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ブルースター

 あれから数週間が経つけれど、傷はまだまだ癒えそうにない。これまでどうやって生きてきたかを忘れてしまったみたいに、空っぽな日々。なんとか毎日をやり過ごすことに必死だった。  僕から律がなくなれば何にも残らないのだなと身に染みて、また泣いた。あんなに近づくことが恐れ多いと思っていたのに、律の傍はかけがえのない場所に変わっていた。  何を食べても美味しいと思えない。眠気は襲ってくるのに、夜はなかなか寝付けない。やっと眠りについたと思ってもハッと目が覚めるのが常だった。何のために生きているのか分からなくなって、得意だったはずの作り笑いさえできなくなっていた。  「紡、」  「大丈夫だから」  「じゃあ、そんな顔してんなよ」  「……分かってる」  奏の心配も突っぱねて、僕はひとりで抱え込んでいた。犯人は弦先輩だったなんて、当時を知る奏に言えるはずがない。  先輩は僕に言った通り、動画の投稿を行うのはやめてくれて、それだけが唯一の救いだった。  街頭ビジョン、本屋、CDショップ、スーパー。街を歩けば、至るところに律がいる。目に入れないようにするのは不可能に近かった。    油断していれば涙が溢れそうになるけれど、そんなときは血が滲むほど唇を噛み締めて我慢した。唇よりもずっと、心の方が痛かった。  既読にならないメッセージ、折り返しの来ない電話を律はどんな気持ちで待っていたのだろう。いくら優しい律でも、さすがに愛想を尽かしたかな。  僕のことなんて、綺麗さっぱり忘れてしまえばいい。貴方が傷つく必要はないのだから。    キラキラと眩しいばかりの輝きを放つ彼は、いつでもみんなの憧れでいてほしい。これでよかったのだと、自分を納得させるしかなかった。  ◇◇  秋も終わりに近づき、日毎に気温が下がっていく。その日はいつもよりも肌寒くて、朝から冷たい雨が降り続いていた。  家を出てぶるりと体を震わせる。そろそろコートが必要だなぁなんて考えながら授業を話半分に聞いていた。  一時期はあんなに注目を浴びていたけれど、同じ大学のひとも僕が面白みのない平凡なやつだと理解したのか、ひそひそ話をされることもじろじろと見られることもなくなっていた。  流行りってそういうものなのだろう。  律に出会った頃の自分がどんどん消えていくみたいで、静かな日々は嬉しいはずなのになんとも言えない気持ちになった。  授業を終えて学部棟の入口に向かっていれば、廊下を占拠した女子生徒のグループが周りを気にせずに興奮しながら盛り上がっていた。  勝ち組陽キャの軍団ってかんじで苦手だ。目を合わせないようにそそくさと通り過ぎようとすれば、自ずと話が耳に入ってくる。  「だから、あれは絶対律だったよ」  「まじ?」  「人違いじゃなくて?」  「いや、あんなイケメンは律しかいないって」  「でもこんなとこに何しに来るのよ」  ぴたり、足が止まった。  どくんと心臓が音を立てる。  ……嘘だ。そんなこと、あるはずない。  そう思うのに、心が震えて動揺してしまう。足が地面に張り付いたように動かない。    話していたひとりと目が合って、それにつられるように全員がこちらを向いた。  「それはわかんないけど、……あ、」  「うん、いたわ、律がわざわざここに来る理由」  うんうんと頷きながら、僕を遠慮なく見つめる視線。かなりの気まずさと、これ以上聞きたくない話の内容に僕は足を進めようとした。  それを引き止めたのは、ゼミの飲み会のときに二次会に行こうと誘ってくれた女子だった。  「吉良くん、応援してるからね」  「え?」  「みんな、最近元気ないなぁって心配してたんだよ。