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第1話
なるべく平凡に生きるようにしてきた。クラスのカースト戦争には関わらないようにしてきたし、下手に目立つ真似も浮くような真似もしてこなかった。多分これからも、ほどほどの大学を目指して勉強して、ほどほどの企業に就職して、ほどほどに生きていくんだと思っていた。
高校二年になってすぐの四月、ゴールデンウィークのことしか考えられなくなってきた頃。昼休みだった。校舎一階の正面玄関近くのトイレを出たところで、どなる声が聞こえてくる。驚いて見れば、靴箱のほうに向かって仁王立ちしている教育指導担当の教師がいた。曲島(まがじま)という嫌われがちな中年の男教師。その視線の先を見れば、今登校したかのように靴箱から上履きを出している男子生徒が一人いる。彼を見て思わずかけている眼鏡を押し上げた。俺は彼を知っている。というより、彼は少し学校の中でも有名人だった。
「湊! いま何時だと思ってる! これから教育指導室に来い!」
上履きを持った生徒は湊就(みなと しゅう)。一年生だが、本当は俺と同じ学年のはずで、つまりは一年ダブっているのだ。その理由について結構物騒な噂が立っていたので俺も覚えている。なんか、他の学校と喧嘩してたとか、そのあと入院して出席日数が足りなくなったとか。結局本当のことは分からないけど、俺が一度だけ見たことあるときから髪は黒いし、制服も着崩してはいるけどちゃんと着ていたから、他の態度が悪そうな生徒とそんなに変わりないように見えていた。
けど今玄関に立っている湊は明らかに喧嘩をしてきた後って感じだった。口の端は切れたのか血が出てるし、上履きを持つ右手にも怪我が見える。遅れてきた理由もそれに関係することなんだろう。湊はじっと曲島を睨みつけている。
「……俺、今来たんですけど」
「だから言っている。午前は何してたんだ」
「関係ないでしょ。それに、午後の授業に出るんだから、教育指導室なんて行ってる暇ないんだけど」
「なんだその口の利き方は!」
周囲にいた生徒が見ないふりをして散っていく。俺も逃げるべきだったんだろうけど、……だけど、湊の日に焼けた肌についている血や、シャツについた土汚れを見て、どうするかなんて考えるより先にふらふらと曲島に向かって歩いて行ってしまう。
「……あの、曲島先生」
「なんだ!」
「あっ、あの! ……えっと、湊、怪我してるみたいじゃないですか」
「だからどうした。保健室にはあとから行かせる。こいつなら勝手に帰りかねんだろ」
「保健室は、先に行ったほうがいいんじゃないですかね。その、血が出てるし……それに午後の授業だって、出るつもりで登校してきたみたいですし」
「そうだよ、そのつもりで来たんだって」
湊が口を出してくる。俺は何を話すか決めないまま口だけ先に動かしているせいで、必死に頭をフル回転させて次に何をどう言えばいいのかと混乱している。
「湊! お前は……!」
「ああああの! 曲島先生、その、お……僕が、湊を保健室に連れて行ってから教室に連れて行きますから。だから教育指導室は放課後にしてもらえませんか。多分、そのほうが湊のためになりますし」
「俺もそれがいいと思う」
「湊!」
火に油を注がないでほしい。どうしようかと思ったところで、別の男性教師が駆けつけてきた。逃げた生徒の誰かが職員室にチクったんだろう。お陰で曲島は男性教師に宥められつつ引っ張られていった。もちろん駆けつけた方の教師からも湊には少々のお小言が飛んだけど、湊は全然気にしていないように靴を靴箱にしまっている。
俺はなんとか場が収まったことに安心して腕時計を見た。昼休憩が半分終わってしまった。弁当はさっさと食べたからいいけど、昼寝する時間が減ってしまった。
「ねえ」
「うわっ」
声をかけられて驚いてしまう。湊が俺の目の前に立っていた。
