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結
ひら、と花びらが風に舞う。真尋の黒髪を淑やかに彩る。髪は烏の濡れ羽色。花は可憐な薄ら紅。曜介が花びらに手を伸ばせば、真尋が振り向いて微笑んだ。
「綺麗だな」
「……ああ」
生返事だったろう。結局、花びらを手に取ることはできなかった。
このところすっかり春めいて、風も日差しも暖かい。薄いベールを纏ったように、空も淡く色付いている。絶好の花見日和だ。
京太郎の提案で、花見をすることになった。しかし、言い出しっぺがまさかの寝坊、そして遅刻という有様で、今は真尋と二人きり。二人で雅を味わっている最中なのだった。
夏の花火大会と同じく、市内の公園が桜祭りのメイン会場になっている。春は桜、夏は花火、秋は紅葉、冬はイルミネーションと、一年通してイベントが絶えない。
湖畔に連なる爛漫の桜。花びらが重なり合って咲き乱れる。春の日差しを透かして、木漏れ日まで桜色。春風に花びらが舞い上がり、湖面に触れて波紋を落とす。水鏡に映った影が霞んでいる。
「コップ出せ。空だろ」
真尋が酒を注いでくれる。味気ない使い捨てのプラスチックカップだが、気分次第では上等の酒器にも劣らない。上等の花を前にすれば尚更だ。
「どうだよ。かなり吟味して選んだんだ」
京太郎の提案で、それぞれ良さげな酒を見繕って持ち寄ることになっていた。日本酒でもワインでも、花見に合うなら何でもいい。真尋が選んで持ってきたのは、春に飲むには打ってつけの、爽やかな甘みが特徴のものだった。
真尋が空のカップを差し出すので、曜介も自分の持ってきた酒を注ぐ。真尋が透明なカップに口をつけ、軽く傾けて酒を舐めるのを、曜介はじっと見ていた。
「……うまいな」
黒い睫毛が木漏れ日を纏う。綻びた唇が酒に濡れる。酔っているのか、頬が仄かに赤らんでいる。それとも、満開の桜を透かした日差しのせいだろうか。はらはらと花びらが舞う。儚くも美しく、まるで真尋のために舞う。
「……てめーは、」
真尋が不意に口を開く。流し目に曜介を見る。
「花より団子。いや、団子より花見酒かと思ったが」
「……」
「ちゃんと桜も見ろよ」
「……一応見てるんだけどね」
「そうかよ」
真尋は視線を外した。あえかな桜よりも鮮やかな紅に染まった頬は、決して酔いのためだけではない。
「だって、桜より綺麗だぜ」
花より団子。団子より酒。確かに昔はそうだった。しかし今は、それ以上に見ていたいものがある。昨日も今日も、そして明日も明後日も、曜介の隣にいてくれる、愛しい幼馴染であり、恋人であり、生涯の伴侶に選んだこの男。どんな花より見る価値がある。
甘く匂う春風が目映く煌めいた。絶え間なく乱れ舞い散る花吹雪。まるで二人を春霞の中へ隠すように、桜が舞う。杯に花びらが舞い降りる。冴えた酒が仄かに色付く。
わざわざ口頭で確認するなど野暮の極みだ。桜吹雪に囚われている今、ほんの一瞬唇を重ねることなど、造作もない。
「おっつー。いや~、悪い悪い。昨日も夜桜見物してて遅くなっちゃって~……」
背後から響いた能天気な声に水を差され、曜介と真尋は弾かれたように距離を取った。しかし手遅れである。
「なんだ貴様ら。人目も憚らずイチャイチャして。いい歳のくせに」
「冷静な分析やめてくんない? 一瞬で賢者になるから」
「賢者? まだキッスもしてないように見えたが」
「だから声に出して言うなって!」
そんなこんなありつつ、ようやく京太郎が来たことで、本格的な花見がスタートだ。桜の木の下、芝生の上にレジャーシートを敷き、弁当やつまみを広げ、もちろん酒も並べて、三人で乾杯をする。外で飲む酒はそれだけで旨く、一味違って感じた。
酒もつまみも、なくなれば都度都度買い足した。何しろ、今日の桜は真っ盛り。桜祭りも盛況で、屋台も露店も選り取り見取りだ。好きなだけ食って飲んで、馬鹿話に笑い転げて、下手な歌なんか歌っちゃって、陽だまりの中でうとうと微睡んでいるうちに、いつの間にか夜桜のライトアップが始まっていた。
「起きたかよ。あんまり静かなんで、死んだかと思ったぜ」
「そこまで熟睡してねぇよ」
浅い眠りから覚めると、傍らに真尋がいた。杯片手に、曜介の髪を弄っている。
「京太郎は?」
「トイレとか言ってたが、ステージの方見に行くとも言ってたぜ」
「あそ」
横になったまま空を見上げる。空、いや、視界は夜桜でいっぱいだ。ぼんぼりの淡い明かりに照らされて、夜の闇に浮かび上がる夜桜は、昼とはまた雰囲気を変え、幻想的な美しさだ。まるで夜空を燃やすように咲いている。
湖畔に連なる夜桜も幻想的にライトアップされ、まるで霞がたなびくように、仄白く燃え立っている。花影が水鏡を照らし、舞い落ちる花びらが静謐の湖面に浮かぶ。
天気予報では、来週は雨が続くらしい。桜流しの雨になるだろう。湖には花いかだが流れ、青い芝生は花むしろが覆う。その光景はおそらく最上の美しさだ。
「……桜ってのは、なんですぐに散っちまうのかねぇ」
曜介は呟いた。
「焦らして焦らして、ようやく咲いたと思ったら、あっという間に散りやがる」
そう言っている間にも、はらりはらりと桜は散る。真尋は曜介の髪に指を絡める。
「すぐ散るからいいんだろ」
「ずっと咲いてりゃ、花見だって一年中できんのに」
「ばぁか。んなもん、誰も花見なんかしねぇよ」
「そういうもん?」
「そういうもんだ」
「そっか」
「ああ。それに、」
曜介の髪を撫でる真尋の手付きが甘くなる。
「桜はまた咲くさ」
「……ああ」
「来年もまたこうして、お前と酒を酌み交わしてやるよ」
花明りを背に、真尋は微笑んだ。かつては見ることが叶わなかった、そして今は毎日のように目にすることができている、大好きな笑顔。夜風に舞った薄紅が、真尋の黒髪を彩る。甘い匂いに誘われて、曜介は手を伸ばす。
夜桜の下、真尋の影が淡く光っていた。目を細めれば、淡い光は滲んでぼやける。そんな中でも、真尋の姿だけはどこまでも鮮明に、透き通るような美しさを放っていた。二人の距離が近付いて、影が重なるまで、あと一寸。
「何とかいうアイドルが来てステージは大盛り上がりだったぞ!」
またしても寸止めだ。京太郎はにやにやしながら曜介の肩を叩く。残念だったな、とでも言いたげである。
「京太郎、もちろんお前もだからな」
曜介とは対照的に、真尋は上機嫌に杯を傾ける。
「何の話だ?」
「来年も再来年も、お前らと酒を飲んでやるって話だよ」
「ほう。そりゃありがたい」
京太郎は真尋の隣に腰を下ろし、杯を手に取った。
季節が何度巡れども、春はまた来る。夏も、秋も、冬もまた来る。その一つ一つを、かけがえのない人達と迎えることができるのなら、こんなに幸せなことはない。
真尋の髪に触れた桜が零れ落ちる。曜介はそれを掌に受け止める。軽く握りしめ、そっと息を吹きかけた。ひとひらの花びらが夜を照らし、天に高く舞い上がる。
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