でももう大丈夫だよね、また飲み会しよう」  優しい笑顔に胸の奥がじんわりとあったかくなる。    先輩に襲われた日から信頼できるのは奏だけだと思い込んでいた。再び人間関係が壊れて傷つくのは嫌だったから、自然と他人と距離をとるようになった。  だけど気が付かなかっただけで、僕なんかを心配してくれるひとはこんなに近くにいたんだ。  宇田も彼女も他のみんなも、悪い人じゃないのは同じ季節を過ごしてきたからよく知っている。それでも壁を作って、距離を取っていたのは僕が弱かったから。過去を繰り返すのが嫌だったから。  「……ありがとう。また誘ってくれると嬉しいな」  「もちろん! 行ってらっしゃい」  あんなに地獄だと思っていた飲み会もまた参加してみようという気持ちになる。にぱっと向日葵のように笑う彼女にそっと背中を押された。    ……でもごめんね、それとこれとは話が別。たとえ本当に律がいたとしても、僕は彼に会えない。その応援は無駄なものになってしまうけど、彼女のおかげで大事なことに気づけた。トラウマがひとつ無くなった気がして、明日から少しは前を向いて歩けそう。  勇気をもらった僕は意を決して、傘で顔を隠すようにしながら校門に向かって歩き出した。そこに近づくにつれて、雨の音に混ざったざわめきが大きくなる。  すれ違うみんなが律の名前を口にしていて、嘘だと思いたかった事実が本当だったのだと悟った。  多くの学生でごった返しになった校門前。  その場にいる全員の視線を集めるのは、この場に似合わないスーパーアイドル。カラフルな傘の隙間から見えたそこに確かに律はいた。  知らないうちに金髪から黒髪に戻っている。目の下に隈ができて、少し痩せたように見えた。  それでも彼の放つ圧倒的オーラは色褪せない。誰も近寄ることなんてできなくて、周りにバリアが張られているみたい。  まるで映画のワンシーン。傘もささず、雨に濡れながら下を向いて立っているその人は、こんな時なのに息を飲むほど美しかった。水も滴るいい男とはよく言ったものだ。  ぽたりぽたりと髪先から垂れる雫が律の涙に見えて、きゅうっと胸が締め付けられる。虚ろな瞳がぼんやりと空を見つめていた。  ……苦しい。  貴方が僕に会いに来たって分かるからこそ、それを叶えられない自分がやるせなかった。  律がいるという噂は今この瞬間にも瞬く間に広がっているのだろう。ひと目見ようとミーハーな学生がどんどん増えていく。だけど、律はそれを気にする素振りすら見せなくて、ただぼーっと立っていた。  ……帰ろう。  白状な奴だって、恨んでくれて構わない。  僕は律を守るためなら何だってするから。  バレることのないよう、僕は傘で顔を隠しながら人混みを抜けた。  最後に一目だけ……。  名残惜しく思う気持ちは誤魔化しが効かなくて、後ろ髪を引かれるように背後をちらりと振り向いた。  独りぼっちで、捨てられた子どものような顔をする律。こんな律、見たことがない。  独りよがりに考えた結果、律から離れるのが最善だとばかり思っていた。僕が離れれば全て元通りになるって、律は幸せになれるんだって、そう信じてた。  だけど、そんな考えが間違いだったんじゃないかと今更思う。今まさに、律を傷つけて苦しめているのは他でもない僕なのだから。  もっと他にできることがあるんじゃないか。そんな淡い願いさえ抱いてしまうほど、僕は律の傍にいることを望んでいた。  目の前にある、ずっと越えられなかった壁を乗り越えたい。向こう側の世界で同じ景色を隣で見たい。そう思うほどに焦がれていた。  ずっとずっと大好きな、かけがえのないひと。    ……ごめんね、律。  僕は貴方を不幸にする。  過去を知ったら、僕を嫌いになるかもしれない。    だけど、今にも泣きそうな律を放っておくなんてことはやっぱり僕にはできなかった。  