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第1話
「次の祝日の予定は?」
何の前触れもなく、ワースはオーターにそう尋ねられた。
魔法局魔法魔力管理局局長室――いわゆるオーターの執務室に入り浸ることが、ワースの日常になりつつあった。そんななんの変哲もない日常の一瞬。
オーターがワースへ興味を示すこと自体が珍しく、本棚に陳列されていた魔導書を読み耽っていたワースは少し考えるように視線を左上へと動かす。
「ああー……」
ワースは読みかけの魔導書を閉じて、再び本棚へ丁寧に戻す。喉の奥から地を這うような絶望的なため息が漏れてしまったのは、今この瞬間にオーターから尋ねられるまで、ワース自身もその予定を忘れていたからだった。
「一年生の補習があって、アベル様の代わりに監督として参加することになってる」
レアン寮、オルカ寮、アドラ寮、それぞれの寮から選出された問題児に対する補習。レアン寮の問題児はシルバだった。
そんな出来損ないのために、監督生であるアベルの時間を消費することも出来ず、ワースはその日アベルの代理として監視任務にあたることになっていた。
「――そうか」
オーターが返したわずかな間に気付いたワースだったが、それ以上オーターからなにかを言われることもなかった。
ただなにかを言い足そうなその視線だけが、静かにワースへ向けられていた。
「マッシュくんマッシュくん、起きないとマズイよ……」
担当教官の目を気にしながら、目を開けた眠っているマッシュを起こそうとしているマックスはアドラ寮監督生であるレインの代理だった。
代理として参加しているのが自分だけではないことに安堵するワースだったが、オルカ寮の監督生の姿がなかった。
オルカ寮から問題児として参加しているのはカルパッチョだったが、目を開けたまま眠っているマッシュにちょっかいをかけようとしているそれを制止させるべき存在がいない。
オルカ寮の監督生といえばマーガレットだったが、わざわざこんな補習に付き合うとも思えず、てっきり誰か代理を寄越すものだとワースは考えていた。
寮生を管理するのが監督生の務めで、頭を抱えながら羊皮紙に向かうシルバへ睨みを利かせるだけのワースは、マックスが一人でマッシュとカルパッチョに振り回されている姿を見て、内心憐れんでいた。
シルバは素行不良なだけで、地頭が悪いわけではない。救いようのない劣等生ならばこうやって何度もチャンスを与えたりもしていない。
ちらりとシルバが様子を伺うようにワースを振り返す。手元では羊皮紙の上で魔術式を書く手が止まっていた。
ワースは後ろから覗き込みながら、シルバが難色を示す魔術式を解説するように筆記していく。
そんななんの変わり映えもしない、休日のひととき。
この時期の昼は短い。
夕刻ともなれば、窓の外はすっかり闇に溶け込んでしまう。
マッシュは開き直り、机に突っ伏して堂々と眠っていた。本日中に提出しなければならない課題は当然の如く真っ白だった。
おそらくこの日課題を最後までこなせたのはシルバだけだった。
ヒールが踵を打ち鳴らす硬質の音が静寂に響き、その音は補習を行う教室へと近づいてくる。
騒がしく扉を開く音にワースが振り返れば、そこにはマーガレットが立っていた。
カルパッチョの監督として来るのは遅すぎる。
頭のてっぺんから爪の先まで華美な装飾が輝き、全く毛色は違うが、ワースはマーガレットを見て別の誰かを想像していた。
静寂の中、教室内を見渡すマーガレットはカルパッチョが椅子を傾けながら揺れるその姿に気づきながらも、視線はその先にいるワースへ向かっていた。
「……なんだよ」
「アナタ、なんでここにいるのよ」
「は?」
何故と問われても、補習の監督生として参加していることは当然マーガレットも知っているはずだった。
遅い時間にようやく姿を現したオルカ寮の監督生から告げられた自らの存在を問うような言葉に、ワースは眉をひそめて問い返した。
「だってワース、アナタ今日誕生日でしょ?」
「あ」
〝誕生日〟。マーガレットから告げられた言葉で、ワースは初めて今日は自分自身の誕生日であると自覚した。
そして同時に、先日のオーターが告げた言葉の意味すら理解し、一瞬ワースの思考が凍りつく。
「オーターちゃん、あんなに楽しみにしてたのに。アナタの誕生日祝うの」
脳が再起動したのと同時に、ワースは箒を片手に教室を飛び出していた。
時刻は既に閉庁を迎えている。それでもワースは魔法魔力管理局の局長室へを向かっていた。
箒を乗り捨てて、真っ暗な省内の廊下をただひたすら走る。
オーターは、ワースの誕生日の予定を尋ねていた。
ワースはこれまで一度もそんな考えに至ることがなかった。
自分の誕生日をオーターに祝われる日が来るなんて、思ってもいなかった。
それなのに、オーターは――
息を整える余裕もなく、ワースは執務室の扉を開ける。
真っ先に飛び込んできたのは大きくて丸い月だった。
オーターは窓際に寄り掛かり、ガラス越しに夜空を見上げていた。
満月には少し足りない、けれどそれでも大きく輝く白い月。
冷たくも優しい、その銀色の光を浴びるオーターの横顔が、どこか儚げに見えた。
そして、ワースの目に映ったのは、オーターの頬を伝う一筋の光。
「にいさんッ……!」
ワースの目には、それがまるで涙のように見えた。
オーターが泣くわけない、それはただの光の錯覚であると、理屈では理解していた。
それでもワースは息を呑み、言い表わせようのない罪悪感に襲われていた。
これまでに比べて、わだかまりは溶解していっている自覚があった。
折角オーターが予定を聞いてくれたのに、誕生日であることを覚えていなかったせいで、オーターの期待を裏切ってしまった。
窓の外を見上げていたオーターが、ゆっくりと視線をワースへ移す。
「……何だ?」
表情は普段と変わらない。淡々とした抑揚のない声色。
オーターからの問い掛けに、何か言葉を返そうとするワースだったが、喉が詰まったように言葉が出てこなかった。
ここで萎縮してしまってはダメだと、ワースは自らに言い聞かせる。
冷たい汗が一筋、ワースの背中を伝い流れた。
「ご、めん……」
ふらりとおぼつかない足取りでオーターに歩み寄る。
閉庁され、真っ暗な魔法省。ただ一人、執務室で待っていたオーター。
たった一人で月を見上げ、何を思い続けていたのか。
デスクの上には、湯気も浮かばない紅茶のカップがあった。琥珀色の茶面に白い月が静かに揺れる。
先に求めたのはどちらだったのか。
歩み寄る歩調が速まり、窓際へと駆け寄ったワースはレースカーテンをがむしゃらに引き、自分とオーターの姿を白く輝き続けながら見下ろす月から隠す。
重なり合う二つの影が月の光に照らされながら揺れる。
――そこに、言葉はなにも無かった。
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