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本文
自由のために、ケビンは片目を潰した。
薄暗い部屋で、男同士の性交の映像が流れていた。ブラウン管は、ケビンの陰茎を照らしていた。血管拡張剤を注射されていた。勃起していた。自分のそれが、ケビンには悪魔の爪のように思えた。悪魔がケビンに爪を突き立てているのだ。陰茎は熱いのに、肉体は冷えきっていた。顎が鳴っていた。舌が喉の奥で丸まっていた。
男たちが入ってきた。白衣を着た三人だ。ケビンは彼らに押さえつけられた。ブラウン管で、男同士がキスをしていた。腕に、アポモルヒネの注射器が近づいていく。吐き気が込み上げた。光の中で二人の男がほほ笑んでいた。目を合わせて、真っ白な部屋で、二人きりで、寝そべっていた、幸福そうに。注射針が突き刺さった。全身に亀裂が走った。ケビンは注射器を奪うと、それを左目に穿ちつけた。
⁂
夏の朝だった。
落書きされたスチール製のゴミ箱に、ケビンは座ってもたれていた。爪先には消火栓が立っていた。左右は、排気ガスのこもる道路と、足音の増え始めた歩道に挟まれていた。
「春はよかったな」
呟いて、起き上がった。どこかで拾った洗いざらしのジャケットは、薄い生地から、濃い臭気を上げていた。ケビンは歩道に分け入った。歩行者の革靴、パンプス、スニーカーが止まった。ケビンはうつむいたまま、路地裏へ進んでいった。
春は大規模なストライキがあった。そのおかげでしばらく地下鉄は空いていた。そこで静かに過ごせた。ほかのホームレスも居たが、彼らはケビンに近づかなかった。奪えるものは衣服しかなく、何よりケビンの顔には訳ありげな痕跡があった。ギャングの抗争が激しさを増していた。新聞でも取り沙汰されていた。ケビンはそういう奴らの下っ端で、ヘマをして身を隠しているのだと、彼らは勘ぐっていた。
非常階段を登ると、格子状の踊り場にジャケットを敷いた。その上にあぐらをかき、紙袋を置いた。売春の金でさっき買ったのだ。汚らしくても、ケビンはまだ若かった。踊り場の横は、広めの路地に面していた。そのあいだにはパブの縦型電飾があった。身を隠すには丁度よかった。ガキたちに食料を奪われるのも、それを追い返して、今度はケビンが警官に追われるのも、嫌だった。
垂れた上瞼を、汗が過ぎる。内側にもぐり込んでから、頬に落ちた。ケビンには左の眼球がなかった。入院中に、注射器を突き刺したのだ。ハイティーンの頃だった。
レンガ壁にもたれて、ロールパンをかじった。ケビンにはもう一つ、この場所を選ぶ理由があった。向かい側にもアパートがある。その斜めにある部屋だ。男の後ろ姿が見えていた。彼が椅子を立つと、女の油絵が現れた。裸で、金髪をとかしつけている。片目でも、その絵の美しさは充分わかった。
完成したのだと、ケビンの頬は緩んだ。でも、ほんの少し寂しかった。男の様子をうかがうのは、絵の完成までと決めていたのだ。ロールパンの味がしない。砂を噛んでいるようだった。さっさと立ち去ろう。そう決めた。
紙袋とジャケットを片腕に抱え、手すりを握った。慎重に階段を降りていく。手すりはぬるかった。日陰に行きたかった。片目になってから、太陽がひどく眩しい。
「おーい!」
暗い視界から、柔らかな声がかかった。
ケビンは首を巡らした。身を乗り出した男が手を振っていた。あの画家だ。彼は窓枠に組んだ腕を置き、笑った。
「モデルになってよ」
男はジョンと名乗った。もちろんモデル料を払うと言った。からかわれているのかと、ケビンは疑った。その反面、声は耳に残り、笑顔は片目に焼きついていた。何も答えず階段を降りていく。一歩ずつ降りるから、鉄製の階段はギシギシと鳴った。
「夢を見るんだ」
ジョンが言った。葉音のような声だった。
ケビンは振り返らず、足だけを止めた。細い路地だ。でも、空の眩しさはここでも変わらない。
「僕は島流しに遭うんだ。昔のイギリスがしてたみたいにね。その島で、ひとりきりなんだ。何もない。家族も友人も、そして信じるべきものも」
ジョンが間を置いた。