律は僕の道標。初恋を捧げた、唯一無二の神さま。彼のいない人生なんて考えられない。奇跡のように生まれた出会いなのに、悪魔に壊されたままにしたくない。  こんな終わり方ってないだろう。考えるより先に足が動いていた。ぐるりと方向転換して一直線に向かうは、大好きな人のもと。周囲から上がる黄色い声なんて耳に入ってこなかった。  これ以上冷たい雨が律を濡らさないように頭上に傘を差しかければ、そこまで近づいてやっと気がついたのだろう、涙で潤んだ瞳と視線がぶつかった。  その瞬間、世界の色が変わる。  ずっと、この瞳に映ることが怖かった。  汚い部分を見透かされて、嫌われてしまうことに怯えていた。    僕なんかが隣にいたら、彼まで汚してしまうんじゃないかって、そう思ったらなかなか一歩を踏み出すことができなかった。  僕が引いた分だけ、踏み出してくれる律。近づきたくないとあんなに思っていたのに、いつの間にか絆されていた。  「……つむぐ」  「こっち」  雨音に消されてしまいそうなほど小さくても、相手が律だからその言葉はしっかりと耳に届いた。久しぶりに呼ばれた名前に心から歓喜に震える。呼ばれ慣れた名前が特別に感じるのは貴方が呼んでくれるから。けれど、それに浸っている暇なんてない。  彼はスーパーアイドル、いつまでも注目を集めたままではいられないのだから。彼のためにも、すぐにここから離れる必要がある。    はじまりのあの日とは真逆。  覚悟を決めた僕は、すっかり冷たくなった律の手を引いて駆け出した。  また手を繋いじゃったな、そう思いながら頭を過ぎったのは悪魔の笑顔。だけど、固く繋いだ温もりを離そうとは思わなかった。僕はもう逃げないと誓ったから。  ◇◇  何の言葉も交わさずに到着したのは僕の家。  びしょびしょに濡れた律を連れ回すことはできなかったし、誰にも邪魔されない、ここが一番腹を割って話しやすい場所だと思ったから。  何か言いたげなびしょ濡れの律を有無を言わさず風呂場に押し込む。多忙なアイドルの体調を崩させるわけにはいかなかった。  ひとりになると自分のしたことにようやく実感が湧いてきて、ずるずると部屋のど真ん中でしゃがみこんだ僕はやってしまったと頭を抱えた。  不安がないといったら嘘になる。だけどあの場から逃げていた方が絶対後悔していただろうから。これまで不正解ばかり選んできたから、もうこれ以上間違えたくなかった。  律の反応が怖くて、緊張がとけない。ぴんと張りつめた糸は弛みそうにない。  はぁ……と深く息を吐き出せば、背中にずしりと感じる温もり。久しぶりに感じる体温に涙がこみ上げてくるけれど、瞬きをしてそれを押し込めた。  今はまだ泣く時じゃない。自分勝手に決めたくせに、僕ばかりが被害者面するな。  「……律、」  「紡のばか」  恨めしげにそう零すけれど、言葉とは裏腹に甘えるようにぐりぐりと背中に頭を押し付けてくる。  責められても文句はない。むしろ律にはそうする権利がある。抵抗もせずにそれを受け止めれば、律が動きを止めた。小さく震えた声が聞こえてくる。  「終わりにする気?」  「…………」  「ひとりで勝手に決めないでよ」  後ろを振り向けば、憔悴しきった様子の律。目にはいっぱいの涙が溜まっている。  僕が泣いたのと同じぐらい、律も泣いたのかもしれない。もう会えないかもと絶望して、自分を責めて、眠れない夜を過ごしたのだと思うと死にたくなった。  今の僕にできることは、全てを話すこと。  受け入れてもらうつもりはない。  ただ、それが僕の精一杯の誠意だから。  「ごめん」  「欲しいのは謝罪じゃない」  「……律に話してないことがあるんだ」  「うん、聞かせて」  体を離して聞く体勢になった律の正面に座り直す。