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第1話
回転を始めた盤の溝の上へ、ゆつくり針を落とすと、幽かな摩擦音が空気に滲む。
数秒の沈黙の後、柔らかな旋律が立ち上がる。
一粒ずつの音が、躊躇う様に間を含み乍ら、薄暗い空間に広がって行く。
何処か懐かしく、祈る様な旋律。
胸の奥を撫でて行く様な、穏やかな弦の調律。
音は決して大きく無いが、穏やかな温度を以て此方へ迫って来る。
言葉を持たない筈の旋律が、不思議と語りかけて来る様だった。
机の上には、深い色合いのカップに注がれ、湯気を立てるチャイ。
手に取ると、指先からじわりと温もりが伝わって来る。
カップを唇に寄せ、一口含むと柔らかな渋みと仄かな芳香が喉を滑り落ちて行く。
ウォッカの瓶を片手に取り、カップの中へと注ぐも、中から滴るのはほんの数滴。もう凡て飲んで了った。
此の極上のウォッカは、昨晩やけに上機嫌だったドス君が持ち込んだ物だ。
当の本人は、今も未だベッドの上で、此方に背を向けて眠っている。
昨晩のドス君は異様な程に可笑しかった。
其の異様さを、僕が見て見ぬ振りを出来ない程に。
僕の好物のピロシキを携え、其れに合う極上のウォッカを持って。
僕の機嫌を取る様な言動、此れ迄の君なら絶対に為なかったのに。
昨晩のドス君が迚も上機嫌だった理由、僕は知って居るよ。
昨日、〝彼〟を抱いてから僕の処に来ただろう?
〝彼〟を抱いた、其の手で僕に触れて。
〝彼〟の名前を呼んだ、その唇で――
〝Я болен, потому что люблю тебя.〟
なんて戯言を云えるんだ。
足音を立てずに静かに近付けば、僕にだけ見える耳の裏の小さな引っ掻き傷。
此れは、僕が付けた物じゃない。
〝彼〟と同じ香りを纏ったドス君が、ピロシキとウォッカを持参して、此処に来た其の時点で既に残されて居た痕だった。
僕がドス君に触れる前から、其の徴は薄らと、だけど明確に残されて居た。
其れに気付かないドス君では無いと云う事を、恐らく僕が一等善く識って居る。
まるで泥棒猫と云われて居る様で。
――本当の泥棒猫は一体何方なのか。
ベッドの端に腰を下ろして、未だ目覚めないドス君の、真夜中の様な漆黒の髪を指先でなぞる。
未だ其処に薄く残る痕へ顔を近付け、息を止めて、舌を伸ばす。
ドス君の唯一で居たいとか、そんな独善的な感情では無くて。
僕以外に触れた其の指で、舌先で――どんな想いで昨晩僕を抱いたのだろうって。
舌先で、糸の様に細い緋い痕をなぞって、声を出さずに唇丈を動かして、告げる。
――:К черту.(地獄に堕ちろ)
はたはたと水滴が堕ちて、ドス君の首筋を濡らす。
「あ、れ……?」
如何して、僕は――。
流れる涙の意味は解らなかったけれど、もうドス君とは居られない事を悟った。
次の瞬間にはもう、此の場から逃げ出す事だけを考えた。
だけど、それは叶わなかった。
「コーリャ、何処へ行くんです?」
〝Коля 〟。ドス君は睦言の時丈、僕の事をそう呼ぶ。
壁に身を向けた間々、此方を振り返ったりもしないで、僕に呼び掛ける。
情けなさと、怒りが同時に込み上げて来て、ドス君を肩を掴んで振り返り様に唇を重ねた。
多分此れが、最後の口吻だから。
幽かな水音と、小さな吐息丈が寝室に響いて、昨晩を想い出しそうだった。
ドス君が、僕を食べる様に、起き上がって積極的に僕を欲する。
――僕ではない〝彼〟を求めた其の唇で、其の舌先で。
堪らなく為ってドス君を突き返したら、次の瞬間にはベッドに押し倒されて居た。
ドス君は僕の上に乗って、僕を見下ろす。
目許が熱く為って、視界が揺れた。
「……もう、終わりにするっ」
「何故ですか?」
両手で顔を覆い隠せば、ドス君は手首を掴んで引き剥がそうとする。
普段通りの穏やか乍ら、僅かに怒気を含んだ言葉。
「僕はっ……自由が佳いんだ」
「そうですね」
鳥の自由が羨ましい。
〝何〟にも縛られない自由が欲しかった。
ドス君の手が、僕の手を顔から引き剥がして、慈愛に満ちたドス君の顔が見えた。
両手でドス君の手を摑んで、其の指に自分の指を絡ませる。
まるで祈りを捧げる様に。
「……嗚呼、駄目だ……駄目なんだよ、Федя ……」
自由を求める僕が、束縛を嫌う僕が、誰かの自由を奪って佳い謂れが無い。
摑んだ手が震える。熱くて寒い。
ドス君は僕の目許に口吻けて、ドス君の舌が目尻を這う。
熱くて、火傷を為て了いそうだった。
ドス君は優しく微笑み、其の口許が狂気に歪む。
絡ませた指が、ぎしりと痛んだ。
「ずっと、貴方の|気狂い《嫉妬》が見たかった」
狂って居るのは、屹度僕丈じゃない。
反論の言葉は、深い、深い口吻けで塞がれた。
「……っ、フェー、ジャ、っ」
「云ったでしょう? コーリャ。
:Я болен, потому что люблю тебя.(狂惜しい程、愛して居る)と――」
円盤の上をなぞる針が僅かに跳ねると、旋律は途端に不協和音を奏でる。
回り続ける円盤の上で、音は只の雑音に変貌を遂げた。
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