ケビンは浮かした右足をじっと見つめていた。履き潰したスニーカーがこぼれ落ちそうだった。
「でも僕は生きていた。息をしていた。鼓動を打っていた。太陽と波しぶきを感じていた。そうしたら、誰かが隣に座っていたんだ。逆光で何も見えないけれど、たしかにそこに居たんだ」ジョンはおどけて言った。「いつもそこで目が覚める。僕はその誰かを描きたい」
「それは俺じゃない」
ケビンは言った。スニーカーが転がり落ちた。怒りが湧いた。
「もっと見合った奴はいる」
挑むように半面を見せつけた。
ジョンはあっさり答えた。
「僕は君を必要としてる。対価も払う。それだけだ」
部屋番号を言って、立ち去る足音がした。
ケビンは階段を降りると、スニーカーに足を突っ込んだ。もう一度脱いだ。裏返すと、ソールが剥げていた。靴は大事だ。不良と警官から逃れるために、必要不可欠だ。青いつなぎの男が、段ボールを抱え、パブの裏口へ入っていった。
誰かと話したのは久しぶりだった。
靴を買うためだ。そう言い聞かせ、3‐4に向かうことにした。
⁂
油絵具の匂いがむっと押し寄せていた。その中でケビンだけが石鹸の香りをまとっていた。シャワーを浴びたあとだった。壁際のベッドで片膝を立てている。顔や首、腕は日に焼けていた。白いのは腹や脚で、骨が薄く浮いていた。窓の向こうの非常階段が見えていた。日差しは強かった。
キャンバスに鉛筆を走らせる音がしていた。ジョンのヘーゼル色の瞳が瞬いていた。
ひどく暑い日だ。
ジョンの額から汗が流れ、ケビンの白い胸にも汗が伝っていた。
ケビンは言った。
「お前の言っていたこと、わかるよ」
ジョンは鉛筆を止めた。
ニス塗りを終えたあの絵は、イーゼルに立てて、窓際に置いてあった。
ジョンが聞いた。
「どういう意味だい?」
鉛筆がパイン材のテーブルに置かれた。
テーブルには画材が散乱し、その中にコーヒーカップと灰皿があった。灰皿はいっぱいだった。煙草を吸うジョンの姿を見てみたいと、ケビンは思った。非常階段からは見えなかった。
ジョンが言葉を待っていた。
ケビンは目をそむけると、立てる足をかえ、股間を隠した。裸が急に恥ずかしくなった。動揺を隠し、教師のように答えた。
「失えないものに気づけるんだ」
工事の音が小さく聞こえていた。どこかのラジオがヒップホップを流していた。でも、それらは遠のいていった。自分の発した言葉が、左頬に感じる視線が、ケビンをこの空間に集中させていた。
折畳み椅子が鳴った。日差しの広がる右目に、ジョンが近づいてくる。ケビンの鼓動は早くなっていく。目を閉じたいと思った。暗闇のなかに隠れたかった。それなのに、彼に触れたいと、その衝動がわだかまり、動きを重くしていた。
ベッドが軋んだ。ぬくもりに、頬が包まれた。ジョンの手だ。硬直が解けていく。ケビンはジョンを見つめた。イーゼル色の瞳は、木洩れ日のように美しかった。
「俺は片目と家族を失った。
家族は俺を案じていた。普通の男として生きていけるように、必死で治療しようとしていたんだ。それは紛れもなく、優しさだった。誰がなんと言おうと、親が子を想う優しさだった。でも俺は――」
言葉がこぼれた。「俺は……俺を殺せなかった」
ジョンの瞳がにじんだ。息苦しくて喘いだ。手を握られた。ジョンのキスはあたたかった。涙が溢れていく。左目からも、たしかに涙は流れていた。ジョンの体重がかかった。それをケビンは受け入れた。
「僕はずっと君に気づいてた」
ジョンの言葉は甘かった。
耳朶を噛まれると、その甘さは刺激に変わった。全身が震えた。震えた先に、ジョンの体があった。抱きしめながら、ケビンはジョンに頬ずりをした。そして言った。
「お前の顔が見たい」
日差しを遮って、ジョンは笑った。
もっとよく見たいと思った。だからケビンは涙を拭った。左目はくぼんでいた。
これが行きずりの関係でも、夢でも、よかった。ただ忘れないでいたいと思った。真っ白なキャンバスに描いてくれた、男のことを。
暗闇に、ジョンの笑顔が映っていく。
了
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