なかなか言い出せない僕の手を律がぎゅっと握った。それに勇気をもらって、ぽつぽつと話し出す。    高校一年生の頃、仲のいい先輩がいたこと。いろんなことを教えてもらうのが楽しくて、懐いていたこと。だけど、その先輩が僕を恨んでいたこと。  「……急に態度が豹変した先輩に無理やりキスされて、押し倒された。ギリギリのところで幼馴染が助けてくれたから最後までしてないけど、僕は律が思ってるような人間じゃない。……汚れてるんだよ」  「…………」  「大好きな歌声を届けてくれる律の唇を汚したくない。傍にいたら駄目だって自分に言い聞かせてた」  「紡」  するりと手の甲を指先で撫でられる。  律がどんな顔をしているか見たくなくて、僕は話している間ずっと俯いていた。  名前を呼ばれて何を言われるのだと身構えれば、頬に添えられた手に導かれるように顔を上げさせられる。  ああ、この人は本当に僕なんかを好きになってくれたんだ。自己肯定感の低い僕がそう思ってしまうほど、熱っぽくて甘い視線とぶつかる。  引かれてもおかしくない話をしたっていうのに、律の瞳は揺らがなかった。僕の大好きな、青い炎が燃える瞳。そこに情けない顔をした自分が映っているのが嫌だなあと思った。  沈黙が僕らを包む。永遠とも思えるほど見つめ合った後、律は何も言わず、僕の唇にキスをした。ふにと柔らかい感触に思わず目を見開く。  過去を聞いて尚、そんなことをするなんて思っていなくて、大人しく受け止めることしかできなかった。    唇を離した律が目をまん丸にした僕を見て、慈愛に満ちた表情で微笑んだ。  「ど、して……」  「これが紡のファーストキスだよ」  「……っ」  最悪な思い出が大好きな人に塗り替えられる。最後の砦ががらがらと音を立てて崩れ去る。  嗚咽を堪えながらただぼろぼろと大粒の涙を零す僕を見て、律は困ったように眉を下げた。  「ずっと紡にキスしたかったのに、許してくれなかったのはそれが理由なんでしょ」  「……だって、」  「紡は汚れてない」  はっきりと断言されると、何も反論なんてできない。神さまの言葉は絶対だから。  「もう、そんなに泣かないで」  「……っ」  「紡は俺を神格化しすぎだよ」  泣きじゃくる僕にそう笑って、また律は口付けを送る。  その行為はまだまだ慣れなくて、緊張で全身に力が入ってしまう。そんな初心な僕を律は愛しいものを見る目で見つめていた。    だけど、話はこれで終わりじゃない。  まだ律に言わなきゃいけないことがある。  空気が変わったことを感じた律がまた手を握ってくれる。  「二本目に上げられた動画でなりすましの犯人が分かった。……先輩、だったんだ」  「え、まさか、紡ひとりで会いに行ったの?」  「うん……」  「何もされてない?」  さっきまでの甘い雰囲気はすっかり霧散する。  こくんと頷けば、律はほっと息を吐いた。  「でも撮られてたんだ、律と僕が手を繋いでいるところ」  「……うん」  「その写真を週刊誌に売るって言われて……、律のこれまでの頑張りを僕が潰してしまうと思ったら耐えられなかった」  「…………」  「ごめんなさい、律と縁を切れって言われたのに巻き込んだ。律を守れなくてごめん、……不幸にしてごめんなさい」  あんなに大勢の前で東雲律を連れ去ったのだ。  弦先輩が既に知っていてもおかしくない。    結局、僕は綺麗事を並べるだけで律を守れなかった。先輩の言う通り、僕は誰かを不幸にする運命なのかもしれない。  申し訳なさでいっぱいになる僕の手を引いた律にぎゅっと優しく抱き締められる。その温もりにぴんと張っていた糸が弛んだ。  「俺のことはいいんだよ」  「でも、」  「こそこそと裏で卑怯なことをしているような奴に東雲律が潰されると思う?」  「……おもわない」  「でしょ。