114 / 114
第六章 恋のはじまりと揺れる未来21
***
姉ちゃんが特別講義してからというもの、俺はなんとか落ち着きを取り戻し、宿題に集中することができた。講義を教わるまでは、陽太のことが気になって仕方なかったのに、おでこコツンという近距離の方法を覚えただけで、不思議と満たされてしまった。それは陽太も同じようで、俺と手をつなぐことなく宿題に果敢に取り組んでいる。
「よし! 日も傾いてきたし、そろそろ帰らなきゃだな」
陽太がお父さんに言われたこと――家の人が不在のときは、俺とふたりきりでいちゃダメという取り決めもあって、こうして並んで宿題ができるのは、共働きの両親がいなくても、姉ちゃんがいるときだけ。それか図書館のみだった。
「陽太、復習を兼ねて最後におでこコツンしてもいい?」
「ああ、そうだな。復習は大事だ」
陽太と額を合わせた瞬間、胸の奥がじわりと熱くなった。鼻先がかすかに触れそうで、呼吸が混じる。唇には届かない――まさに寸止め。
(……なのに、どうしてこんなに甘いんだろう。触れたいのに触れられないほうが、余計に苦しい)
おでこから伝わる陽太の体温が、まっすぐに心臓を震わせる。息をするたびに、欲望が押し寄せてきた。ほんの数センチ、前に進めば届くのに。
「悠真……これなら怖くないし大丈夫だろ?」
額を合わせたまま囁かれる声はすごく優しくて、余計に焦がされた。
「……陽太は平気なの?」
「あぁ。苦しくない。むしろ、すごく安心する。しかもフェロモンの微調整だってバッチリだ」
満足そうに笑う陽太を見て、胸がちくりと痛む。陽太はこれで満たされてる。俺のことを思い、ルールを守ってちゃんと喜んでくれている。
「ありがとな、悠真。俺こうしてれば、ちゃんと調整できる気がする。これ、続けていこうぜ」
陽太は、親指で“ぎゅっ”と合図をくれたので、俺も同じように握り返した。
(だけど俺は、これだけじゃ足りない――)
本当は、唇に触れたかった。夢の続きみたいに、抱きしめられたかった。おでこコツンは確かに甘い。けれど、その寸止めの甘さがかえって俺の心を苦しくさせる。
欲しいのは、もっと深いぬくもり。胸の奥に巣食った熱は、おでこだけじゃ冷めてくれなかった。
手を握り返しながら、心の中では必死に抑えていた。自分だけが欲張りなのかと思うと、言えない気持ちが重くなる。
(もしかして俺って、ワガママなのかな。でも、どうしても……)
陽太を困らせたくない。フェロモンのことだって、彼はアルファとして気をつけなきゃいけないのに。
自分の気持ちを押し込めようとした瞬間、頭の中に姉ちゃんの顔が浮かんできた。
(……姉ちゃんだったら、なにかわかるのかな)
姉ちゃんは、恋愛についてあんなに詳しく教えてくれた。きっとアルファの彼氏と付き合ったことのある自身の恋愛経験が、そうさせているのだろう。
もし相談したら、このどうしようもない「足りなさ」に名前をつけてくれるんじゃないか――そんな気がしてしまった。
***
昼間に陽太と一緒に宿題をこなしたので、夜はリビングのソファに腰を下ろし、テレビを眺めるふりをしていた。
けれど頭の中に流れているのは、陽太にしてもらった“おでこコツン”ばかり。甘さで胸がいっぱいになるはずなのに、逆に足りなくて、じっとしていられない。まるで熱に浮かされたみたいに、何度もその瞬間を思い返してしまう。
隣で雑誌をめくっていた姉ちゃんが、ちらりと俺を見た。
「なに、そんな難しい顔して。宿題のこと?」
「……違う」
思わず否定して、それから言葉に詰まる。姉ちゃんは雑誌を閉じて、俺の方へ向き直った。
「ふぅん。じゃあ、陽太くんのことでしょ?」
図星を指すセリフに、心臓がびくっと跳ねた。
「な、なんで」
「わかりやすいんだもん。さっき部屋であんなに“甘酸っぱい実技”をやってたんだから」
「……っ!」
耳まで熱くなるのを自覚しながら、顔を隠すように俯いた。言葉を発することのできない俺を急かさずに、姉ちゃんは黙ったまま見つめる。しばらく沈黙が続いたあと、ぽつりと口を開いた。
「帰り際におでこコツン、陽太にしてもらった」
「よかったじゃん」
「でも……それだけで、陽太は満足そうにしてたんだ。俺はもっと……触れたいって思ったのに」
やっとの思いで絞り出すと、姉ちゃんの表情が一瞬だけ真剣になった。
「悠真としては、物足りなかったんだ?」
「うん」
正直に答えると、姉ちゃんは小さくため息をついて苦笑した。
「そうだね。わかるよ、悠真のその気持ち」
「えっ?」
姉ちゃんは、視線を宙に泳がせながら言った。
「前に言ったことあったよね。アルファの彼氏がいたこと。彼はすごく優しくて、私を大事にしてくれた。でもお互いに気を遣いすぎて、最後は“これ以上踏み込めない”って壁にぶつかったんだ」
姉ちゃんの声には、少しだけ懐かしさと寂しさが混じっていた。
「彼とキスしたいって思っても、なかなか言えなかった。甘えたいのに、抑えてばっかりで。気づいたら、隣にいるのに遠い人になってたんだよね」
俺は息を呑む。まさに今、感じていることと重なって。
「だから悠真が物足りないって感じるのは、悪いことじゃないんだよ。むしろ大事な気持ち。だってそれって、相手を求めてる証拠でしょ」
姉ちゃんは、すごく優しく笑った。
「でもね、その気持ちをそのままぶつけるんじゃなくて、“どうすればふたりとも安心して甘くなれるか”を考えるの。今日教えたルール、覚えてる?」
「合図とか、距離とか」
「そう。それを守りながら、ちゃんと“欲しい”って伝えてみな。陽太くんはきっと、悠真のことを受け止めてくれると思うよ」
胸の奥がじんわり温かくなる。
(……俺、陽太に言っていいんだ。物足りないって、もっと近づきたいって)
胸の奥がじんわり温かくなり、次に会ったときは必ず――そう伝えようと心に決めた。
ともだちにシェアしよう!

