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第26話 奏汰の迷走(1)
─独白─
『やだ!汚い!』
初めて精通は夢精だった。尿とは明らかに違う何かに病気になったかと怯えた。小学五年生だった。
わけも分からず汚れた下着を持って祖母の部屋の前で右往左往していたら、祖母に放たれたのがさっきの言葉だ。その時の汚物を見るような祖母の顔と俺を避けた仕草がいまだに忘れられない。
ショックで固まっていたら、普段挨拶すらしない一つ上の兄が無言で下着を奪い取って洗ってくれた。これからこういうことがあったら自分で洗えと教えてくれた。それから誰でもあることだから病気じゃないとも教えてくれた。
兄が優しくしてくれたのは人生でそれだけだったが、その時ばかりはひどく頼もしく見えたのを覚えている。
性的なことを遠ざけられて育てられたから、自分の性器から出る体液が何なのかを知るのはそれからもう少し後だった。
教師をしている両親に代わって、俺と兄と妹はほとんど祖母に育てられた。祖父はとっくに他界していて、祖母は母親の役目を母から奪い取り、二回目の育児に精を尽くした。
父の母である祖母は厳しい人で、特に長男である兄にキツく当たっていた。
兄は何をやらせても不器用で、性格も捻くれていた。学校でもよく問題を起こし、たびたび祖母は学校の先生と電話をしていた。
小さい頃から兄のやらかしのとばっちりで、一緒に怒られていたり、罰を受けていた俺と妹は自然と兄を憎むようになっていた。それが兄の孤独感を深めていることには幼過ぎて気づくことはできなかった。
家族の中で孤立せざる得なかった兄は中学の頃に地元の不良とつるんで警察沙汰になったことも何度かある。
今、思うと兄は何かの障害を抱えていたのではないかと思うのだが、今となってはもうどうしようもない。兄は三年前に底辺の高校を卒業したと同時にどこかへ行ってしまった。
そんな兄を間近で見て比較され続けた俺は祖母、ひいては周りの大人、同級生、その保護者達の機嫌がとれる方法を自然と習得していった。
勉強も習い事もそつ無くこなし、四つ下の妹の面倒をよく見た。だから俺は祖母によく可愛がられた。『奏汰はお兄ちゃんと違って良い子だね』と平然と兄の前で口にするような祖母だった。愛情不足の兄は俺を敵視していたし、俺も不器用な兄を蔑んでいた。
兄弟仲はかなり小さい頃から冷めていた。
そんな祖母の元にいたものだから、性的なことを知るのはとても遅かった。男と女がどうしたら子供ができるのかを知ったのも中学に上がってからだった。
性的なことを遠ざけられていた反動で中学生になるとあらゆる手を使ってこっそりとエロコンテンツを調べ尽くした。
反面、性的なものへ興味を持つたびにその何倍も罪悪感を持った。幼い頃、祖母に『汚い』と罵られたものを生産して吐き出す行為に興味を持っている自分はひどく罪深くておぞましい生き物な気がした。あの時の記憶は俺が性を知れば知るほど俺を苦しめ続けた。
俺はいやらしいことが大好きな汚い人間だ。
自慰行為はゴミ箱ですら監視している祖母が住まう家ではできずに、わざわざ駅や公園のトイレでしていた。放課後、個室に入って声を殺して抜くのが癖になっていた。トイレに入ってくる男の足音や用を足す音に興奮した。見つかったらどうしよう、と怯える反面、見つかってめちゃくちゃにされたいという欲望が芽生えていった。
抑圧された性欲は捻じ曲がった欲望を構築していた。
その過程で男が好きだと自覚した時は絶望的な気持ちになった。祖母は時々「奏汰のお嫁さん見るまでは死なない」と冗談めかして言っていた。それがたまらなく苦しくて何度、俺は男が好きだと叫び出しそうになったか分からない。
男に組み敷かれてみたい、男のものを舐めてみたいといった生々しい欲望をひた隠しに過ごしていた。バレたら死ぬしかないと思っていた。
自己否定はますます俺の性欲を高まらせて、ひん曲げていった。
男を知りたくて高校ニ年でSNSを使って会ってくれそうな男を探した。そこで出会えたのがカイくんだった。彼は界隈ではちょっとした有名人だった。俺も例に漏れずミーハーな気持ちでカイくんに近づいたのだ。
けれどもカイくんは年齢を詐称した俺のことを見抜き、未成年と成人が性行為をしてはいけないと諭してくれた。高校を卒業したら抱いてあげると言われ、その時は何もせずに帰らされた。
高校卒業後にダメ元で連絡をしたら、俺のことをちゃんと覚えててくれた。彼と再会できた俺は初めて男を知った。その時からずっとカイくんに恋をしていた。
俺は男に抱かれる気持ちよさやベッドの上で自己解放する快感を知ってしまった。カイくんの前では自分は自分の欲望に忠実になれた。カイくんは他人の本質を見抜くのが上手い。それはカイくんの魅力の一つだった。
カイくんは俺の抑圧された性的欲求をいつも昇華させてくれた。セックスは汚い行為なんかじゃなかった。楽しくて気持ちが良くて生きてることを実感させてくれる行為だった。性=汚いものと刷り込まれた俺を救ってくれた。
カイくんは俺にいろんなことを教えてくれた。俺を人間にしてくれたのはカイくんだ。カイくんは俺の神様だった。
カイくんを追いかけたくて勝手に家から遠い大学を受けた俺は、高校卒業間際に祖母との仲が険悪になった。祖母は元々ヒステリックな面があったが、それが顕著になった。高校を卒業した兄が行方をくらまし、さらに目をかけていた俺が祖母の希望する大学を受けなかったことが気に入らなかったのだろう。
大学に入学してしばらく経った後、両親と相談して俺は家を出る事にした。その頃、祖母のヒステリーは病気と言えるほど悪化していて、俺が家を出ていくその日まで毎日裏切り者と泣いて叫んで暴れていた。
しかしカイくんに恋をして自我が芽生えた俺は遅い反抗期を迎えていて、祖母のことを平気で見捨てた。
俺が家を出た後、祖母の認知症が急速に悪化し、今は施設にいる。俺のことを覚えているかは分からない。俺は一度も会いに行っていないから。
祖母に育ててもらった恩よりも祖母から解放されたことが嬉しかった。体が軽かった。頭も軽くなった。自分の軽薄さに驚いた。自分はもっと良い子だと思っていた。
祖母思いで、妹思いで、出来の悪い兄の代わりに懸命に良い子をしていた。
けれど、いつだって叫び出したかった。
おばあちゃんの作ったおやつなんか嫌いだ。チョコレートやケーキが食べたかったし、運動部なんて入りたくなかった。文化部に入りたかった。勉強も習い事も全然好きじゃなかった。歌音と遊ぶのは好きだった。歌音が好きだったんじゃない。歌音の持っている人形の服や靴、綺麗な塗り絵が好きだった。おばあちゃんはお洒落なものは持たせてくれなかった。男の子なんだからこういう服を着なさい、男の子なんだからすぐ泣くんじゃないと言われるのが大っ嫌いだった。
今、俺は自由だ。好きなものを食べて、綺麗な香水を集めて、好きな服を着て、好きなことを勉強して、好きなサークルに入って、好きな男と好きなだけ性行為ができる。
男とセックスしているなんて知ったら、男に抱かれてアンアン言ってるなんて知ったらショックで祖母は死んじゃうかもしれないな、なんて意地悪なことを考えては想像して笑ってしまう。
俺は本当はちっとも優しくなくて淫らなことが大好きな悪い子だ。
悪い子です。悪い子なんです。
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