だったら、どーんと構えて紡の好きになった東雲律を信じてよ」  自信に満ち溢れた表情に嘘偽りはない。堂々とした律には、これまで積み上げてきた努力と信頼がある。  僕は見誤っていた。スーパーアイドルと崇めながらも、自分が足を引っ張るんじゃないかって不安に思っていた。  だけど、律は並大抵のことじゃ揺るがない。誰も彼を脅かすことはできない。  ――なぜなら、彼はスーパーアイドル・東雲律だから。  「俺の後ろには事務所の人もついてるんだし、そういうのはスペシャリストの大人たちに任せておけばいいの」  「…………ご、めなさ、」  謝罪の言葉を口にしようとすると鼻を摘まれる。もうこれ以上、ごめんなさいは聞きたくないという意思表示だった。  「紡が俺を守りたいって思うように、俺だって紡のことを守りたい」  「…………」  「本当の自分が分からなくなって、みんなに求められる『東雲律』を演じていた俺が、忘れていた感情を取り戻せたのは、紡、君のおかげだから」  「……っ」  「たくさん幸せをもらってる。紡が隣にいてくれたら、俺が不幸になることはないよ」  律の言葉ひとつひとつが心に沁みる。  優しい涙がじんわりと滲んでくる。  それを指先で拭って、律はこつんと額を合わせてきた。  「紡を傷つけた、そんな最低な奴の記憶なんてゴミ箱に捨てちゃえばいい。紡は俺のことだけ考えててよ」  「……うん」  「一緒に幸せになろう」  それは告白というよりもプロポーズ。    甘いキャラメルを溶かしたような大好きな声。国宝に指定すべきほどの美貌。富・名声・力、この世の全てを手に入れたひとが僕だけをその瞳に映している。  長い間、僕を苦しめ続けた呪いは神さまのキスでとける。  何度も何度も遠ざけて、自分勝手に傷ついた。  そんなめんどくさい僕を何があっても好きだと言ってくれる最愛のひと。  腹は括った。僕はもう逃げない。  この愛から目を逸らさない。  「……律だけをずっと、愛してる」  恥ずかしくて、思ったよりも小さな声になってしまった一世一代の告白。それを聞き逃さなかった律は、くしゃりと顔を歪めた。  あ、と思ったときには律の目から宝石みたいにキラキラとした涙がひと粒こぼれ落ちていた。  そんな彼が愛おしくてたまらなくて、つられて泣いてしまう。泣きながら、今までにない幸せを感じて二人で笑った。  「律も泣くんだね」  「紡のせいでしょ」  「うん、ごめん」  「謝ったらその度にキスするから」  「え」  デリカシーのない発言さえも笑って許してくれる。そんな心の広い律に僕は甘えてばかりだ。  これまでできなかった分を補うみたいに、律は飽きることなく何度もキスを落とした。  唇だけでなく、頬や首筋、耳、指先……体中の至るところにマーキングされているみたいで恥ずかしくて堪らなかったけれど、その愛が嬉しかった。  好きな人に好きだと言える喜びを噛み締めて、僕らは狭いシングルベッドにぎゅうぎゅう詰めになって夜を過ごした。広いベッドもいいけれど、肌が触れ合うこの場所も悪くないと思う。  それは、今まで生きてきた中で一番幸福な夜だった。  ◇◇  翌朝目が覚めて、天使の寝顔が視界に入る。よかった、夢じゃなかったと実感する。きゅーっと胸の奥からこみ上げてくる、あたたかなものを噛み締める。  幸せはここにある。ずっと続いている。  今なら触れることも許されるだろうかとそっと手を伸ばして、透き通るように綺麗な頬に触れる。  「……好き」  今まで言えなかった分まで言いたくなって、だけど面と向かっては恥ずかしいから、寝てる今がチャンスだと呟いてみる。  むず痒い気持ちになるのも嫌じゃない。だけど僕は何をやってるんだと我に返ると途端に羞恥心が湧いてきて、ぱっと手を離そうとした。  