたいのだろう。腹を庇い心魔に操られるまま、同門だった者達に自分の血を流させる必要はあったのか?
「阿雪、たった今しがた貴方が観た通りです。彼らは私を何の躊躇もなく殺そうとしたんですよ。」
血走った目で躊躇なく人を斬りつけていった男が吐き捨てる台詞ではないだろうと、夜駱茱は内心密かに思う。
だか敢えてそれに言及はせず、無骨な手を伸ばし、赤みを帯びた道侶の頬に触れる。
夜駱茱の冷たい手が多少なりと、苛立ちに近い興奮を鎮めていったのか。血走っていた霜古郭の目は落ち着きを見せていき、剣先を地面に突き刺してから、彼はゆっくりと片膝をついた。
同じように夜駱茱も片膝をついた姿勢を取り、疲労を浮かべる霜古郭に目線を合わせる。
少しの間だけ夜駱茱は自分が思っている事を、果たして言葉にして良いものか思い悩んだ。
「アンタが心魔に操られているのは、霊力の流れを読んで直ぐ分かった。今日の午後に罪記堂へ呼び出されていた事も。だが、この惨状を起こす程、掌門達との間に何があった?」
夜駱茱という青年はこういう時、僅かでも相手に非があるなら、愛する道侶であれど棘を含む声で責める。お陰で一体何度、霜古郭と夜駱茱の二人は衝突し合った事だろう。
しかしそれは若さゆえにできる実直な判断であり、一切私情を持ち込まない点を、子供の頃から霜古郭は好ましく感じていた。
最も今ばかりは好ましいとは思えず、寧ろ恨めしいだけであるが。
乾いた下唇を噛みながら、ゆっくりとした口調で事の経緯を霜古郭は語り出す。
「話は大体分かった。」
深々と息を吐きながら、夜駱茱は立ち上がると片手で顔を覆う。
聞き取れない声で何かを呟き、交互に霜古郭の顔と腹を見やる。道侶の身に突如として起きた事態に、どうすれば良いのか考えあぐねている様子は明白だった。
「つまり俺達の子は、人と霊獣の皮を被った化け物か。」
心ない言葉であるが、夜駱茱の本心から来ているものでは無い。
「私を捕らえ然るべき所へ連れて行き、裁きを受けさせようと思っているなら、きっと今のうちですよ。」
「そのつもりは無い。」
人差し指で自分の首を示し、自嘲気味に霜古郭は口角を上げてみせる。
「ならこの首を刎ねようと?」
「……そのつもりも無いし、アンタの首なんて俺は要らない。」
「ではどうするんです。叭花を瓦解させた霊獣をまさか、このまま野に放つなどと言うつもりですか。」
心魔の影響なのだろうか。彼は口調の中に、自身の苛立ちを隠しきれない様子だ。
他にも何か言おうとした霜古郭を静かに夜駱茱は遮り、一つの案を提示した。
「邪派で知られる醉鶿へ共に向かおう。魔道へ堕ちてしまった以上、お互い此処にはもういられない。」
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