「な、なに」
目線が少しだけ下がる程度で、やっぱり本当は同学年だからか身長はあまり変わらないらしい。だけど擦り傷がある手首なんかが細い。ひょろひょろしたやつだ。
「保健室。連れってってくれるんでしょ」
「え? ……ああ……」
口からでまかせだったけど、確かに言ってしまったのだからしょうがないのか。というか別に自分一人で行けばいいんじゃないのか。そう思いつつも正面から見た時に細かい傷が多いことに気づく。……連れて行ったほうがいいか。
「……じゃあ、行くか?」
「うん」
思いのほか大人しく頷いた湊を連れて保健室に向かう。一回しか使ったことないけど、この校舎の一階の奥にあるのだ。
保健室につくと、外出中の札がかかっている。その下には保健室自体は使っていいことと、使用者メモには記入することが書き込まれている。使っていいのか。保健の先生は男だが、比較的緩いことで知られていて、俺も体育でミスってねん挫したときに「つらいなら一限はサボっていいぞ」と言われたのだ。あの時はありがたく昼寝させてもらった。
湊が躊躇いなく中に入るから俺も続く。電気も勝手につけているのを見ると慣れているのかもしれない。湊はリュックを下ろすと、場所を知ってるようによどみなく棚を開けたりし始める。
「あ、おい……」
「準備は俺がするから。適当に座っててよ」
保健室に俺が残る必要はあるんだろうか。分からないが、仕方なくパイプ椅子に腰を下ろす。湊は手際よくテーブルに手当て用らしい道具をそろえると、俺の隣の椅子を引いて、俺に向かって座り込んだ。
「ねえ。名前、なんていうの」
「俺? ……園村優二(そのむらゆうじ)」
「園村さん、二年か。バッジ付けて真面目だね」
学年ピンは夏服だとつけ忘れることが多い。ただ、何かやってしまったときにぐちぐち言われる隙があると時間がムダにかかるから真面目にやってるだけだ。湊の言葉はなかなか不愛想で、俺は揶揄われたのか分からなくてリアクションもうまく取れない。
「湊はつけ忘れたのか」
「うーん、そう」
嘘っぽいな。
「ねえ園村さん、手当てしてよ」
え、と思わず聞き返してしまう。手当て。そんなことしたのは随分前だ。妹が小さいころに転んで擦りむいた膝にばんそうこうを貼ったくらいだろうか。
「手当て……って」
「利き手やったから。水で流したけど、ガーゼ当てときたいから」
「……分かった」
よく見れば右手の甲側、指の付け根のところがひどい怪我だ。血が少し滲んでいる。思わずくらっとする感覚があったが、本人が一番痛いだろうし、歯を食いしばって湊の手を取る。
「消毒とかか?」
「それはいい。ごみとかは洗ったから、ガーゼ当てて、テープ止めて、ネットかぶせてほしい」
そう話しながらテーブルの上の道具を指さす。本当に手馴れているんだろう。怖い奴だ。思いながら大人しく教えてもらった通りに湊の手の傷を手当てする。ガーゼを止めるとき、少し声を漏らしていたから慌てて手を止める。
「悪い、大丈夫か」
「……いいよ。気にしなくて」
無茶言うな。思いながらネットを切ってガーゼを覆ってやる。湊が少し明るい茶色っぽい目でガーゼを見つめ、手を握ったりしている。
「園村さん」
「なに」
「あんまり上手くないね」
「悪かったな」
わざわざ言うことか。目じりの上がった湊の目が細まる。笑われた。ため息をつくしかない。
「こっちもお願い」
そう言って左手を出される。上手くないのにさせるのか。こちらはところどころ擦りむいているくらいだ。ガーゼと絆創膏を貼ってやる。見た感じあとは口の端のところだけか。
「……なあ」
「なに」
「喧嘩、したのか」
興味本位で聞いてしまう。だけど手当てしたんだし、何より曲島から助けたんだから聞いたっていいんじゃないか。湊が俺を見る。そしてまた目を細める。
「してない。猫助けるために木に登って落ちただけ」
「嘘つけ。……嘘だよな?」