けれど、それを捕まえられてしまって狼狽える。ぱちりと目を開けた律がぽやぽやと幸せそうに笑った。  「おはよ、紡」  「おはよう」  「もう好きって言ってくれないの?」  「起きてたなら言ってよ……」  聞かれているなんて思っていなかったから余計に顔が赤くなる。見られたくなくてくるりと背を向ければ、後ろからぎゅうっと抱き締められた。  「ふふ、かわいい」  「…………やだ」  「んー?」  「やっぱりこっちがいい」  自分から顔を見せないようにしたくせに、律の顔が見れないのは嫌だと思った。あんなに律の瞳に映ることに怯えていたのに、恋は不思議だ。全てを変えてしまう。  もぞもぞとまた体を反転させて、律の方に向き直る。布団から半分顔を出して見上げれば、律はふうと息を吐いて目を閉じた。  「……律?」  「待って、今、自分と戦ってるから」  数秒経って、律が目を開ける。  困ったような、何かに葛藤しているような表情に思い当たる節がなくて、僕の頭上にはクエスチョンマークが浮かぶ。  「……俺にしかそういうのはしちゃだめだからね」  「?」  「紡は俺のでしょ」  「……ん」  朝から胃もたれしそうなほど甘ったるい。だけど、それが嫌じゃない。  額に贈られるキスに照れる僕を見た律はキス魔に変身する。数週間離れていた時間を埋めるように、僕らは思う存分いちゃついてから起床した。  すると律は何かを思いついたようにスマホを取り出して楠木さんに連絡をとり始めた。話を聞くに、偽アカウントのことをどうにかするらしい。  そうして楠木さんから田島さんに連絡をとると、彼も不審に思って心配してくれていたらしい。僕は周りの人に恵まれていると、また新たに発見する。一度できた縁は本来長く続いていくものなのだと実感した。  忙しいはずの田島さんは嫌な顔ひとつせず、快く協力すると言ってくれて、弦先輩が作った動画サイトとSNSのアカウントがなりすましだというお知らせが正式にJTOから発表された。  勿論SNSは大騒ぎになったけれど、きっとこれもそのうち収まるだろう。流行りやニュースなんてそういうものだと、僕はすっかり学んでいた。  最初は律自身が発表すると言い張っていたけれど、それはさすがに駄目だと事務所に止められたらしい。  『律さん聞いてます? 絶対に反応しないでくださいよ』  隣にいる僕にも聞こえるぐらいの勢いで楠木さんが捲し立てていた。不機嫌そうに口をへの字にした律は「それってフリだよね」と告げて電話を切ってしまった。  僕も止めようとしたけれど、スーパーアイドル様は予想を遥かに越えて我儘で頑固だった。  結局、JTOのお知らせを引用する形で「俺のお気に入りを傷つけることは許さない」と発信してしまったのだ。  取り返しのつかなくなった状況を把握した僕は早々に諦めて、他人事のように楠木さんの胃を心配していた。  律が燃料を追加したことで余計にSNSは盛り上がった。トレンドもいくつか関連ワードが並んでいたけれど、「りつむぐ尊い」なんていう訳の分からない言葉は見て見ぬふりをしておいた。触らぬ神に祟りなし、そんな言葉があるぐらいだから。  楠木さんという尊い犠牲はあったものの、弦先輩を牽制することに繋がったのか、それとも行動に移したけれど週刊誌に相手にされなかったのか。今となっては正解が分からないけれど、いつの間にかアカウントは全て消えていた。  それ以来、彼から連絡が来ることはなかった。先輩も僕を忘れて、幸せになってくれればいいな。素直にそう思うけれど、彼が知れば「嫌味かよ」ってまた怒られそうだ。  僕は彼を忘れて、前を向いて生きていく。  全てが丸く収まって、僕らは愛を育むようになった。

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