「園村さん、人によく揶揄われるでしょ」
そうだよ、悪いか。
結局本当はどうだったか教えてくれず、湊がくすくすと笑うだけだ。そして小さく顔をゆがめる。切れてた口の端が痛んだのかもしれない。また無表情になる。
「ねえ、園村さん」
「……なに」
「園村さん、自分のダイナミクス知ってる?」
突然聞かれて瞬きする。眼鏡を押し上げた。
「検査は高三だろ」
「でも自分で分かるものじゃない?」
湊が小首をかしげる。俺とは違う、少し茶色っぽい瞳。
ダイナミクス。普通であれば十八歳前後で検査を受ける第二の性。支配的なドムとか、支配される側のサブとか、あとなんかもう一つくらいあったけどなんだっけ。だけどどれも確率は低いらしいし、大概は特に何もないユージュアルになるらしい。昔はノーマルって言ってて差別だとかでそんな発音しづらい言い方になったらしいが。俺はユージュアルだろう。ダイナミクスを保健体育の授業で聞いた時もピンと来なかったし。
「俺は……別にユージュアルだと思うけど」
「そう? 俺は園村さん、ドムだと思うけど」
……。ドム? って、確か支配したいって方だよな。
「そんなわけないだろ」
思わず少し笑いながらそう言ってしまった。湊は表情を変えず俺を見ている。
「どうして」
「だって……別に、支配したいとか感じたことないし。というか湊こそどうして俺がドムだと思うんだ」
「俺がサブだから」
言葉に詰まる。別にダイナミクスの話をすることは珍しくない。ただそれはもっと上の世代の話で、俺たち高校生くらいの年齢とかだとふざけて「お前ドムっぽい」と下世話な使い方をされることが多いと思う。俺はそういう会話には混ざらないようにしているし、そういうノリになったら黙ってるタイプだけど。
「検査したのか?」
「ううん。でも分かる。俺が個人的に強いだけかも。だから園村さんが、グレア出してきたあのクソみたいなドムの先生に反応して、サブの俺を奪いたくなって入ってきたのも分かる」
「……な」
「気づいてなかった?」
また小首をかしげる湊に俺のほうが首をかしげたいくらいだった。グレア。なんだっけ。とにかく曲島はドムだったのか。言われてみれば支配欲は強そうなタイプかもしれない。でも、それに俺が反応した? 何か感じたか思い出そうとするけど、正直分からない。だけど湊はそう言っている。
「そんなはずないだろ」
「試してみる?」
訊ねられる。少し茶色の湊の瞳。俺は、何を試すかとか、そんな必要あるのかとか、言いたいことはあったけど息をのむだけにしておく。湊が立ち上がって座っていたパイプ椅子をどかす。
「はい」
「……?」
「コマンド、使ってみていいよ」
「え?」
「授業で習ったんじゃない。簡単なやつくらい覚えてるでしょ、《目を見ろ》とか《その場に座れ》とか」
習ったことはある。だけどやっぱり言いたいとは感じない。授業で見ていても何も思わなかったんだから当然だ。
「いや、いいよ」
「別に。ユージュアルだったら何も起こらないだけでしょ」
「でも」
「言ってみて。《目を見ろ》って」
どうやら湊は試さないと終わらせてくれないらしい。どっちが支配したがっているのか。けど言って終わるのならとっとと済ませたほうがいいのかもしれない。仕方ないか、俺は呆れ半分諦め半分で、薄く笑っている湊を見上げる。
「分かったよ。……湊、《俺の目を見ろ》」
ぱち、と瞬きをした湊の瞳が俺を見つめる。
その瞬間だった。
じわ、と胸の奥が何かに満たされる心地がした。温かい何か。それが満足感だとか、嬉しいだとかいう感情に近いのだと理解した時、俺は鳥肌が立つのを感じた。
「……どう?」
目が細まる湊の表情が、なんだかさっきと違う気がする。なんだろうか。美味しいものを食べた時のような。ほしいものを手に入れた時のような。俺は唾を飲み込んだ。
「……《そこにひざをついて》」
命令口調になるのは難しかった。とにかく、湊に言うんだという気持ちが伝わるように言葉にする。湊は、俺を見つめたまま、ゆっくり両膝をついた。
その姿勢のまま湊が俺を見上げている。ぞくぞくと背筋を這い上がる何かがある。どうしよう。湊の言う通りなのか。心臓が痛い。血がどくどくと巡る気がする。
「……っ」
「園村さん」
「な、なに」
「俺、ちゃんとできたでしょ? ならアフターケアしてよ」
ケア。ドムがサブに与えるご褒美。何をすればいいか、考える前に俺は手を持ち上げていた。そして湊の頭に乗せる。少し汗をかいた、さらさらとした髪の感触。
「……よくできた」
そう言って撫でる。すると湊がおかしそうに笑った。なんだ、間違えただろうか。思っていると、湊が俺の手を取って自分の頬に当てる。
「頭もいいけど、こっちのがいい」
頬を撫でろということだろうか。無抵抗に、肌に触れている親指を撫でるように動かすと湊が満足そうな顔をした。サブは褒められると喜ぶんだったか。俺は俺の手にすり寄るように頭を傾ける湊を見て、頭がぼうっとするのを感じていた。
「セーフワードも決めてないし、ここまでにしよ」
湊の言葉にハッとする。そうか。俺、いま、プレイしてたのか。ドムがサブに命令をして、それにサブが従って、ドムが褒める。一連の流れで言えばそうだ。だけど実際のプレイは突き詰めればとんでもない行為も含まれていく。そもそも学校の保健室でやるようなことでもない。慌てて湊の頬に触れていた手を放す。
「わ、悪い」
「謝ることないでしょ。でも園村さん、もう自覚したんじゃない?」
「……」
「ね、知ってる? 自覚するとドムもサブも欲求が強くなるらしいよ」
「は」
「だから高校三年で検査するようになったんだって。俺みたいに自覚が早い奴もいるけど」
そうなのか。あまり積極的に入れてこなかった知識を怒涛のように入れ込まれて、体感までしてしまって、俺が呆けている間に、湊が椅子に座りなおして口の端に絆創膏を貼っている。まぁ、そこは自分でできるか。
「園村さんさ、チャットのアカウント教えてよ」
「……なんで」
「俺が知りたいから」
さっきから湊に上手く誘導されている気がする。俺のスマホのチャットアプリにはそれほど多く友人が登録されているわけでもない。学校の生徒なんてクラスメイト数名がせいぜいで、まさか学校の同学年では誰もが知っているような湊就とアカウントを教えあう日がくるとは思いもしなかった。
スマホを取り出してアカウントを見せる。湊がアカウントを追加したらしく、俺に「よろしく」とだけ書かれたメッセージが届く。
「ねえ、他にサブの知り合いいる?」
「……いないって。だから、同じ学年だと、お前みたいに自覚でもしてないと検査してないんだから分からないだろ」
「ふっ、そうかもね。じゃあいま園村さんがダイナミクス出せる相手って俺だけ?」
なんだろう。湊はやっぱり他の生徒とは空気が違う。素行不良だからだとか、一年ダブってるからだとか、そういうことじゃなくて。お互いのダイナミクスを知ったからだろうか。
「変な言い方するなよ」
「別に変ではないでしょ」
「……というか、湊、午後の授業ちゃんと出るのか」
「保健室登校にするつもり」
都合がいいもんだ。
予鈴が鳴る。あと五分で昼休みが終わる。俺は立ち上がって、湊が出した道具を片付けるのを手伝った。その間二人とも何も言わなくて、保健室から出ようとするのは俺一人だ。本当に保健室登校するつもりか。
「園村さん」
「なに」
「……なんでもない。またね」
パイプ椅子に座ったまま俺に手をひらひらと振る。日に焼けた肌。黒い髪。目じりが上がった、少し明るい茶色の目。またね、なんて。またが来るのか。俺はどうなってしまうんだ。分からないまま保健室を出る。腕時計を見るとあと三分だ。俺は急いで教室へと向かった。
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